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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

小説の問題整理

つづきを展開

 

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「読書」と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは小説だろう。書店のおすすめ棚、夏休みの読書感想文、SNSの「#読書好きと繋がりたい」――どこを切り取っても、読書と小説はセットで語られやすい。ところが私は、ある時ふと「なぜ読書=小説なのか?」と問いを投げかけた。小説ばかりを推すツイートに対して「なんで小説しか読めないの?」とコメントしただけで、大きな反発を招き、炎上と呼べる事態になった。
寄せられた反応は多様だった。「小説は想像力を育む素晴らしいものだ」「自分は歴史小説に支えられている」「小説をバカにするのは人としてどうか」「学術書なんて読みたくない」など、小説の価値を擁護する声が次々に飛んできた。なかには「なんでそんな言い方しかできないの?」「問いのつもりでも喧嘩を売られたと感じる」「需要と供給の問題だから議論にならない」という批判もあった。つまり、私の意図は「文化的な問い」だったが、それは「小説を読む人への攻撃」として受け取られてしまったのだ。
ここにあるのは単なるコミュニケーションの齟齬だろうか。それとも、もっと深い文化的な構造があるのだろうか。私は後者だと思う。なぜなら、「読書=小説」という構図があまりにも強固に社会に浸透しているため、それに異議を唱える言葉が即座に敵意と見なされてしまうからだ。
振り返ってみると、批判の中には示唆に富むものもあった。「棲み分けの問題だ」「ここは小説を楽しむ場で、学問的議論は別の場所でやればいい」という指摘は、SNSがどのように使われているかをよく表している。確かに多くの人にとって、TwitterやXは余暇の場であり、気軽に好きな小説を語るコミュニティだ。そこに「なぜ小説だけなのか」という問いを突然投げ込めば、違和感をもたれるのは当然かもしれない。
一方で、「小説だけ読んで何が悪い」「好きな本を読めばいい」という反応もあった。これももっともだ。読書は自由であるべきで、誰かに強制されるものではない。しかしここで私が問題にしたかったのは、個人の選択を責めることではなく、なぜ社会的に「読書=小説」が標準になってしまっているのか、という構造そのものなのだ。
この構造の背後にはいくつかの要因がある。
第一に、教育制度の影響。小学校から高校にかけての「読書感想文」では小説がほとんどを占める。課題図書に思想書やノンフィクションが選ばれることは稀だ。そのため「本を読む=小説を読む」というイメージが子ども時代に刷り込まれる。
第二に、出版市場の構造。書店に行けば、文芸書が読書の顔として並んでいる。メディアが取り上げる文学賞も小説が中心だ。哲学や思想の本も存在するが、一般向けに大々的に紹介される機会は少ない。その結果、読書の公共的な顔は小説に固定されていく。
第三に、語りやすさの問題。批判してきた人の中にも「小説は想像力を育む」「人を動かす力がある」という言葉があった。まさにそれこそ小説の強みである。他人と語り合うとき、小説の物語や人物は共有しやすい。一方で、哲学書や専門書の議論を共有するのは難しい。だから「みんなで読書を語る」とき、話題は小説に集中しやすいのだ。
第四に、「娯楽」と「実用」の区別。ビジネス書や専門書を読むことは「勉強」と呼ばれやすく、「読書」とは区別される。小説には「趣味」「余暇」「教養」といった響きが伴うため、「読書」という言葉が担う文化的な位置は小説に集中する。
これらの要因が重なり合い、読書文化は小説に偏る。その偏り自体が悪いわけではない。だが、偏りがあまりに強固になると、問いを立てること自体が排除される。今回の炎上が象徴的だったのはそこだ。私は「小説だけなのか?」と問うたつもりだったが、返ってきたのは「小説を馬鹿にするな」「不快だ」という応答だった。問いが共有される前に、攻撃として解釈されてしまったのである。
もちろん、私の言い方が拙かったことは否定できない。「視野が狭いのでは」と投げかければ、マウントや喧嘩腰に見えるのも当然だろう。だが同時に、問いを立てる行為そのものが敵意として処理されてしまう文化的背景があるのではないか。つまり「小説が読書の標準である」という前提が強すぎて、それを疑う言葉がそもそも通じにくいのだ。
もし教育や市場やSNSが「小説以外の読書」をもっと可視化していたら、この問いは攻撃ではなく、議論として受け止められただろうか。たとえば科学エッセイや思想書を読む人がもっと公共的に発言していれば、今回のやりとりも違った展開をしたかもしれない。
この経験から私が痛感したのは、読書文化の多様性を語ることの難しさである。「読書=小説」という構造を崩すことは、小説の価値を否定することではなく、むしろ多様性を取り戻すことだ。小説は人生を癒し、想像力を広げる。その力を尊重した上で、それだけが読書ではないと語る必要がある。
炎上は痛みを伴ったが、それ自体が一つの縮図になった。問いを立てることの困難さ、問いを立てる場の選び方の問題、そして文化的前提の強さ。批判の声も含めて、そこに現れたものは「読書=小説」という社会の構造だった。
では、私たちはどうすればよいのだろうか。小説以外の読書をもっと公共的に語る場をつくるのか、教育の枠組みを広げるのか、市場のあり方を変えるのか。問いを立てること自体が炎上に見えてしまう現状を前にして、なお私たちはどのように読書文化の多様性を取り戻せるだろうか。