炎上は突発的な火災のように起こるものではない。むしろ、誰かが灯した小さな火花に、人々が次々と燃料を投げ込み、炎が高く上がる。その場に立ち会うとき、私たちはただ被害者か加害者か、あるいは観客のいずれかに分類されてしまいがちだ。しかし今回私は、観客でありつつ当事者であるという奇妙な位置から、やり取りを「定点観測」することに決めた。ここで記すのは、感情が交錯し、論理が失われ、ラベル化が横行する過程を逐一眺めて得られた報告である。
まず象徴的なのは「人間的に終わっている」という断定だった。この言葉は、対話を切り開くのではなく、むしろ強引に打ち切るための「終端記号」として投げ込まれた。それに対し、私は「注目されたいのですか?」という問いを投げ返した。どちらがより過激で、どちらが対話の余地を残すか。この比較自体が議論を生むはずだったが、実際には「問い」を発した側が説明責任を負わされ、断定した側は免責されるという逆転現象が起きた。ここにはすでに、公共圏における不均衡な力学が現れている。
続いて現れたのは「謝罪」の要求である。謝罪は人間関係を修復する重要な所作だが、同時に形骸化しやすい。謝罪を求める側は、相手が頭を下げる姿を確認した時点で満足するが、それは必ずしも問題の解決や再発防止を意味しない。私は「謝罪の空洞化」を指摘し、むしろ行為の修正こそ責任の果実であると主張した。だが返ってきたのは、「空洞化と言って謝罪を拒むなら、あなたの反省も空洞だ」という批判だった。言葉の意味が入れ子状にひっくり返され、結局「謝れ」という一点に収束してしまう。ここでも、対話の豊かさよりも、形式的な儀式が優先される力学が見える。
次に登場したのは「おもちゃ論」である。「このおもちゃはもうダメだ」という嘲笑が投げ込まれたとき、対話は完全に軽視され、相手は議論を「楽しむ娯楽」へと変質させる。ここには二重の意味での暴力がある。一方的に相手を道具化し、さらにその道具が「壊れた」と断言することで、対話を捨て去る。観客たちは炎上の火柱を観光しながら、廃墟の中に笑い声を響かせる。こうした言説は、まさに「炎上を観光する人々」の典型的態度である。
その一方で、「大丈夫ですか?」という一見親切な言葉も寄せられた。だが裏側には「変な人」というラベルが貼られていた。気遣いと侮蔑が同居する奇妙な言葉の構造。人は本当に両立するのだろうか。私はその矛盾を問い返したが、返答は「どちらも本心」というあっけらかんとしたものだった。ここで見えるのは、言葉の二重性に鈍感であること、そして公共圏での発話の責任を軽んじる態度だ。「本心なら何でも許される」という短絡が支配するなら、公共圏は容易に瓦解してしまう。
観察を続けてわかるのは、多くの批判が「誤謬」に依存していることだ。人格攻撃(ad hominem)、論点のすり替え、二重基準。批判者たちはしばしば「感情的になるな」と説きながら、自らは感情に支配された決めつけを投げ込む。さらに「議論のための基準」を提示せず、ひたすら否定語を重ねる。その結果、対話は「開始される前に終わる」構造に陥る。
では、ここまで観測して、建設的な意見や新しい視点はあっただろうか。正直に言えば少ない。だが一つの学びは、批判の矛先がどう移り変わるかを「現象学的」に追体験できたことだ。断定から謝罪要求へ、謝罪から嘲笑へ、嘲笑から気遣いと侮蔑の同居へ。これらの変遷は、単なる炎上の断片ではなく、公共圏の脆弱さを示す連続的なプロセスとして記録されるべきだ。
炎上の渦中では、「誰が正しいか」よりも「誰が黙らされるか」が問題になる。公共圏の本質は討議可能性にあるはずなのに、実際には「ラベル化」「謝罪要求」「嘲笑」の三点セットによって沈黙が強制される。私はその構図を、身をもって体験した。そして定点観測者として断言できる。これは個人の問題ではなく、公共圏そのものの病理である。
最後に一つだけ問いを残したい。もし公共圏が「終端記号」と「空洞化した儀式」と「観光的な嘲笑」に支配されるなら、私たちはなおそこで言葉を交わすべきなのか。それとも、別の回路――遅さを許容し、誠実な問いを積み重ねる読書の営み――に賭け直すべきなのか。答えはまだ出ない。ただ、この定点観測の記録が、炎上の火をただ観光する態度から一歩進み、炎上をどう再設計できるかを考えるための素材となれば幸いである。