序論
公共的な討議空間において、発言がどのように受け止められるかは、その意図だけでなく、文脈や受け手の感覚に大きく依存する。とりわけSNSの場は、発言が断片的に拡散され、引用や揶揄とともに再解釈されることで、元の趣旨と異なる文脈で機能することが少なくない。本稿は、読書ジャンルをめぐる一連のSNS上のやり取りを事例に、「事実」と「価値判断」の区別がいかに混乱し、論争を肥大化させるのかを分析する。
1. 事実と価値判断の概念的区別
まず「事実」と「価値判断」を整理しておく。哲学的には、事実(fact)とは検証可能な出来事や状態を指し、価値判断(value judgment)とは「良い/悪い」「正しい/間違い」などの評価的付加を伴う判断である。ヒュームは「事実から価値を導くことはできない」と述べ、いわゆる「ヒュームの法則」を定式化した。他方で、ハーバーマスやパトナムは、社会的実践において事実と価値が厳密に分離できるか疑問視し、両者の相互浸透を論じてきた。
ここで重要なのは、事実の主張がそのまま価値判断として読まれるという混線が現実の討議空間で頻発する、という点である。
2. 事例の概要
今回のやり取りは、「小説以外も読むべきではないか」という問題提起から始まった。具体的には、「なぜ小説しか読めないのか?」という問いが投げかけられた。この表現が多くの反応を呼び、次のような批判が寄せられた。
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「小説しか読めない=視野が狭い、と決めつけている」
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「小説をバカにしている」
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「人の趣味を尊重すべきで、押し付けは迷惑だ」
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「実際に傷ついている人がいる以上、その論理は破綻している」
これに対して発言者は、「小説をバカにする意図はない」「問いかけは決めつけとは異なる」「事実と感覚を区別する必要がある」と応答した。さらに、J.S.ミルの危害原則に基づき「不快」と「危害」を分けて考える必要性を提示した。しかし最終的には相手が「論理は破綻している」「危害原則を守れていない」と断じ、ブロックによって対話は打ち切られた。
3. 「読めない」と「読まない」の差異
議論の一焦点は、「読まない」ではなく「読めない」という言葉の選択であった。「読めない」という表現は、受け手にとって能力否定の含意を帯びやすい。他方、発言者の意図は「小説以外に手が伸びにくい傾向」を指摘するための強調表現であった。
ここで生じたのは、言葉の意図と受け取りのズレである。意図は事実的な傾向の指摘であったが、受け取りは価値判断(侮蔑)として機能した。このズレこそが「事実/価値判断」の混線を典型的に示している。
4. 不快と危害の区別
次に重要なのは「不快」と「危害」の関係である。発言が不快であることは事実でありうる。しかし、それが「危害」にあたるかどうかは別の次元の問題である。
J.S.ミルの危害原則に照らせば、表現の自由は「他者に危害を加えない限り」保障される。もし単なる不快感が危害と同一視されるならば、公共討議は不可能になる。なぜなら「誰かが不快だと感じた」という主観だけで、あらゆる議論を封じることができてしまうからである。
ここで必要なのは、不快の事実を認めつつ、危害との線引きをどこに引くかを議論する姿勢である。しかし実際のやり取りでは「不快=危害」と短絡的に処理され、議論の余地そのものが拒絶された。
5. 感情と論理の接続
相手の最終的な主張は、「理論の正しさでは傷つきを正当化できない」というものであった。これは一見もっともらしいが、実際には「理論がいかにあっても、感情が優先される」という立場表明である。
対照的に発言者の立場は「感情を尊重しつつも、公共の議論には検証可能な論拠が必要」というものであった。両者の間には、「感情優位」か「論理優位」かという根本的な立場の差があった。
この差異は単なる意見の不一致ではなく、討議そのものを継続できるかどうかを決定づけた。結果として、相手は「捨て台詞+ブロック」という形で議論を終了させた。これは論理的決着ではなく、コミュニケーションの遮断による幕引きである。
6. 捨て台詞とブロックの意味
SNSにおいて「さようなら」と捨て台詞を残しブロックする行為は、議論の勝利ではなく、議論からの撤退の演出である。外見上は「主導権を握って終わらせた」ように見えるが、実際には論理的な応答を避けて関係を断ったにすぎない。
これは「議論の不可能性」を象徴する行為であり、事実上の敗北宣言と同義である。なぜなら議論は、反論と再反論の応酬によってのみ成立するからだ。
7. 事実と価値の区別がもたらすもの
今回の一連のやり取りは、事実と価値の区別が共有されない場合、討議が感情的非難の応酬に転化することを示している。
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「小説しか読めないのか?」は、事実的な問いとして提示された。
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しかし受け手は、それを価値判断(見下し)として受け取った。
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そこから「不快」「加害性」「危害原則違反」という批判が派生した。
この過程で事実と価値が混線し、議論は「事実の検証」から「感情の正当化」へとすり替わった。
結論
本事例から導かれる教訓は二つある。第一に、公共の討議においては「事実の指摘」と「価値判断の付与」を明確に区別する必要がある。問いかけは決めつけと同義ではなく、問いかけが成り立つためには受け手もまた「事実と評価を切り分ける」作業に参加しなければならない。
第二に、感情と論理の接続を拒絶してしまえば、議論そのものが成立しなくなる。感情は尊重されるべきだが、それを公共空間で主張するためには検証可能な形に翻訳されなければならない。さもなければ「誰かが不快だから議論は無効」という循環に陥る。
SNSにおける今回の論争は、事実と価値判断の区別が共有されないときにどのような混乱が生じるかを鮮やかに示した一例である。論理と感情、事実と価値、そのいずれをも排除せずに接続する方法を模索することが、今後の公共的討議に求められる課題である。