
続を展開
nainaiteiyan.hatenablog.com
プラトン梟対話篇『コンカツ』
第九篇 第一印象と真実
休憩が終わる少し前、会場の入口近くで、小さな騒ぎが起きた。
一人の女が、係の者へ何かを訴えていた。
女は声を荒らげてはいなかった。しかし顔はこわばり、手に持ったプロフィールカードの端が折れ曲がっていた。
ヒュメナイオスが近づいた。
「どうされましたか」
女は周囲を気にしながら、低い声で答えた。
「次の方とは、話したくありません」
「何か失礼なことを言われましたか」
「いいえ」
「身体に触れられたり、威圧されたりしましたか」
「そういうことではありません」
「では、何があったのでしょう」
女は言葉を探した。
「うまく説明できません。ただ、嫌な感じがしたのです」
ヒュメナイオスは少し困った表情を見せた。
「具体的に、どのようなことでしょう」
「分かりません」
「発言ですか」
「いいえ」
「視線ですか」
「それも、はっきりとは」
「では、会話の内容に問題はなかったのですね」
「内容だけなら、普通でした」
「それでも、もう話したくないと」
「はい」
ヒュメナイオスは周囲を見た。
次の回転まで、あまり時間がなかった。
「相手の方に何か伝える必要があります。理由がないまま席を外すと、相手も戸惑います」
女は言った。
「理由がなければ、断ってはいけないのでしょうか」
ソクラテスは少し離れた場所から、その言葉を聞いていた。
彼は女のそばへ歩み寄った。
「君は何という名か」
女は彼を見た。
「フィラです」
「フィラよ。君はその男を悪い人だと思うのか」
「分かりません」
「危険な人だと思うのか」
「それも分かりません」
「では、何が分かっているのか」
「私が、もう近くにいたくないということです」
「その気持ちは、真実か」
フィラは少し考えた。
「少なくとも、今はそう感じています」
「では君には、相手についての知識はないが、自分の状態についての知識はあるのだね」
「そうかもしれません」
ヒュメナイオスが言った。
「しかし、第一印象だけで相手を決めつけるのはよくありません」
ソクラテスは彼を見た。
「君は先ほどまで、第一印象で次に会う者を選ばせていたのではなかったか」
「もう一度会いたいかを判断するための第一印象です」
「では、もう会いたくないという第一印象も、同じように認めるべきではないか」
「理由があるなら認めます」
「第一印象とは、理由が分かるものなのか」
「まったく理由がなければ、単なる思い込みかもしれません」
「理由が分からないことと、理由がないことは同じか」
ヒュメナイオスは答えなかった。
ロギステスが近づいてきた。
「何がありましたか」
ヒュメナイオスが事情を説明した。
ロギステスはフィラに尋ねた。
「例えば、距離が近かった、質問がしつこかった、目を合わせ続けた、話を遮ったなど、思い当たることはありませんか」
フィラはしばらく黙った。
「距離が近かったかもしれません」
「どのくらいです」
「分かりません。椅子を少し前に動かしていました」
「それが不快だったのですか」
「それだけではないと思います」
「他には」
「私が答えると、すぐに次の質問をされました」
「会話を続けようとしたのでは」
「そうかもしれません」
「では、相手に悪意があったとは限らない」
「はい」
「それでも嫌だった」
「はい」
ソクラテスが尋ねた。
「フィラよ。相手に悪意がなければ、君は不快になってはならないのか」
「そうではないと思います」
「相手が善意なら、君は近くにい続ける義務があるのか」
「ありません」
「では、相手が悪い人でなくても、君は離れてよい」
フィラはうなずいた。
ヒュメナイオスは言った。
「離れる自由はあります。ただ、相手を危険人物のように扱うのは慎重でなければなりません」
ソクラテスは答えた。
「それも正しい」
フィラは二人を見た。
「では、私はどうすればよいのでしょう」
ソクラテスは尋ねた。
「君は、相手を罰したいのか」
「いいえ」
「他の者にも会わせたくないのか」
「そこまでは分かりません」
「ただ、自分は話したくない」
「はい」
「ならば、そのことだけを伝えればよいのではないか」
ヒュメナイオスが言った。
「理由を尋ねられたらどうします」
「分からない、と答えてはいけないのか」
「相手は納得しないでしょう」
「相手が納得しなければ、拒むことはできないのか」
ヒュメナイオスは少し黙った。
「拒むことはできます。しかし理由が分からなければ、相手も改善できません」
「拒絶は、相手を改善するために行うものか」
「そうではありません」
「では、改善できる説明を与えなければ拒んではならない、ということにはならない」
「なりません」
「相手には、理由を知る権利があるのか」
ヒュメナイオスは考えた。
「場合によります」
「誰かが君と結婚したくないと言ったとき、君は理由をすべて知る権利を持つか」
「持たないでしょう」
「では、相手が拒絶を理解できないまま残されることもある」
「あります」
「理解できないことは苦しい」
「はい」
「だが、その苦しさを避けるために、拒む者へ説明を強制すれば、拒む自由が弱くならないか」
ヒュメナイオスは答えなかった。
フィラは小さく息を吐いた。
「私は、その方を悪い人だと言いたいわけではありません。ただ、自分の感覚を無視して、もう一度話すのが怖いのです」
ロギステスが言った。
「感覚は、必ずしも正しいとは限りません」
フィラは彼を見た。
「正しくなければ、従ってはいけませんか」
「そうは言っていません。ただ、偏見の場合もあります」
「偏見とは何ですか」
ロギステスは少し考えた。
「相手について十分に知らないまま、ある特徴だけから否定的に判断することです」
「第一印象は、すべて偏見ではありませんか」
ソクラテスが尋ねた。
ロギステスは答えた。
「すべてではありません。表情、声、距離の取り方、話し方などから、人は多くの情報を受け取ります」
「十分に知らないまま判断することには変わりない」
「そうです」
「では、第一印象と偏見は、どこで分かれる」
ロギステスは答えなかった。
ソクラテスは続けた。
「知らない者について判断するのが偏見なら、第一印象はすべて偏見になる。だが第一印象をすべて捨てれば、危険を感じた者も、その感覚を無視しなければならない」
ヒュメナイオスが言った。
「だから、具体的な行動を確認するのです」
「具体的な行動が起きるまで、待たなければならないのか」
「危険だと断定するには、何か根拠が必要です」
「離れるためにも断定が必要か」
「離れるだけなら必要ありません」
「では重要な区別があるね」
「何でしょう」
「相手について真実を語ることと、自分の行動を決めることだ」
ロギステスはソクラテスを見た。
「どういう意味です」
「フィラは、あの男が危険だと断定するには、根拠が足りないかもしれない」
「はい」
「しかし、自分はもう話したくないと決めるには、自分の不安だけでも足りるかもしれない」
「そういうことです」
「つまり第一印象は、相手の本質を決める証拠には弱いが、自分の距離を決める材料にはなり得る」
フィラは静かにうなずいた。
ヒュメナイオスは言った。
「それなら、相手を評価するのではなく、自分の希望として処理すればよいのですね」
「そうかもしれない」
「『危険な人だった』ではなく、『私は不安を感じたので、もう話したくない』と」
「前者は相手についての断定であり、後者は自分についての報告だ」
「同じことではないのですね」
「君は同じだと思うか」
ヒュメナイオスは首を振った。
フィラは運営係へ向き直った。
「次の会話は辞退します。相手の方に問題があると断定するつもりはありません。ただ、私は不安を感じました」
係の女はうなずいた。
「分かりました。席を調整します」
フィラは少し安心したように見えた。
しかしロギステスは、まだ考えていた。
「それでも難しさは残ります」
ソクラテスは彼を見た。
「何がだ」
「第一印象による不安が、偏見から生まれている場合です」
「例えば」
「声が低い、体が大きい、特定の地方の訛りがある、職業に先入観がある。そうした特徴だけで怖いと感じることもあります」
「その場合、その感覚へ従ってはならないのか」
「従うなとは言えません。しかし、感覚を正しいものとして固定すれば、不当な排除になります」
