はてなブログ大学文学部

読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

炎上と公共討議——強い違和感を覚えた一日

静かな読書から一転して

本来、私は「読書日記」を淡々と綴ることで日常の記録とし、読書の射程を社会や哲学に接続していくことを目的に活動してきた。だが、夕刻から夜にかけて、予期せぬ批判の集中砲火が私のタイムラインを覆った。今回の記事は、その一連の経緯を検証し、私がなぜ「強い違和感を覚えた」のかを整理し、公共討議の観点から問題を明らかにする試みである。

発端——「小説しか読めない」問題

今回の論争の出発点は、私がある投稿に対して引用した「なんで小説しか読めないんだ?」という一言であった。字数制限ゆえに表現を削ぎ落したが、この問いかけは「小説そのものを貶す意図」ではなく、「読書対象が過度に狭くなること」への疑問であった。しかしこの簡略な表現は誤解を招き、「小説を馬鹿にしている」との批判が巻き起こった。

ここで私が「読まない」ではなく「読めない」と書いたことが特に論点となった。「読まない」は選択の自由を意味し、「読めない」は能力の欠如と解釈されやすい。私は「視野が無意識に限定されてしまう状況」を指摘したつもりであったが、結果的に「能力を貶める言葉」と受け止められた。ここに表現の齟齬と受け手の反発の起点がある。

批判と反論の応酬

相手側からは、「愚痴ではなく論点を提示すべき」「小説を選んでいる人を『読めない』と断じるのは馬鹿にしている」といった批判が寄せられた。私は「感情と論点を区別して議論すべき」と応じたが、相手は「それはすでに答えを持った問いかけである」と反論する。さらに、「虫」「家畜」といった比喩を用いた点について、「個人攻撃ではないか」と非難が集中した。私は「コメント欄の状態を形容した比喩であり、個人を否定する意図はない」と説明したが、批判は止まらなかった。

ここで私が強い違和感を覚えたのは、私の発言の意図や文脈を精査する前に、断片的な言葉だけが切り取られ、「人格攻撃」として糾弾される流れが繰り返された点である。公共討議の前提である「ロゴス(対話の検証)」が機能せず、「不快だ」という感情がただちに「危害」と同一視されているのではないか。この構造に深い懸念を抱かざるを得なかった。

ロゴスと感情の境界

プラトンが重視したのは「ロゴス」、すなわち論理と理由による対話である。感情や激情によって対話が壊れるのではなく、むしろロゴスに基づいて相手の意図を検証し、論点を明らかにしていくことが共同体の土台であった。にもかかわらず、今回のやり取りでは「不快だから議論は不要」と断じられ、議論を継続する試みそのものが「論点ずらし」として攻撃された。

ここには「傷ついた」と「危害を加えられた」の境界をめぐる重大な問題が潜んでいる。J.S.ミルの『自由論』における危害原則は、「他者に実質的な危害を与えない限り、表現は保障される」と説く。だが現代のSNSでは、「不快感」が即座に「危害」と見なされ、発言が封じられる。これでは公共討議の可能性が失われてしまう。

批判の論理構造

さらに私に投げかけられた批判の多くは、文脈の確認を経ずに「あら探し」を積み重ねる形式であった。例えば、「議論ができないのは人として終わっている」という発言は、私は「対話が遮断された状態」を形容する比喩として用いたが、「個人への断定的攻撃」として拡大解釈された。また、「自己啓発本しか読まない人には言わないのか」との問いもあったが、私の関心が特定の事例に集中していたにすぎず、意図的に小説読者を狙ったものではない。

こうした誤読や飛躍を前にして、私は強い違和感を覚えた。批判の多くが「問いの検証」ではなく「言葉尻の断罪」に偏っているのではないか。そしてそれが、SNS特有の短絡的な反応の連鎖に支えられているのではないか。

公共討議の可能性

もちろん、批判を受け止め、表現の改善を考えることは重要である。比喩表現が誤解を招いたこと、文脈を説明しきれなかったこと、それらは反省すべき点だ。しかし同時に、「不快」を根拠に議論を拒絶する態度が常態化すれば、社会は討議による合意形成を失い、ただ沈黙と断絶に向かうだろう。

私が求めたいのは、感情を抑圧せよということではない。むしろ感情を起点にしつつも、そこからロゴスへと進み、意図や論理を検証する姿勢である。その過程で誤解が解け、より豊かな理解が生まれるはずだ。プラトンが対話篇で示したように、問いかけは相手を侮辱するためではなく、共同の真理探究の入り口なのである。

問いかけ

今回の騒動を通じて、私は「強い違和感を覚えた」。それは批判そのものではなく、批判がロゴスに向かわず、ただ「不快」を根拠にした断罪で閉じられていく構造に対してである。私は完全ではなく、誤りもする。しかし誤りを理由に議論そのものを閉ざしてしまえば、公共討議の営みは成立しない。

だからこそ私は問いかけたい。——「不快」と「危害」をどのように区別し、私たちはいかにロゴスに基づいた対話を再建できるのだろうか?