〇〇するのやめてもらっていいですか?シリーズ一覧
インフルエンサーと呼ばれる人々は、しばしば「フォロワー数」を盾にする。数万、数十万、あるいは百万人を超える数字が、あたかも人格の証明であるかのように語られる。だが冷静に考えれば、フォロワー数はせいぜい「関心の残骸」でしかない。人々が偶然クリックした「いいね」や、退屈な通勤電車で押した「フォロー」の総計にすぎない。それを「信頼の証」「影響力の裏付け」と誇示する姿は、むしろ滑稽ですらある。人格は数値で測れない。だが、インフルエンサーたちは「数値化された自我」をひたすら売り込むのだ。
この「数値化された自我」こそ、インフルエンサー文化の病理である。本来、人間は矛盾に満ちている。ある日は陽気で、ある日は落ち込み、発言も一貫せず、思考は堂々巡りを繰り返す。それが人間の自然な姿だ。ところが、SNS上でインフルエンサーが演じるのは、過剰に一貫した「キャラクター」である。矛盾を排除し、弱さを隠し、整った物語を構築する。その物語は、フォロワーにとって「消費しやすい」商品であると同時に、本人にとっては「自己の牢獄」となる。つまり、インフルエンサーは自らを囚人にしながら「自由」を謳っているのだ。
そして、その囚人の牢獄を強化しているのは、私たち受け手である。インフルエンサーが「毎日が挑戦です」と言えば称賛し、「努力がすべて」と言えば拍手する。我々は彼らを「模範」として消費し、その模範に従うふりをする。だが実際はどうだろう。誰もが真似できるわけではないし、真似したところで同じ結果が得られる保証もない。それでも「インフルエンサーの言葉」は、あたかも一般法則のように広がっていく。これは宗教ではなく、統計に基づかない擬似科学でもなく、「成功者の偶然を普遍化する詐術」にすぎない。
もっとアイロニーなのは、インフルエンサーたちが口を揃えて「等身大の自分を発信しています」と言うことである。その等身大は、プロが加工した写真であり、計算し尽くされた言葉であり、炎上マーケティングの台本である。つまり、「等身大」という言葉そのものが最も虚構的なのだ。彼らの等身大とは、ちょうど広告モデルが「自然体で写りました」と言うのと同じで、自然体という演出にすぎない。だがその演出を真に受ける人々がいる限り、等身大ビジネスは延々と回り続ける。
ここで見えてくるのは、インフルエンサー文化が「市場化された親密さ」を売り物にしているという事実である。彼らは「みんな友達だよ」「距離はゼロだよ」と言いながら、実際には数万人の匿名的な視線を相手にしている。そこに個別の親密さなど存在しない。それでもフォロワーは錯覚する。「自分は特別に選ばれている」と。だが実際に選ばれているのは財布だけである。広告案件、アフィリエイト、サロン、セミナー――「親密さ」は入口にすぎず、出口では必ず金銭が待っている。つまり、インフルエンサーとは「資本主義的親密さ」の代理人なのだ。
社会批評的に言えば、インフルエンサーは「現代の権威の空洞」を埋める存在である。かつて権威は学者や宗教者、政治家や思想家にあった。だがそれらが信頼を失ったとき、空白を埋めたのがインフルエンサーだ。彼らは学問の裏付けもなければ制度的責任もない。だが、フォロワー数と拡散力によって「新しい権威」として振る舞う。その結果、社会は「声の大きさ」を「真理」と取り違えるようになった。フォロワー数=人格、拡散力=正義。この倒錯こそが、インフルエンサー時代の最大の悲劇である。
文学的に言えば、インフルエンサーは「語り手の不在」を体現している。古典文学における語り手は、物語を紡ぐ者でありつつ、常に不完全で、信頼できない部分を抱えていた。だからこそ物語は豊かだった。だが、インフルエンサーの語りは、過剰に信頼を装い、完全な正しさを演じる。その「完全さ」が虚構であることを誰もが知っていながら、虚構を消費するのがルールになっている。つまり、インフルエンサー文化は「物語の死」を告げている。彼らが発信するのは物語ではなく、ただの「最適化された投稿群」にすぎないのだから。
だから、私は言いたい。フォロワー数を人格の証明にするのやめてもらっていいですか? 影響力を真実の代用品にするのやめてもらっていいですか? 親密さを金銭に変換するのやめてもらっていいですか?
結局のところ、インフルエンサー文化が示しているのは「人間の言葉は、いまや市場にしか居場所を持たない」という不気味な現実である。だが、その市場は脆く、残酷だ。昨日のスターは今日の炎上者であり、今日の炎上者が明日の忘れられた影である。そんな不安定な場所に「自己」を投げ出すことを、果たして「自由」と呼べるのだろうか。
最後に・・・
インフルエンサーを信じることは、本当に自分を信じることと同じなのだろうか?