「では、自分を守るために離れることは認めるが、その感覚を相手の本質へ広げてはならない」
「はい」
「しかし、離れれば結果として相手は排除される」
「その人との関係からは」
「多くの者が同じ偏見を持てば、一人の者が繰り返し排除される」
「そうなります」
「誰も悪意を持たず、それぞれが自分の感覚へ従っただけでもか」
「あり得ます」
「では個人の自己防衛が集まると、制度的な排除になることがある」
ロギステスはうなずいた。
「あります」
フィラの顔に、再び不安が浮かんだ。
「では、私は我慢して話すべきだったのでしょうか」
ロギステスはすぐに首を振った。
「違います。個人に、制度全体の不公平を一人で背負わせるべきではありません」
「では誰が背負うのか」
ソクラテスが尋ねた。
ロギステスは黙った。
ヒュメナイオスが答えた。
「運営でしょう」
「運営は何をする」
「どのような理由で特定の人が繰り返し避けられているのかを見ます。誤解を招く行動があるなら本人へ伝えます。偏見が強く働いているなら、参加者への説明や形式を見直します」
「本人に問題がある場合と、周囲に偏見がある場合を、どう区別する」
「簡単ではありません」
「同じ結果が出るからか」
「はい。多くの人が避けているという結果だけでは、その本人の行動に問題があるのか、多くの人が同じ偏見を持っているのか分かりません」
「多数が避けることは、危険の証拠か」
「証拠にはなりません」
「多数の感覚も、誤ることがある」
「あります」
「では、希望数の少なさを本人の改善点として返すことは危険だね」
ロギステスは答えた。
「慎重であるべきです」
「例えば、笑顔が少ないから選ばれないと助言する」
「あります」
「だが参加者が、笑顔の少ない者を不当に怖がっているだけかもしれない」
「あり得ます」
「話す速度が遅いから不利だと助言する」
「はい」
「しかし速く話すことを善とする形式の側に問題があるかもしれない」
「あります」
「年齢が理由で選ばれにくい」
ロギステスは少し黙った。
「それもあります」
「そのとき本人に、年齢を改善せよとは言えない」
「言えません」
「では、選ばれない結果には、本人が変えられること、変えられないこと、変える必要のないこと、制度が変えるべきことが混ざっている」
「その通りです」
「それをすべて本人の魅力不足として返せば、不正ではないか」
「不正だと思います」
ヒュメナイオスはロギステスを見た。
「今後の結果説明を見直す必要があるかもしれません」
ロギステスはうなずいた。
そのとき、先ほどフィラが避けた男が、少し離れた席からこちらを見ていた。
男の名札には、アンドロンと書かれていた。
彼は係の者に呼ばれ、次の会話が変更になったことを告げられていた。
アンドロンは理由を尋ねたが、係の者は「相手の希望です」とだけ答えた。
彼はしばらく黙っていた。
やがてソクラテスのところへ歩いてきた。
「私が何かしたのでしょうか」
フィラの身体が少し強張った。
ソクラテスはアンドロンに尋ねた。
「君は、何かしたと思うのか」
「分かりません。普通に話していたつもりです」
「普通に話すことと、相手が安心することは同じか」
「違うかもしれません」
「相手が不安を感じれば、君は悪い人なのか」
「そうは思いません」
「では、なぜ理由を知りたい」
アンドロンは答えた。
「直せることなら直したいからです」
「直せないことなら」
「納得するしかありません」
「理由が分からなければ」
「自分の何が悪かったのか、ずっと考えると思います」
ソクラテスはフィラを見た。
フィラは口を開きかけたが、何も言わなかった。
ヒュメナイオスが言った。
「相手には、詳しい理由を伝える義務はありません」
アンドロンはうなずいた。
「分かっています。でも、私は危険な人だと思われたのでしょうか」
ソクラテスは尋ねた。
「そう思われたとしたら、君は危険な人になるのか」
「なりません」
「では、相手の印象が君の真実を決めるわけではない」
「はい」
「しかし傷つく」
「傷つきます」
「なぜか」
アンドロンは考えた。
「自分では普通にしていたのに、相手には違って見えたからです」
「君は自分を知っているか」
「ある程度は」
「相手は君を知っているか」
「六分だけです」
「では相手は、君の一部しか知らない」
「はい」
「君自身は、相手の見た君を知っているか」
アンドロンは黙った。
「知らない」
「そうです」
「相手は君の全体を知らず、君は相手から見えた自分を知らない。その二つの無知の間で、第一印象が生まれる」
アンドロンは小さく息を吐いた。
「では、何も分からないのですね」
「何も、ではない」
ソクラテスは答えた。
「君は、自分の意図とは違う何かが相手へ伝わることがあると知った」
「でも、何が伝わったか分かりません」
「分からないまま、次にどうする」
アンドロンは考えた。
「少し距離を取るようにします」
フィラが顔を上げた。
アンドロンは彼女を直接見ずに続けた。
「私は会話中、相手の声が小さかったので、聞き取ろうとして椅子を近づけました。質問を続けたのも、沈黙させたくなかったからです」
フィラは言った。
「そうだったのですね」
アンドロンはうなずいた。
「怖がらせるつもりはありませんでした」
フィラは答えた。
「分かりました。でも、私は怖いと感じました」
二人は黙った。
ソクラテスが尋ねた。
「一方に悪意はなく、他方の恐れも偽りではない。このとき、どちらが正しいのか」
誰も答えなかった。
アンドロンは言った。
「私が悪くなかったなら、もう一度話してもらえますか」
フィラは首を振った。
「それはできません」
「なぜです」
「理由を知っても、不安が消えたわけではないからです」
アンドロンの表情が曇った。
「では説明しても意味がなかった」
ソクラテスは言った。
「意味がなかったのか」
「結果は変わりません」
「結果が変わらなければ、理解には意味がないのか」
アンドロンは答えなかった。
フィラが言った。
「私は、あなたが悪意を持っていたわけではないと分かりました」
「でも、選ばない」
「はい」
「理解しても、選ばないことはあるのですね」
「あります」
ソクラテスは二人を見た。
「これは先ほど話したことと同じではないか。相手を理解することと、相手を選ぶことは同じではない」
アンドロンはうなずいた。
「分かりました」
彼はフィラへ頭を下げた。
「怖がらせたことは謝ります。悪意はありませんでしたが、不安にさせたことは事実なので」
フィラも頭を下げた。
「理由を言えず、危険な人のように扱ってしまったなら、すみません」
アンドロンは言った。
「もう話したくないということは、謝らなくてよいと思います」
二人はそれ以上話さなかった。
理解は生まれた。
しかし関係は始まらなかった。
ソクラテスはヒュメナイオスへ尋ねた。
「君は、この出来事を成功と呼ぶか」
「マッチングにはつながりませんでした」
「では失敗か」
「トラブルにならず、互いに事情を理解できたという点では、失敗ではありません」
「成婚も交際も生まれていない」
「はい」
「それでも価値がある」
「あると思います」
「君の統計には残るか」
ロギステスが答えた。
「通常は、マッチング不成立として残ります」
「理解が生まれたことは」
「記録されません」
「では数字の上では、何も起きなかったことになる」
ロギステスは黙った。
「恋愛も始まらず、結婚にも進まなかった。しかし一人は自分の距離の取り方を知り、一人は不安を説明できないまま断る自由を知った」
「はい」
「制度が目的としない価値は、制度には見えないのか」
ロギステスは答えた。
「見えるように設計しなければ、見えません」
「設計すれば、理解も点数にするのか」
ロギステスは苦笑した。
「それは避けたいですね」
「測らなければ見えず、測れば形が変わる」
「はい」
「君の仕事も難しいね」
「ようやく分かっていただけましたか」
「ますます分からなくなった」
会場に小さな笑いが起きた。
鐘を持った係の女が、ヒュメナイオスへ近づいた。
「再開してよいでしょうか」
ヒュメナイオスはうなずきかけた。
しかしその前に、エラトーが手を挙げた。
「一つ、聞いてもよいですか」
「どうぞ」
ヒュメナイオスが答えた。
エラトーはソクラテスを見た。
「私は、第一印象を信じやすいほうです。話しやすい人はよい人に思えますし、違和感がある人は避けたくなります」
