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愛情を株価チャートみたいに測るのやめてもらっていいですか?

 

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愛情を株価チャートで測ろうとする風潮は、現代において奇妙なほど自然に受け入れられてしまっている。なぜなら、すべてが「可視化」「数値化」「市場化」される時代において、愛情だけが例外であるはずがないからだ。マッチングアプリの画面を開けば「いいね」の数が並び、条件検索が株価指標のように機能し、プロフィールの文言が投資家向け説明資料のように並ぶ。誰かを好きになることは、株を選ぶことと同じで、いかにリスクを回避し、いかに将来性を見込めるかが問われてしまう。そこでは心の揺らぎや不可解な衝動は「ノイズ」として切り捨てられ、安定的な成長曲線を描ける相手こそが「買い」だとされる。

けれども、愛情が株価チャートのように上昇したり下降したりするものだと本気で信じ込むことは、どこかで愛情の本質を裏切る行為ではないか。株価チャートは、市場に参加する無数の意思と不安と投機の総和である。だが愛情は本来、そんな「総和」ではなく、むしろ他者との一対一のかけがえのない関係性であるはずだ。ところが、現代社会では愛情までもが「市場における評価値」として換算される。デートの回数、返信の速度、贈り物の金額、写真に写る笑顔の頻度。これらを数値として並べ、上昇トレンドか下降トレンドかを見極めようとする。まるで証券アナリストのように恋人を分析し、リスク管理を怠らず、損切りのタイミングを探る。愛情が投資対象に矮小化されるとき、それはもはや愛情ではなく「リスク資産」になってしまう。

この「市場化された愛情」は、単に個人の感情の問題にとどまらず、社会そのものを蝕んでいる。なぜなら、愛情を数値化する習慣は、人間の尊厳をも数値化することに直結するからだ。誰かを愛することが「市場価値の上昇」に結びつくのであれば、愛情は純粋な関係性ではなく「資本形成の手段」に転化する。結婚はポートフォリオの最終的な完成形とみなされ、パートナー選びは長期投資か短期投資かの選別作業にすぎなくなる。そこにロマンはなく、あるのは効率性と合理性だけだ。だが合理性に従った愛は、本当に愛と呼べるのだろうか。

文学的に言えば、愛はむしろ株価チャートとは逆の存在である。株価チャートが「予測可能性」に命を預けているのに対し、愛は「予測不可能性」にこそ輝きを見出す。思いがけないタイミングで芽生え、意図せず裏切られ、不可解な理由で続き、時に不条理に終わる。株価の変動は説明可能だが、愛の変動は説明不可能である。この説明不可能性を排除してしまえば、それは愛ではなく単なる「契約」だ。契約であれば数値で測れる。しかし愛であるならば、測ることそのものが冒涜に近い。

にもかかわらず、現代人は「測らずにはいられない」。それは恐怖ゆえである。裏切られる恐怖、時間を浪費する恐怖、他人より劣る恐怖。恐怖を克服するために、人々は「数値」を持ち出す。数値は安心を与える。返信のスピードを秒単位で数え、ハートマークの数を日ごとに記録し、プレゼントの金額を前年度比で比較する。それらを「愛情のKPI」として管理する。だが、それは安心ではなく、むしろ不安の温床である。なぜなら、一度数値化された関係は、永遠に数値で監視され続けるからだ。昨日よりも今日、今日よりも明日、その数値が下がったらどうするのか。上がったとしても、なぜ上がったのかを疑い始める。愛はいつのまにか「チャート監視ゲーム」と化す。そして、その監視は、愛を消耗品に変えてしまう。

社会批評的に言えば、この「株価チャート化された愛情」は、資本主義が人間の最も親密な領域にまで侵入してきた証である。かつて資本主義は労働や財産や消費を対象にしていた。だが今や「感情資本主義」とでも呼ぶべき領域が広がり、愛情までもが取引の単位となる。SNSに投稿されたカップル写真は、証券市場における四半期決算報告のような役割を果たす。外部の「投資家」であるフォロワーがそれに反応し、コメントやいいねが愛情の株価を押し上げる。関係が破綻すれば、まるで企業倒産のニュースのように拡散される。ここでは愛情が私的なものではなく、公共市場で取引される株式のように扱われる。

もちろん、このような状況を批判的に笑い飛ばすことは容易い。だが、笑いながらも私たちはどこかでこの仕組みに参加してしまっている。自分の関係を「見せる」ことで価値を担保し、他人の関係を「眺める」ことで安心を得る。愛情はもはやチャートで測られるだけでなく、チャートで比較される存在になった。他人の愛情が上昇基調にあるとき、自分の愛情が停滞していると感じる。まるで株式市場のベンチマークに取り残された投資家のように、焦燥に駆られる。こうして人々は、自らの愛情をますます「市場的に演出」するようになる。チャートを良く見せるために、実体を犠牲にしてでも、愛を「上昇しているように」装う。それはもはや「愛情」というより「愛情指標」への執着である。

だが、その果てに残るものは何か。数値化された愛情は、数値の揺らぎに怯える愛情でもある。株価チャートが暴落に弱いように、愛情チャートも一度崩れると修復が難しい。上昇基調にあるときには誰もが幸福を感じるが、下降し始めれば互いに責任を押し付け合い、損切りを急ぐ。つまり、数値化された愛情は、最初から「持続するための仕組み」を欠いている。持続とは、数値では測れない「粘り強さ」と「不可解さ」の中にしか宿らないのだ。

だから私は言う。愛情を株価チャートみたいに測るのやめてもらっていいですか? 愛情は利益計算書でも、成長率グラフでも、投資判断でもない。愛情は測れないがゆえに、愛情なのだ。もしそれを測ることに成功したとき、それはすでに愛ではなく、ただの管理可能な資産にすぎないだろう。

 

最後に・・・

あなたにとって、愛情は「資産」なのか、それとも「測れないもの」なのか?