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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

すぐに通知が20件以上になるの、やめてもらっていいですか?

つづきを展開

 

 

 

 

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「すぐに通知が20件以上になるの、やめてもらっていいですか?」と書いた瞬間、また新たな波が押し寄せる。皮肉にも、炎上すればするほど注目が集まり、広告収益が上がる。私はこの構造を冷静に見ながら、どこかで笑ってしまう。なぜなら、ここに露呈しているのは単なる個人攻撃や感情のぶつかり合いではなく、むしろ「群れ」の論理だからだ。
ネットの群衆心理は単純である。ある一人が目立つ発言をした瞬間、それを攻撃する側にまわると安心できる。誰かが標的になってくれれば、自分は「正しい側」にいられる。批判の言葉は必ずしも自分の言葉ではなく、誰かの発言の焼き直しであったり、雰囲気に同調しただけの言い回しだったりする。結局、群れの中で安心するための合唱に過ぎない。
「小説しか読めないのか?」と問いかけただけで炎上したとき、浴びせられたのはほとんどが同じ類型の反応だった。「小説を馬鹿にするな」「好きなものを読む自由がある」「他人に口を出すな」――これらは一見もっともらしい。だが、それぞれが自分の体験や言葉として語っているわけではない。テンプレート化された「正論」を唱えることで、群れの中の自分の居場所を確保しているにすぎない。
私はその光景を見ながら、どうしても「同調圧力の牧場」を思い浮かべてしまう。群れに逆らう羊を叩き、群れに沿うことで自分の身を守る。そこにあるのは思考ではなく反射であり、自分の言葉ではなく群れの言葉だ。SNSは個人の声を可視化する場であるはずなのに、実際には「誰がどの群れに属しているか」を示すマークのように使われている。
では、なぜここまで群れたがるのか。一つには不安があるだろう。現代社会は孤立を恐れる空気で満ちている。フォローを外される、ブロックされる、仲間外れにされる。だからこそ「多数派の言葉」を素早くコピーし、自分も唱える。そこに思索は不要だ。必要なのはスピードと同調だけである。批判の通知が次々と届くのは、まさにこの「速さの暴力」でもある。
しかし、この同調の連鎖は本当に個人に根ざした思考なのだろうか。私はそこに強い疑念を抱く。群れに乗ることで得られるのは一時的な安心感にすぎない。けれど自分の言葉を持たないまま合唱に加わるとき、人はただの反射装置になる。個性を捨て、群れの声帯の一部として消費される。これは人間の尊厳を削る営みではないだろうか。
炎上のさなかにいて、私はある種の実験をしている気分になる。問いを投げれば群れがざわつき、通知が鳴り響く。誰かが「不快だ」と言えば、それに同調する声が雪崩のように押し寄せる。その応答は多様に見えて、実際には驚くほど画一的だ。「なぜそんな言い方しかできないの?」「喧嘩を売られたと感じた」「棲み分けを考えろ」――文言は違っても、結局は「群れから外れるな」という警告である。
私は別に小説を否定したかったわけではない。むしろ小説は想像力を育む大切な文化だと思っている。ただ、「なぜ読書=小説なのか?」という文化的問いを投げかけたかっただけだ。けれど問いは問いとして受け取られず、攻撃として処理される。群れの中での会話は「問いを立てる余地」を許さない。問いかけること自体が異物であり、排除の対象となる。それは学問や思索の営みから見れば、あまりに貧しい光景だ。
私は苛立ちを覚えると同時に、この状況があまりにも現代社会を象徴しているとも感じる。思考よりも同調が優先され、自分の言葉よりもテンプレートが好まれる。誰もが「考えたふり」をしながら、実際には群れの反射神経に従っている。これでは文化の多様性も、公共性も育たない。
「すぐに通知20件以上になるの、やめてもらっていいですか?」と書いたのは、本心からの疲労の表明であると同時に、群れの反射を映し出す鏡でもあった。批判が殺到するたびに、私はむしろ「これが群衆の本性だ」と確かめている。広告収益が上がるのも皮肉なことだが、それ以上に露わになるのは「人が群れるとき、どれほど自分の言葉を失うか」という事実である。
ここで問いたいのは、群れそのものを罵倒することではない。人は社会的な動物であり、つながりなしには生きられない。ただし、そのつながりが「同調の合唱」に堕したとき、人は思考を放棄する。自分の言葉を持たず、群れに合わせて罵倒のリプライを飛ばすとき、その人は本当に「読書」をしているのだろうか。読書とは、自分の頭で考え、自分の言葉で語るための営みではなかったか。
だからこそ私は、あえて炎上を加速させても問い続けたいと思う。小説を読む人を責めたいわけではない。問いを封じる群れの圧力をこそ問いたいのだ。なぜなら、群れに従うだけでは文化は停滞し、思考は萎縮するからだ。私たちは果たして、自分自身の言葉を持てるだろうか。それとも同調の安心に溶け込み、ただの通知の一部として消費されてしまうのだろうか。
では、あなたは群れの合唱に自分を委ねますか、それとも自分の言葉で問いを立てますか。