「それは悪いことか」
「今日の話を聞くと、間違っているように思えてきました」
「第一印象が誤るからか」
「はい」
「理性は誤らないのか」
エラトーは黙った。
「条件をよく考え、プロフィールを比較し、時間をかけて判断しても、人は誤る」
「はい」
「ならば直感だけが誤るわけではない」
「そうですね」
「では問題は、第一印象を持つことではないのかもしれない」
「何が問題なのでしょう」
「第一印象を、最終的な真実へ昇格させることではないか」
エラトーは少し考えた。
「話しやすかった、という印象を、この人は誠実だ、に変えてしまうことですか」
「そうだ」
「怖かった、という印象を、この人は危険だ、に変えることも」
「そうだ。ただし自分を守るためには、真実が確定する前に離れてよい」
「相手を断定せず、自分の行動は決めてよい」
「少なくとも、そう考えることはできる」
「難しいですね」
「簡単であれば、哲学者は不要だ」
ノモスが言った。
「哲学者がいることで、会の進行はかなり遅れていますが」
会場に笑いが起きた。
ソクラテスも笑った。
「それは否定できない」
ノモスは続けた。
「私は、第一印象を軽視しすぎるのも危険だと思います」
「なぜか」
「礼儀がない、相手の話を遮る、約束の時間を守らない、店員への態度が悪い。最初に現れる行動には、その人の習慣が出ることがあります」
「すべて偶然ではない」
「はい」
「一度の行動から人格を断定してよいのか」
「断定はできません。しかし警戒はできます」
「どのくらい警戒する」
「同じ行動が繰り返されるかを見る程度です」
「では第一印象は、判決ではなく、次に何を見るかを決める仮説か」
ノモスはうなずいた。
「その言い方がよいと思います」
ロギステスは記録板へ書いた。
第一印象は判決ではなく仮説。
ヒュメナイオスがそれを見た。
「参加者向けの説明に使えそうです」
ソクラテスは尋ねた。
「しかし危険を感じた者に、仮説を確かめるためもう一度会えと言うのか」
「それはできません」
「では仮説を確かめる責任は、本人にはない」
「はい」
「運営が必要に応じて確認する」
「そうします」
「個人は離れてよい。しかし制度は、個人の印象だけで相手を処罰してはならない」
「その通りです」
「そして同じ訴えが重なったときも、人数だけで真実とせず、具体的な行動を調べる」
「はい」
「ずいぶん慎重になったね」
「安全に関わることですから」
「安全と公平が衝突することもある」
「あります」
「安全を重視しすぎれば、根拠の曖昧な排除が起きる」
「はい」
「公平を重視しすぎれば、危険を感じる者へ我慢を強いる」
「はい」
「どちらも守る完全な方法はあるか」
ヒュメナイオスは答えなかった。
ロギステスが言った。
「完全には無理でしょう」
「では、君たちは不完全な情報の中で、不完全な判断をする」
「はい」
「参加者も同じだ」
「はい」
「違いは何か」
「運営の判断は、多くの人に影響します」
「だから責任が重い」
「そうです」
「参加者の第一印象も一人の相手を傷つける」
「はい」
「だから軽く扱ってはならない」
「はい」
「しかし重く扱いすぎれば、何も選べなくなる」
「そうです」
ソクラテスは周囲を見回した。
「この会では、何もかもが重すぎても軽すぎてもいけない」
ヒュメナイオスは苦笑した。
「それが婚活です」
「それが人間なのかもしれない」
鐘が鳴った。
参加者たちは席へ戻った。
フィラには新しい相手が案内された。
アンドロンも別の卓へ移った。
二人が再び話すことはなかった。
しかしアンドロンは次の相手との間に、以前より少し広く距離を取った。
質問した後、すぐに次の質問を重ねず、相手の返事を待った。
フィラは次の相手に対して、自分が不安を感じているかどうかだけでなく、何がそう感じさせているのかを、少しだけ観察しようとした。
それでも不快なら、離れるつもりでいた。
エラトーは、話しやすい相手を前にして、話しやすさを誠実さと同じにしないようにした。
ノモスは、違和感を無視しなかったが、それを相手の本質とも呼ばなかった。
ヘシュキオスは、相手の沈黙を退屈と決めつけず、タキュスは自分の笑顔が信頼そのものではないことを忘れないようにした。
誰も第一印象を捨てることはできなかった。
人は、相手を知る前から、すでに何かを感じるからである。
声を聞き、距離を測り、視線を受け、姿勢を読み、言葉になる前の何かによって、近づくか離れるかを決めている。
その感覚がなければ、人は危険から身を守れないかもしれない。
しかし、その感覚を真実そのものとすれば、人は自分の恐れや偏見を、他者の人格として宣告することになる。
第一印象は真実なのであろうか。
少なくとも、それを感じたという事実は真実である。
しかし、感じたことの理由についても真実なのであろうか。
相手を怖いと感じたことと、相手が危険であることは同じではない。
相手を心地よいと感じたことと、相手が誠実であることも同じではない。
ならば第一印象とは、相手についての答えではなく、自分と相手の間に生じた最初の問いなのであろうか。
そして、自分を守るためにはその問いだけで離れてよいとしても、相手を裁くためには、問いを答えに変えるだけの別の根拠が必要なのではないだろうか。
プラトン梟対話篇『コンカツ』
第十篇 マッチングとは何か
すべての会話が終わると、ヒュメナイオスは会場の中央へ進み出た。
参加者たちの前には、新しい板が配られた。
先ほどまで使っていたプロフィールカードよりも小さく、書く欄も少なかった。
板の上部には、赤い文字でこう書かれていた。
最終希望記入票。
その下には、三つの空欄があった。
第一希望。
第二希望。
第三希望。
さらに小さな文字で、次のように書かれていた。
もう一度お会いしたい方の番号をご記入ください。相互に希望が一致した場合、マッチング成立となります。
参加者たちは一斉に、自分の記録板を見返した。
名前ではなく番号を確認する者がいた。
話しやすさの数字を見直す者がいた。
自由記入欄に書いた短い言葉を何度も読む者がいた。
「優しそう」
「仕事が忙しそう」
「価値観が近い」
「少し違和感」
「判断できない」
「もう少し話したい」
六分間の人間たちが、短い言葉の列として卓の上に並んでいた。
ヒュメナイオスは言った。
「皆さま、あまり難しく考えすぎず、もう一度お話ししたいと思った方をご記入ください」
ソクラテスは希望記入票を持ち上げた。
「ヒュメナイオスよ」
ヒュメナイオスは目を閉じた。
「何でしょう」
「君は、難しく考えるなと言ったね」
「はい」
「人を第一から第三まで並べることは、難しくないのか」
「結婚相手の順位ではありません。もう一度会いたい方の順位です」
「第一希望の者と第二希望の者は、何が違うのか」
「会いたい気持ちの強さです」
「気持ちの強さは数字で並ぶのか」
「少なくとも、優先順位は付けられます」
「同じくらい会いたい者が二人いたら」
「どちらかを第一にしてください」
「なぜか」
「マッチングを行うためです」
「本人の気持ちには差がなくても、制度のために差を作るのか」
「順位がなければ、組み合わせを決めにくくなります」
「では、この順位は参加者の心を記録するものではなく、運営が人を組み合わせるために作らせるものなのだね」
ヒュメナイオスは少し考えた。
「両方です」
「この会では、やはり何もかもが二つだ」
会場に小さな笑いが起きた。
しかし参加者たちの多くは笑わず、板を見つめていた。
ソクラテスは続けた。
「第一希望と第三希望では、相手を望む程度が違うのか」
「普通は違うでしょう」
「第一希望の者とマッチングできなければ、第三希望の者と会ってもよいのか」
「会いたいと思って書いたのですから、よいでしょう」
「第三希望の者は、自分が第三希望であったと知るのか」
「知らせません」
「なぜか」
「傷つく可能性があるからです」
「では順位は、付ける者には必要だが、付けられた者には隠すべきものなのか」
「結果だけを伝えます」
「結果とは」
「相互希望が成立したかどうかです」
「自分が第一希望されて成立したのか、第三希望されて成立したのかは分からない」
「はい」
「相手が第一希望の者と成立しなかったため、自分のところへ来たとしても分からない」
「そうです」
