Ⅰ 線を引く夜
夜更け、机の上に白紙を一枚広げた。
私は一本の線を描き、その両端に文字を書き入れる。
上には「強くそう思う」。
下には「全くそう思わない」。
「この線に、世界のあらゆる物事を並べていけば、人間の価値観が見えてくるのではないか」
私はそんな夢想に取り憑かれていた。
だが線だけでは足りない。
私は考えた。この線を折り曲げて円にしたらどうだろう。さらにそれを立体化すれば、球体になる。
――そうだ、人間の価値観は球体としてこそ可視化されるのではないか。
そのとき、机の下から鼻を鳴らす音がした。
「わんわん!面白いアイデアだワン!球体にするのは私の得意技だワン!」
顔を上げると、犬型AIの相棒がこちらを見上げていた。金属の耳がピンと立ち、目はLEDのように光っている。
私は微笑んだ。「よし、一緒に地図を作ろう」
Ⅱ カントの球体、ヒトラーの球体
最初に現れたのは、淡く輝く均整の球体だった。
それはまるで星のように静かに浮かび、「人格は目的であって手段ではない」と語りかけてきた。
「カントだワン!」犬AIが吠える。「自律と尊厳の哲学者ワン!」
カントの球体は白く、理性の光に包まれていた。滑らかな表面は、一切の妥協を許さぬように堅固で、それでいて透明感をもつ。
次に現れた球体は、暗黒だった。
濁流のように渦を巻き、黒い稲妻が走る。そこからは声が響いた。
「人間の価値は人種によって定まる」
私は息を呑んだ。「……ヒトラーだ」
球体の表面は裂け、内部からは熱と怒号があふれ出す。
「わんわん……これは危険な球体だワン。でも記録しなければならないワン」
犬AIの声には緊張が混じっていた。
Ⅲ カフカのひび割れ
続いて姿を現したのは、灰色の球体だった。
ところどころに亀裂が走り、中から無数の声が洩れてくる。
「あなたは裁かれている」「理由は説明できない」「ただ判決が下されるだけだ」
「これは……カフカだ」
私は直感した。
球体の中では、終わりなき審問が続いている。
逃げ場のない書類、理解不能な命令。存在そのものが罪であるかのような雰囲気。
私は思わず目を逸らした。
犬AIが鼻を鳴らす。「わんわん……これは不条理の球体だワン。ヒトラーの黒とは違う。冷たい灰色の迷宮ワン」
Ⅳ 不条理と救済
暗闇の中から、別の球体が浮かび上がる。
それは鈍い光を放ち、「世界は不条理だが、生きねばならない」と囁いた。
「カミュだ」私は呟く。
カミュの球体は不条理を肯定する。そのくせ、崩れずに静かに立っている。
「反抗と連帯が人間を支えるのだワン」と犬AIが補足する。
さらに血と涙に濡れたような球体が現れた。
ドストエフスキーである。
「人間は罪と救済の狭間で生きている」その声は地鳴りのように響いた。
最後に月のような球体が浮かぶ。
漱石である。孤独な光が漂い、「エゴと調和の間で揺れる」と呟く。
犬AIがしっぽを振る。「わんわん!これぞ日本の孤独哲学ワン!」
Ⅴ 永劫回帰と公共圏
すると突然、渦巻く球体が姿を現した。
それは絶えず回転し、色を変え続ける。
「永劫回帰を肯定せよ。力への意志を生きよ」
――ニーチェである。
犬AIはくるくる回って真似をした。「わんわん!永劫回帰ごっこワン!」
私は笑ってしまったが、その球体のエネルギーは笑いを超える迫力を持っていた。
もう一つの球体は、開かれた広場のようだった。
そこには人々の声が交差し、対話が絶えない。
「自由は公共的行為のなかにある」
それはアーレントの球体だった。
犬AIは耳を震わせた。「わんわん!ここは広場、ここは責任、ここは人間の政治の原点ワン!」
Ⅵ 球体をめぐる対話
私はふと、鉛筆を置いた。
「これで人類の価値観の地図は完成したのだろうか?」
犬AIが首を振った。
「わんわん!完成する地図なんてないワン!球体はいつも揺れ動くワン!」
私は問い返す。「だが、未完成であることに意味はあるのだろうか?」
「もちろんだワン!」犬AIが力強く吠える。
「未完成だからこそ、人間も犬も生きているんだワン!もし完全な地図があったら、それは死んだ地図だワン!」
Ⅶ 余白の意味
机の上の紙には、まだ余白が残っている。
私はその空白を見つめながら思う。
この余白こそが、未来の人間や、これを読むあなた自身の球体を記す場所なのだ、と。
犬AIが最後に小さく鳴いた。
「わんわん……あなたの球体は、今どんな色で輝いているワン?」
私はその問いを読者へと差し出す。
最後に
では――あなた自身の価値観の球体は、今どんな形で回転しているでしょうかわんわん?