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収益爆上がりあざーすww

収益爆上がりあざーすww。書き出しからこれだ。自分でも嫌になるほど軽い。だが、この軽薄さに釣られてあなたがここにいるのだとしたら、それこそがアテンション・エコノミーの真実ではないか。私が「爆上がり」と口にした瞬間、あなたの注意は動かされ、数秒でもいい、スクロールを止めた。その一瞬の時間が、どこかで広告に換算され、誰かの利益に変わる。
アテンション・エコノミーの恐ろしさは、それが外側から与えられるものではなく、私たち自身の欲望や好奇心を媒介にして成立していることだ。収益自慢、炎上ネタ、成功談、スキャンダル。これらは嫌悪される一方で、なぜか目を離せない。「くだらない」と思いながらも覗いてしまう。私自身も例外ではなく、「あざーすww」と茶化しながら記事を立ち上げている時点で、すでに同じゲームのプレイヤーになっている。
この「ゲーム」では、善悪や真偽よりも「注目されるか否か」が勝敗を分ける。誠実に考察を重ねても、派手な数値公開や挑発的な一言のほうが瞬時に注目をさらう。だからこそ「収益公開」や「爆上がり自慢」が横行する。誰もがそれを批判する一方で、誰もがその記事を見に行ってしまう。そしてそのクリックが、批判対象そのものをさらに強化する。
私は「収益爆上がり」と言いながら、実際の収益がどうであれ関係ない。ただ、この言葉が人の注意を動かす「鍵」として強力に機能することを理解しているからこそ、試しに投げてみた。もしあなたがここまで読み進めているなら、私の実験は成功だ。しかしその成功は「批判を超える批判」ではなく、単に同じ仕組みを利用しているに過ぎない。アテンション・エコノミーから逃れようとする試み自体が、すでにアテンション・エコノミーの回路に組み込まれている。この矛盾はどうにもならない。
では、なぜ私たちはこれほどまでに収益や数値の言葉に弱いのか。ひとつは、数値が「努力の証拠」のように見えるからだ。実際にはアルゴリズムの気まぐれや偶然に左右されることが多いのに、収益やフォロワー数は「価値の尺度」として視覚的に突き刺さる。人は不確実性を嫌う。曖昧な「面白い」や「役に立つ」よりも、「数字が伸びている」のほうが即座に安心できる。だから我々は数字に飛びつき、数字を見せびらかす者に「成功者」の仮面を与えてしまう。
しかし、その安心感は極めて短期的だ。今日の収益爆上がりは明日には平凡に戻る。インプレッションの山はすぐに谷に沈む。だからこそ「今日だけ」「今だけ」という言い回しが繰り返され、永続的な価値の錯覚を煽り続ける。私は冒頭で「今日だけです」と書いたが、それは事実以上に、アテンション・エコノミーそのものの性質を表現している。持続しないもの、繰り返し更新し続けなければ消えていくもの。つまり、「いま見なければ損する」と思わせることでしか存在できない脆弱な仕組みだ。
そして恐ろしいのは、我々がそれを理解していながらも抗えないことだ。「どうせ今日だけ」と知りつつ、「どんな数字が出たのか」を見に行ってしまう。批判している人間ですら、拡散することで構造を補強する。この二重性は、アテンション・エコノミーが倫理や理性をあっさり乗り越えることを示している。
では、出口はあるのか。私は確信を持って「ある」とは言えない。ただ、出口を探し続けることが必要なのは確かだ。少なくとも「爆上がり」という言葉に釣られてクリックする自分を自覚すること、その自覚を共有すること。それが最初の一歩になるのではないか。
問題は「彼ら」が収益を上げていることではなく、「我々」がその数字に釣られてしまうことだ。注意は奪われるものではなく、差し出してしまうものだからだ。だから本当に問うべきは、この一点である。


――私たちは、いったいどこまで自分の注意を切り売りし続けるつもりなのだろうか?