「知らなければ、二人の関係に影響しないのか」
「知る必要はないでしょう」
「真実であっても、知らないほうがよいことがあるのか」
「あります」
「では婚活では、誠実さのためにすべてを明らかにする必要はない」
「相手を不必要に傷つける情報まで伝えることが、誠実だとは思いません」
ソクラテスはうなずいた。
「君の答えには理由がある」
ヒュメナイオスは少し警戒した顔をした。
「その後に、何が続くのでしょう」
「ただ、知らないほうがよい真実を、誰が決めるのかを知りたい」
「運営です」
「なぜ運営に決められる」
「多くの参加者を見てきたからです」
「本人が知りたいと言っても、伝えないのか」
「原則として伝えません」
「本人のためにか」
「はい」
「本人のために、本人の知らないところで、本人が何を知るべきかを決めるのだね」
「保護のためです」
「保護と支配は、どこで分かれるのか」
ヒュメナイオスは返事をしなかった。
ロギステスが言った。
「すべての情報を開示すれば、参加者同士の比較意識がさらに強くなります」
「今でも比較しているのではないか」
「しています。しかし、自分が何位だったかまで知れば、関係が始まる前から不信が生じます」
「第三希望だった者が、そのことを知らずに喜ぶほうが善いのか」
「少なくとも、相互にもう一度会いたいと思った事実はあります」
「順位が違っても、意思はある」
「はい」
「ならば順位は、関係の本質ではないのか」
「最初の時点では、変わる可能性があります」
「第三希望から第一になることもある」
「あります」
「第一希望だった者への関心が失われることもある」
「あります」
「では順位は、その瞬間の仮の並びにすぎない」
「そうです」
「それほど仮のものが、誰と次へ進めるかを決める」
「はい」
「仮の順位が、現実の機会を作るのだね」
ロギステスはうなずいた。
「選択には、いつもそういう面があります」
「どういう面か」
「十分に知らない段階で仮に選んだものが、その後に知ることのできる対象を決めます」
「本を選ぶときもか」
「そうです」
「仕事を選ぶときも」
「そうです」
「友人を選ぶときも」
「友人は、もう少し自然に生まれるでしょう」
「自然に生まれたように見えても、話しかける者と話しかけない者がいる」
「その通りです」
「では人は、選んだ後で知るものを、知る前に選ばなければならない」
「はい」
「その不完全さから逃れることはできない」
「できません」
ソクラテスは、希望記入票を見た。
「では、この票を書くこと自体が不正なのではない」
ヒュメナイオスは言った。
「ようやく分かっていただけましたか」
「ただし、不完全な選択であることを忘れるなら不正になるかもしれない」
「また条件が付きましたね」
「君たちは条件を好むからね」
参加者たちが少し笑った。
そのとき、一人の女が立ち上がった。
深い紫の衣を着た女で、これまでほとんど議論へ加わっていなかった。
女はソクラテスの近くまで来ると、静かに言った。
「私は、あなたに一つ尋ねたいことがあります」
ソクラテスは女を見た。
「喜んで答えよう。君は何という名か」
「ミュルトーです」
「ミュルトーよ。何を知りたいのか」
「あなたは誰を希望するのですか」
ソクラテスは希望記入票へ目を落とした。
「まだ決めていない」
「なぜです」
「六分間では、誰についても十分に分からなかったからだ」
ミュルトーはすぐに答えた。
「それは、皆同じです」
「そうだろう」
「それでも皆、決めようとしています」
「決めるべきかどうかを、私はまだ考えている」
「考えている間、相手の時間は止まるのですか」
ソクラテスは顔を上げた。
「どういう意味か」
「例えば、あなたともう一度話したいと思っている人がいるとします」
「いるかもしれない」
「その人は、あなたが自分を選ぶかどうかを待っています」
「そうだろう」
「あなたは、まだ十分に知らないから選べないと言う」
「その通りだ」
「では、十分に知るまで相手を待たせるのですか」
「相手も待たなくてよい」
「あなたが決めないなら、その人はあなたと進めるのか、別の人へ進むのか分かりません」
「この会では、私が票を出さなければ進めないだろう」
「では、あなたが判断を保留することで、相手の選択も保留される」
ソクラテスは黙った。
ミュルトーは続けた。
「あなたはこれまで、運営者が人を短時間で判断させることを批判してきました」
「批判したというより、何を判断しているのか尋ねてきた」
「言葉はどちらでも構いません。あなたは、六分で人間の価値は分からないと言いました」
「その通りだ」
「プロフィールは人間の要約にすぎないとも言いました」
「言った」
「第一印象は判決ではなく、仮説にすぎないとも」
「そうだ」
「では、あなたは何を根拠に人を選ぶのです」
ソクラテスは少し考えた。
「もう少し話してみたいという気持ちだろう」
「誰にも、その気持ちはなかったのですか」
「興味を持った者はいる」
「ならば、なぜ書かないのです」
「興味と選択は同じではないからだ」
「第一希望へ書くことは、結婚を約束することではありません」
「それは理解している」
「もう一度話すことを選ぶだけです」
「それも理解している」
「それでも書かない」
「順位を付ける理由が、まだ十分ではない」
ミュルトーはソクラテスを見つめた。
「十分な理由ができる日は来るのですか」
会場は静かになった。
ソクラテスは答えなかった。
ミュルトーはさらに言った。
「あなたは、選択には不完全さがあると認めました」
「認めた」
「人は、知る前に選ばなければならないとも」
「そうだ」
「では、理由が不十分であることは、選ばない理由にはなりません」
「なぜか」
「すべての人の理由が不十分だからです」
ソクラテスは目を細めた。
「君は、理由が不十分でも選べと言うのか」
「少なくとも、不十分さを理由に自分だけが選択の責任から降りるのは、公平ではないと思います」
「私は誰かに選ぶ義務を負っているのか」
「誰も好きでないなら、負っていません」
「では私は書かなくてもよい」
「本当に誰にも関心がないのですか」
ソクラテスは答えなかった。
ミュルトーは続けた。
「それとも、誰かを選んで間違えることが怖いのですか」
「間違いを恐れることは悪いことか」
「悪くありません」
「では、なぜ責める」
「間違いを恐れるあまり、誰かに選ばれない責任だけを負わせ、自分は誰も選ばない側へ逃げるなら、それは正しいのでしょうか」
ソクラテスは黙った。
ヒュメナイオスも、ロギステスも何も言わなかった。
ミュルトーは、ソクラテスの手にある空白の票を指した。
「あなたは、順位を付けることが人間を上下に並べるようで嫌なのかもしれません」
「そういう面はある」
「しかし、何も書かなければ、全員を同じように尊重したことになるのですか」
「少なくとも、十分に知らない者へ不当な順位は付けない」
「その代わり、誰にも次の時間を与えない」
ソクラテスは彼女を見た。
「選ばないことは、相手を否定することではない」
「では、選ぶことも他の者を否定することではないでしょう」
ソクラテスは答えなかった。
「あなたは、選ばないことだけを道徳的に安全な場所へ置いていませんか」
「私は安全を求めているのか」
「私にはそう見えます」
「なぜ」
「選べば、誰かを選ばなかった責任が生じます。選んだ相手を誤解していたと分かるかもしれません。選ばれた相手に期待を持たせるかもしれません。あなた自身も拒絶されるかもしれません」
「そうだ」
「何も書かなければ、そのすべてから逃れられます」
「誰も傷つけずに済む」
「本当にそうでしょうか」
ミュルトーは自分の希望記入票を見せた。
そこには、第一希望の欄に番号が一つだけ書かれていた。
ソクラテスの番号であった。
会場の何人かが、息をのんだ。
ソクラテスは票を見た。
「君は私を第一希望にしたのか」
「はい」
「なぜ」
「あなたを結婚相手として理解したからではありません」
「では、何を理解した」
「もう少し話したいと思っただけです」
「私が君を選ばなくてもか」
「それは私には決められません」
「君は傷つくかもしれない」
「傷つくでしょう」
「それでも書いた」
「はい」
「なぜ」
「自分が何を望んだかを、自分で隠したくなかったからです」
ソクラテスは空白の票を見た。
ミュルトーは言った。
「私は、あなたに選べと言っているのではありません」
「では、何を言っている」
「選ばないなら、知らないからではなく、選ばないと決めたのだと認めてほしいのです」
会場は静まり返った。
「判断をしないことと、判断を保留することと、相手を選ばないことを、同じ曖昧な言葉へ隠さないでください」
ソクラテスは長いあいだ答えなかった。
やがて言った。
「君は、私が運営者へしてきたことを、私へしているのだね」
「あなたから学びました」
「では私は、よい教師だったのかもしれない」
「よい教師が、よい参加者とは限りません」
会場に小さな笑いが起きた。
しかしソクラテスは笑わなかった。
ミュルトーは続けた。
「あなたは、条件によって人を選ぶことを疑いました」
「疑った」
「第一印象で選ぶことも」
「疑った」
「順位を付けることも」
「今、疑っている」
「ではあなたは、どのような選択なら正しいと思うのです」
「正しい選択があるのか、私は知らない」
「正しいと分かるまで何もしないのですか」
「誤った選択で人を傷つけたくない」
「選択しないことで傷つく者は、数えないのですか」
ソクラテスはミュルトーを見た。
「君は、私が君を選ばなければ、自分の価値を否定されたと思うか」
「思わないように努めます」
「では傷つかないのか」
「傷つくことと、自分の価値を失うことは同じではありません」
ソクラテスは少し顔を上げた。
ミュルトーは続けた。
「あなたが私を選ばなければ、私は悲しいでしょう。しかし、あなたが私を選ばない理由によって、私の人間としての価値が決まるわけではない」
「君は、先ほどまでの議論を聞いていたのだね」
「はい」
「では私が選ばなくても、君を否定したことにはならない」
「そうです」
「ならば、私は選ばなくてもよい」
「もちろんです。ただし、その選択を、哲学的な無知の中へ隠さずに」
ソクラテスは、初めて小さく笑った。
「君は厳しいね」
「結婚に真剣な者が集まる会ですから」
今度は会場全体が笑った。
ヒュメナイオスも、鐘を持ったまま笑った。
ソクラテスは希望記入票へ筆を置いた。
しかし、まだ何も書かなかった。
「ミュルトーよ」
「何でしょう」
「君が私を選んだのは、私が君にとって最も優れた者だからか」
「違います」
「最も結婚に向いているからか」
「分かりません」
「最も条件がよいからか」
「あなたの条件は、ほとんど空欄です」
会場に再び笑いが起きた。
「では、なぜ第一希望なのか」
「この会が終わった後も、あなたが何を考えるのか聞いてみたいからです」
「第二希望の者より強くか」
「はい」
「なぜ強い」
「説明できません」
「説明できない選択は、不誠実ではないか」
「説明できることだけが誠実なのですか」
ソクラテスは黙った。
ミュルトーは言った。
「私は、自分の選択を完全には説明できません。しかし、説明できないから選んでいないふりをするほうが、不誠実だと思いました」
「君は感情へ従っているのか」
「感情も使っています」
「理性は」
「あなたが他人へどのような質問をし、他人の答えをどのように受け止めたかも見ました」
「では感情と理性の両方だ」
「この会では、必要なものはいつも二つなのでしょう」
ソクラテスは、ようやく笑った。
彼は筆を持ち、第一希望の欄へ数字を書いた。
ミュルトーの番号であった。
会場がざわついた。
ミュルトーは票をのぞき込まなかった。
「なぜ私を選んだのです」
「君が私を第一希望にしたからではない」
「では」
「君によって、私は自分が誰も選ばないことで何を守ろうとしていたかを、もう少し知りたいと思った」
「私ではなく、自分を知るためですか」
「それではいけないか」
ミュルトーは少し考えた。
「最初の理由としては、正直でしょう」
「君は満足しないのか」
「私は、あなたの鏡になるために結婚相手を探しているわけではありません」
「私は結婚を申し込んだのではない」
「もう一度会いたいと書いただけですね」
「その通りだ」
「では次に会ったとき、私自身にも関心を持つかどうかを確かめます」
「それは恐ろしい」
「選ばれるとは、そういうことでしょう」
ソクラテスは答えなかった。
ヒュメナイオスが言った。
「他の希望も記入してください」
ソクラテスは第二、第三の空欄を見た。
「一人だけではいけないのか」
「一人だけでも構いません。ただし、その方と希望が一致しなければマッチングは成立しません」
「多く書けば、成立の可能性は上がる」
「はい」
「では希望者を増やすことは、可能性を広げる」
「そうです」
「しかし本当に会いたいと思わない者を書けば、相手へ偽りの期待を与える」
「その通りです」
「成立率を上げることと、希望を正直に書くことが衝突する」
「あります」
「運営はどちらを勧める」
「少しでも会ってみたいと思うなら、書いてくださいと説明しています」
「少しとは、どの程度か」
ヒュメナイオスは答えなかった。
ソクラテスは第二、第三希望を空欄のままにした。
ロギステスが票を見た。
「一人だけでよいのですか」
「今、七分目を渡したいと思うのは一人だけだ」
「成立しない可能性があります」
「相手も私を選ばなければ、それが答えだろう」
ミュルトーが言った。
「私はもう選んだと見せたではありませんか」
「君が票を変えるかもしれない」
「変えません」
「人の望みは変わると、われわれは話した」
「提出するまでの間に、あなたが何か決定的なことを言えば変えるかもしれません」
「それは十分あり得る」
会場に笑いが起きた。
ヒュメナイオスは票を集め始めた。
参加者たちは一人ずつ、自分の希望記入票を箱へ入れた。
票を入れた後、すぐに後悔したような顔をする者がいた。
書かなかった番号を思い出す者がいた。
第一希望が自分を選んでいるかを想像する者がいた。
第三希望とだけ一致した場合、自分は喜べるのかと考える者もいた。
ロギステスと係の者たちは、箱を奥の卓へ運んだ。
番号を照合し、相互希望を探し始めた。
ソクラテスはその様子を見ていた。
「ロギステスよ」
「今は集計中です」
「一つだけ教えてほしい」
「手短にお願いします」
「二人が互いに希望したなら、なぜマッチングと呼ぶのか」
「希望が一致したからです」
「一致すれば、二人は合っているのか」
「少なくとも、もう一度会いたいという意思が合っています」
「それ以外は」
「まだ分かりません」
「ではマッチしたのは人間ではなく、一つの希望だけか」
ロギステスは票を並べながら答えた。
「そう言えます」
「趣味が合ったのでもない」
「分かりません」
「価値観が合ったのでもない」
「分かりません」
「結婚観が一致したのでもない」
「そこまで確認できていません」
「ただ、互いに次の時間を与えてもよいと思った」
「はい」
「それを、人がマッチしたと呼ぶ」
「分かりやすいからです」
「また分かりやすさだね」
ロギステスは手を止めずに答えた。
「『次の時間を相互に与える意思が一時的に一致しました』では、長すぎます」
「しかし正確だ」
「広告にも結果発表にも使えません」
「真実は、いつも君たちの欄へ収まらない」
ロギステスは苦笑した。
しばらくして、集計が終わった。
ヒュメナイオスは封じられた小さな紙を、一人ずつ参加者へ渡した。
紙には、結果だけが書かれていた。
成立。
不成立。
あるいは、複数成立。
会場の空気が変わった。
紙を開いて微笑む者がいた。
すぐに畳む者がいた。
何も表情へ出さない者もいた。
第一希望とは成立しなかったが、第二希望とは成立した者がいた。
誰とも成立しなかった者もいた。
第一希望から第三希望まですべて成立し、かえって困った顔をする者もいた。
ソクラテスは自分の紙を開いた。
そこには、こう書かれていた。
成立 一名。
ミュルトーも、自分の紙を読んだ。
二人は互いを見た。
ヒュメナイオスが言った。
「マッチングした方は、終了後に連絡先を交換していただきます」
ソクラテスは尋ねた。
「われわれは、今マッチしたのか」
ミュルトーが答えた。
「私たちの希望が、今のところ一致しただけです」
「君は正確だね」
「あなたと話していると、長い言葉が必要になります」
「真実は長すぎるらしい」
「でも、短い時間しかない」
二人は少し笑った。
その近くで、エラトーは自分の結果を見ていた。
彼女は一人と成立していた。
しかし第一希望の相手ではなかった。
ノモスが尋ねた。
「うれしくないのですか」
「うれしくないわけではありません」
「では、なぜ迷っているのです」
「成立した方を第二希望にしたからです」
「会いたいと思って書いたのでしょう」
「はい。でも、第一希望の方には選ばれなかったのだと思うと」
「第二希望の方と会うことに、第一希望の不成立を持ち込むのですか」
エラトーは答えなかった。
ソクラテスが近づいた。
「エラトーよ。君は第二希望の者を選んだのか」
「はい」
「第一希望が成立しなければ会いたくないほど、弱い希望だったのか」
「いいえ」
「では、会えばよいのではないか」
「でも相手も、私を第一希望にしたとは限りません」
「第一でなければ、君は選ばれたことにならないのか」
「分かりません」
「君は順位を知りたいか」
「少し」
「知れば安心するか」
「第一なら」
「第三なら」
「傷つくと思います」
「では君が知りたいのは真実ではなく、自分に都合のよい真実か」
エラトーはうつむいた。
「そうかもしれません」
「それは悪いことか」
「悪いというより、情けないです」
「人は、選ばれたいのではなく、最も選ばれたいのかもしれない」
エラトーは顔を上げた。
「それは、とても嫌な言い方ですね」
「嫌な真実かどうかは、まだ分からない」
ノモスが言った。
「でも、誰でも特別でありたいと思うでしょう」
「特別とは何か」
「他の人ではなく、自分を選んだと思いたいことです」
「相手が他の者とも迷ったなら、君は特別ではないのか」
「最初から自分だけを見てほしいと思う人もいるでしょう」
「まだ知らないうちからか」
「矛盾していますね」
「婚活では、知らない者の中から選ばれ、選ばれた後は最初から特別であったと思いたいのかもしれない」
エラトーは自分の結果用紙を畳んだ。
「私は、第二希望だった方と会います」
「なぜ」
「私はその人に、もう一度会いたいと思ったからです。それ以上の意味は、まだ加えないようにします」
ソクラテスはうなずいた。
会場の反対側では、誰とも成立しなかったヘシュキオスが、一人で座っていた。
タキュスは二人と成立していたが、喜んでいる様子ではなかった。
彼はヘシュキオスへ近づいた。
「大丈夫ですか」
ヘシュキオスは言った。
「大丈夫という言葉の意味によります」
「傷ついていますか」
「少し」
「誰にも選ばれなかったと思いますか」
「はい」
「私たちは、次の六分を与えられなかっただけだと話しました」
「頭では分かっています」
「心では」
「人間として選ばれなかった気がします」
タキュスは隣へ座った。
「私は二人と成立しました」
「よかったですね」
「でも、自分がよい人間だからだとは思えなくなりました」
「なぜです」
「六分で話す技術があっただけかもしれないからです」
「それでも次へ進めます」
「はい」
「私は進めません」
二人は黙った。
やがてヘシュキオスが言った。
「不完全な判断だと分かっても、不完全な判断によって機会がなくなることは変わりません」
ソクラテスは、その言葉を聞いて彼らのもとへ来た。
「君の言う通りだ」
ヘシュキオスは顔を上げた。
「では、分かっても意味がないのでしょうか」
「意味がないとは思わない」
「でも結果は変わりません」
「今日の結果は変わらない」
「ならば何が変わるのです」
「結果から、君自身についてどこまでの意味を引き出すかは変えられるかもしれない」
「それで傷はなくなりますか」
「なくならないだろう」
「では哲学は役に立たない」
ソクラテスは少し笑った。
「哲学が傷をなくすと、誰が言ったのか」
「では何のためにあるのです」
「傷から、真実ではない結論を作らないためかもしれない」
ヘシュキオスは黙った。
ソクラテスは続けた。
「君が今傷ついていることは真実だ」
「はい」
「今日、誰とも希望が一致しなかったことも真実だ」
「はい」
「君には人間として価値がないことは」
ヘシュキオスは答えなかった。
「それは、今日の結果からは導けない」
「でも、そう感じます」
「感じることと、正しいことは同じではないと、われわれは話した」
「はい」
「感情を否定する必要はない。だが感情へ、裁判官の役割まで与えなくてもよい」
ヘシュキオスは結果用紙を見た。
「次も参加すべきでしょうか」
「私には分からない」
「また傷つくかもしれません」
「参加しなくても、傷つくことはある」
「では、どう決めればよいのです」
「君が何を得たいかだけでなく、何を失う可能性まで引き受けられるかで決めるのではないか」
ヘシュキオスは考えた。
「今は、少し休みたいです」
「それも選択だ」
「逃げではありませんか」
「休むことと逃げることは、どこで分かれるのだろう」
ヘシュキオスは苦笑した。
「また問いですか」
「私には、それしかない」
ヒュメナイオスが会場の前へ立った。
「これで本日の進行は終了です。マッチングした方は、係の案内に従ってください。成立しなかった方も、今回はご縁がなかったというだけです。皆さま一人ひとりの価値が否定されたわけではありません」
ソクラテスは、その言葉を聞いた。
「ヒュメナイオスよ」
「まだあるのですか」
「君は今、成立しなかった者の価値は否定されていないと言った」
「はい」
「それは本当か」
「本当です」
「では、成立した者の価値が認められたわけでもない」
ヒュメナイオスは少し黙った。
「そうなります」
「成立したのは価値ではなく、希望だ」
「はい」
「成立しなかったのも価値ではなく、希望だ」
「はい」
「ならばマッチングとは、人間同士が合っていることではない」
「まだ、そこまでは分かりません」
「ただ、同じ時点で、互いにもう一度会う意思を持ったことだ」
「その通りです」
「それ以上でも、それ以下でもない」
ヒュメナイオスはうなずいた。
ソクラテスは参加者たちを見回した。
成立した者は、自分が認められたように感じていた。
成立しなかった者は、自分が否定されたように感じていた。
しかし実際に一致したのは、人格でも価値でも未来でもなかった。
ただ、次の時間を互いに与えるという、短く不完全な意思であった。
それでも、その短い意思を得た者だけが、次の時間へ進む。
得られなかった者は、まだ見せていない自分を見せる機会を失う。
仮の選択が、現実の未来を分ける。
不完全な判断が、その後の完全には戻らない差を作る。
そして、誰もその不完全さから逃れることはできない。
選ぶ者は、相手を十分に知らない。
選ばれる者も、自分がどのように見られたかを知らない。
運営者も、成立した二人が幸福になるかを知らない。
それでも全員が、何かを決めなければならない。
ではマッチングとは、公平な相互選択なのであろうか。
二人が互いに選べば、一方的な審査ではなくなるのであろうか。
それとも、二人が互いを審査しているというだけなのであろうか。
さらに、選ぶことが他者を傷つける可能性を持つとしても、誰も選ばないことは本当に無垢なのであろうか。
判断を保留する者は、慎重なのであろうか。
それとも、判断の結果を引き受けることを、他者にだけ任せているのであろうか。
ソクラテスは、ミュルトーとともに会場の出口へ向かった。
その手には、成立と書かれた紙があった。
しかし彼が得たものは答えではなかった。
これまで他者へ向けていた問いが、初めて自分から離れなくなったという事実だけであった。
プラトン梟対話篇『コンカツ』
第十一篇 選ばれなかった者の価値
会場の出口には、二つの列ができていた。
一つは、マッチングが成立した者の列であった。
彼らは係の者に案内され、別室で連絡先を交換することになっていた。声を抑えてはいたが、顔には喜びを隠しきれない者もいた。互いの番号をもう一度確かめる者、どこで会うかを早くも相談する者、まだ何も決まっていないのに、何かが始まったような表情を見せる者もいた。
もう一つは、成立しなかった者の列であった。
彼らには、次回の催しを案内する紙と、小さな菓子が渡された。
紙には、こう書かれていた。
今回はご縁がありませんでしたが、出会いは一度ではありません。
あなたらしさを大切に、次の一歩へ進みましょう。
ヘシュキオスは、その紙を受け取った。
そしてしばらく眺めてから、係の女へ尋ねた。
「これは、全員に同じものを渡しているのですか」
「不成立だった方へお渡ししています」
「私らしさとは、何でしょう」
係の女は少し困った顔をした。
「ご自身のよさを大切に、という意味です」
「運営の方は、私のよさを知っているのですか」
「個別には把握しておりませんが、どなたにも必ずよいところがあります」
「それなら、なぜ私は誰にも選ばれなかったのでしょう」
係の女は答えられなかった。
ヒュメナイオスが近づいてきた。
「ヘシュキオスさん。今回は、たまたま希望が一致しなかっただけです」
「たまたまですか」
「はい。相性や組み合わせ、参加者の人数、希望の重なりなど、さまざまな要因があります」
「では、私に問題があったわけではない」
「そうとは限りません」
ヘシュキオスは紙を持ったまま、ヒュメナイオスを見た。
「そうとは限らない、というのは、問題があったかもしれないということですか」
「改善できる点がまったくないとは言い切れません」
「先ほどは、たまたまだと言いました」
「結果には、本人の話し方や印象も影響します。しかし、それだけではないという意味です」
「では、私に原因があるのか、ないのか、どちらですか」
ヒュメナイオスは答えに詰まった。
ソクラテスは、ミュルトーとともに別室へ向かう列から離れ、二人のもとへ来た。
「ヘシュキオスよ。君は、原因を知りたいのか」
「はい」
「知れば、傷つかなくなるのか」
「少なくとも、直すことができます」
「直せない原因なら」
「諦めるしかありません」
「直す必要のない原因なら」
ヘシュキオスは黙った。
ソクラテスは続けた。
「例えば、君の話す速さを好まない者が多かったとする」
「はい」
「君は速く話せるように直すべきか」
「この場で選ばれたいなら」
「君が速く話すことで、君らしさが失われてもか」
「選ばれなければ、そもそも知ってもらえません」
「では、知られていない自分を守るために、知られる入口の自分を変えるのか」
「そうするしかないのではありませんか」
「変えた入口から入った者が、その奥にいる元の君を好まなかったら」
ヘシュキオスは答えなかった。
ヒュメナイオスが言った。
「改善とは、自分を失うことではありません。伝わり方を整えることです」
ソクラテスは彼を見た。
「伝わり方を整えれば、選ばれるのか」
「可能性は上がります」
「何を伝える可能性が上がる」
「その人のよさです」
「よさは、伝わらなければ存在しないのか」
「存在はします」
「だが選択には使われない」
「はい」
「すると婚活における価値とは、持っているよさではなく、限られた時間で伝えられたよさなのか」
ヒュメナイオスは答えなかった。
ロギステスが近くで記録を整理していた。
彼は話を聞きながら言った。
「選ばれなかった理由を、一つに定めることはできません」
ヘシュキオスは彼を見た。
「では、分析は何のためにあるのです」
「傾向を見るためです」
「私が選ばれなかった傾向ですか」
「同じような会話評価やプロフィールを持つ人が、どの程度希望されるかを見ることはできます」
「それで私の理由が分かりますか」
「あなた個人の理由は分かりません」
「では、私についての答えではない」
「はい」
「それでも、その数字を私への助言に使うのですか」
ロギステスは少し考えた。
「参考にはできます」
「他の人の傾向を、私の改善点として渡すのですか」
「絶対的なものではありません」
「でも、私はそれを自分の答えとして受け取るかもしれない」
ロギステスは黙った。
ソクラテスが尋ねた。
「ヘシュキオスよ。君は、選ばれなかった理由を知りたいと言った」
「はい」
「相手が君を選ばなかった理由は、一人ずつ違うかもしれない」
「そうでしょう」
「ある者は沈黙を重いと感じた」
「はい」
「ある者は、沈黙を落ち着いていると感じたが、他の者をもっと好んだ」
「はい」
「ある者は君の職業を気にしたかもしれない」
「はい」
「ある者は君の年齢を見たかもしれない」
「はい」
「ある者は、君には何も問題を感じなかったが、別の者との会話がより印象に残っただけかもしれない」
「はい」
「これらを一つにまとめると、何になる」
ヘシュキオスは答えられなかった。
「君が選ばれなかった、という一つの結果になる」
「そうです」
「だが一つの結果が、一つの原因から生じたとは限らない」
「はい」
「それでも君は、自分の中に一つの欠陥を探そうとしている」
ヘシュキオスはうつむいた。
「欠陥があれば、直せるからです」
「欠陥がないまま選ばれなかったとしたら」
「それが一番苦しいです」
「なぜか」
「自分ではどうにもできないからです」
ソクラテスは静かにうなずいた。
「人は、自分に原因があるほうが、まだ安心できることもあるのかもしれない」
ヘシュキオスは顔を上げた。
「安心ですか」
「原因が自分にあれば、自分を変えることで未来を支配できると思える」
「はい」
「偶然や相手の事情や組み合わせが原因なら、自分には支配できない」
「そうです」
「だから人は、自分を責めることで、世界には理由があると信じようとするのかもしれない」
ヘシュキオスは何も言わなかった。
近くにいたタキュスが、成立者の列から離れてこちらへ来た。
「私は二人と成立しました」
ソクラテスは彼を見た。
「そうだったね」
「でも今の話を聞くと、反対のことが起きています」
「何がだ」
「私は、自分が選ばれた理由を、自分の長所だと思いたくなっています」
「例えば」
「話しやすかった。明るかった。結婚への意思が伝わった。そういうところを評価されたのだと」
「実際に、そうかもしれない」
「でも相手が、他の人より少しましだと思っただけかもしれない」
「そうかもしれない」
「人数の組み合わせで、たまたま成立しただけかもしれない」
「そうかもしれない」
「私が第一希望だったとも限りません」
「そうだね」
タキュスは成立の紙を見た。
「選ばれなかった人は、一つの結果から自分の欠点を作る。選ばれた人は、一つの結果から自分の長所を作る」
ソクラテスは言った。
「同じ誤りなのかもしれない」
「では、私は喜んではいけないのですか」
「喜ぶことと、自分の価値を証明されたと思うことは同じか」
「違います」
「次の時間を得たことは喜べばよい」
「はい」
「しかし、その結果を自分の人間的な優秀さの証明にすれば、選ばれなかった者を自分より下に置くことになるかもしれない」
タキュスはヘシュキオスを見た。
「私は、そうしていたかもしれません」
ヘシュキオスは答えた。
「私も、あなたが私より魅力的だから選ばれたのだと思っていました」
「この場では、私のほうが伝わりやすかっただけかもしれません」
「でも、伝わりやすさも魅力ではありませんか」
「魅力の一つではあるでしょう」
「ならば、やはりあなたのほうが上です」
「何の上ですか」
ヘシュキオスは答えなかった。
ソクラテスが尋ねた。
「走る速さで競えば、速い者が上か」
「その競技では」
タキュスが答えた。
「歌の美しさで競えば」
「歌の競技では」
「六分間で、もう一度会いたいと思わせることを競えば」
「この会では、選ばれた人が上になります」
ヘシュキオスが言った。
「では、やはり私は下です」
ソクラテスは彼を見た。
「この会の結果においては、君は次の時間を得られなかった」
「はい」
「それを下と呼びたいなら、呼んでもよい」
ヘシュキオスは少し驚いた。
「否定しないのですか」
「君は、結果まで平等だと言ってほしいのか」
「分かりません」
「実際に差は生じた。タキュスは次へ進み、君は進まない」
「はい」
「その差を、なかったことにはできない」
「はい」
「しかし、どの範囲の差かを問うことはできる」
「範囲ですか」
「六分間で次の時間を得たかどうかの差なのか。結婚相手としての価値の差なのか。人間としての価値の差なのか」
ヘシュキオスは黙った。
「最初の差は、実際にある」
「はい」
「二つ目は、まだ分からない」
「はい」
「三つ目は、この制度では測れない」
「はい」
「だが傷ついた心は、最初の差を三つ目まで広げる」
ヘシュキオスは成立しなかった紙を強く握った。
「止められません」
「止める必要はないかもしれない」
「では、どうすれば」
「広げていることを知るだけでもよいのではないか」
「知れば、苦しくなくなりますか」
「ならないだろう」
「やはり哲学は役に立ちませんね」
「二度目だね」
「何度でも言います」
ソクラテスは笑った。
「傷を治す薬ではないから、役に立たないと言うなら、その通りかもしれない」
「では何です」
「傷を、死刑判決に変えないための言葉かもしれない」
ヘシュキオスは、少しだけ紙を握る力を緩めた。
そのとき、会場の奥から泣き声が聞こえた。
カリステが一人で座っていた。
彼女の手にも、不成立と書かれた紙があった。
エラトーが隣に座り、背中に手を添えていた。
ソクラテスたちは彼女のもとへ歩いた。
カリステは顔を上げた。
「すみません。大げさですよね」
「何が大げさなのか」
ソクラテスが尋ねた。
「一度のパーティーで選ばれなかっただけなのに、こんなに傷つくことです」
「傷つく量は、出来事の大きさで決めなければならないのか」
「皆はそう言います。今回はご縁がなかっただけ、気にしすぎないで、次があるから、と」
「それを聞けば楽になるか」
「なりません」
「なぜか」
カリステは結果用紙を見た。
「私は今回だけで傷ついているのではないからです」
誰も口を挟まなかった。
「以前にも選ばれませんでした。紹介でも断られました。交際が始まっても続きませんでした。家族には、まだ決まらないのかと言われます。友人は次々に結婚しています」
「では今日の紙には、今日だけが書かれているのではない」
「はい」
「過去のすべてが重なっている」
「はい」
「運営は、今回はご縁がなかっただけと言う」
「はい」
「だが君にとっては、今回も、なのだね」
カリステはうなずいた。
ヒュメナイオスが静かに言った。
「しかし、過去の結果が未来を決めるわけではありません」
カリステは彼を見た。
「それも、何度も聞きました」
「事実です」
「事実でも、もう信じられません」
「では、どのような言葉ならよいのです」
「分かりません。でも、『次があります』と言われるたびに、次も頑張らなければならない気がします」
「希望を持ってほしいのです」
「希望を持てない私が、さらに悪いように感じます」
ヒュメナイオスは黙った。
ソクラテスが尋ねた。
「希望は、善いものか」
ヒュメナイオスは答えた。
「人を前へ進ませます」
「休みたい者も、前へ進ませるのか」
「無理にとは言いません」
「しかし紙には、次の一歩へ進みましょうと書かれている」
ヒュメナイオスは、カリステに渡された案内を見た。
「励ますためです」
「励ましは、受け取る者が疲れているとき、命令になることがあるのかもしれない」
ヒュメナイオスは答えなかった。
カリステが言った。
「私は、もう頑張りたくないと思うことがあります。でも、休んだら年齢が上がる。年齢が上がれば、もっと選ばれにくくなる。そう考えると休めません」
ソクラテスは尋ねた。
「君は、前へ進みたいのか」
「結婚はしたいです」
「婚活を続けたいのか」
「分かりません」
「結婚したいことと、婚活を続けたいことは同じではない」
「はい」
「だが婚活をやめれば、結婚を諦めたように感じる」
「はい」
「続ければ、選ばれない結果が積み重なる」
「はい」
「休めば遅れると感じる」
「はい」
「どの道を選んでも、自分を責めるのだね」
カリステは泣きながら笑った。
「そうです」
エラトーが言った。
「私は成立しました。でも、カリステさんより価値があるとは思いません」
ソクラテスは彼女を見た。
「なぜか」
「今日話した人が違っただけです。順番も違いました。私が相手の好みに偶然合っただけかもしれません」
「では君は、成立を自分の価値へ結びつけない」
「そうしたいです」
「だが成立したことはうれしい」
「うれしいです」
「カリステの前で喜うことをためらうか」
エラトーは黙った。
カリステが言った。
「喜んでください。私の前で喜わないようにされると、かえって自分が惨めになります」
エラトーは戸惑った。
「でも、傷つけたくなくて」
「私が傷ついているからといって、あなたまで喜んではいけないことにはなりません」
ソクラテスは二人を見た。
「他者の失敗によって自分の成功を誇ることと、他者が失敗したから自分の成功を隠すことは、どちらも他者を自分の成功の中心に置いているのかもしれない」
エラトーは考えた。
「では、どうすれば」
「君は君の結果を喜び、カリステの傷を軽く扱わなければよいのではないか」
「両方できますか」
「この会では、必要なものはいつも二つなのだろう」
カリステは少し笑った。
「それはもう聞き飽きました」
「君が笑ったなら、まだ使えるらしい」
その近くで、ノモスは成立者の紙を持ちながら、ロギステスと話していた。
「運営は、不成立者へ次回割引を勧めるのですか」
「希望する方には案内します」
「傷ついた直後に」
「継続参加のほうが機会は増えます」
「機会が増えることと、参加すべきことは同じですか」
ロギステスはソクラテスの言葉を思い出したように、少し黙った。
「同じではありません」
「しかし商売としては、続けてもらいたい」
「そうです」
「参加者を励ます言葉と、顧客を戻す言葉は同じなのですか」
ロギステスは答えなかった。
ヒュメナイオスが近づいた。
「私たちは、無理に勧めてはいません」
ノモスは言った。
「でも『次の一歩へ』という紙と一緒に、次回申込書が入っています」
「機会を提供しているだけです」
ソクラテスが尋ねた。
「傷ついた者は、判断力が弱くなることがあるか」
ロギステスが答えた。
「あります」
「自分の価値を取り戻したくて、すぐ次へ申し込むこともある」
「あるでしょう」
「運営は、その心理を知っている」
「はい」
「そのとき申込書を渡すことは、支援か商売か」
ヒュメナイオスは言った。
「両方です」
「君はついに、自分から二つと言ったね」
ヒュメナイオスは苦笑した。
「隠しても仕方がありません。私たちは支援をしていますが、同時に事業でもあります」
「事業だから、利益が必要だ」
「はい」
「参加者が結婚して来なくなれば、顧客を失う」
「そうです」
「不成立で再び来れば、顧客が続く」
「その言い方は悪意があります」
「では正しく言ってほしい」
「成婚を願っています。しかし、すべての人が一度で成立するわけではないので、継続利用も必要になります」
「参加者の成功は、事業にとって顧客の退出でもある」
「はい」
「参加者の失敗は、事業にとって次の利用機会にもなる」
ヒュメナイオスは少し時間を置いてから答えた。
「そういう構造はあります」
会場の空気が少し重くなった。
カリステは、手元の次回申込書を見た。
「では、私が傷ついていることも、商売になるのですか」
ヒュメナイオスはすぐに答えた。
「あなたの傷を望んでいるわけではありません」
「でも、私がもう一度参加すれば料金を払います」
「はい」
「参加しなければ、運営にはお金が入りません」
「そうです」
「では運営は、私に結婚してほしいのですか。それとも参加し続けてほしいのですか」
ヒュメナイオスは黙った。
ソクラテスもすぐには言葉を挟まなかった。
やがてヒュメナイオスは答えた。
「結婚してほしいと思っています」
「事業として損をしてもですか」
「長期的には、成婚した方の評判が新しい参加者を呼びます」
カリステは悲しそうに笑った。
「結局、私の結婚も広告になるのですね」
「そういう意味ではありません」
「では、どのような意味ですか」
ヒュメナイオスは答えられなかった。
ソクラテスが言った。
「ヒュメナイオスよ。君が参加者の幸福を願っていることと、参加者の成功や失敗を事業へ利用することは、両立するかもしれない」
「はい」
「医者も患者が治ることを願いながら、治療によって生計を立てる」
「その通りです」
「教師も生徒の成長を願いながら、授業料を得る」
「はい」
「では金銭を受け取ること自体が、善意を偽りにするわけではない」
「そうです」
「しかし、患者が治らないほど利益が続く医者が、自分の利益と患者の回復を混同しないためには、何が必要だろう」
ヒュメナイオスは考えた。
「倫理でしょうか」
「倫理とは」
「自分に都合のよい結果を、相手のためだと言い換えないことです」
ソクラテスはうなずいた。
「君は今日、最もよい答えをしたかもしれない」
ヒュメナイオスは苦笑した。
「褒められている気がしません」
「気のせいではない」
カリステが尋ねた。
「では、運営は私に何と言うべきなのでしょう」
ヒュメナイオスは答えを探した。
「今回はご縁がなかった、では足りない」
「はい」
「次があります、も苦しい」
「はい」
「あなたには価値がある、と言っても、私たちはあなたを十分に知らない」
「はい」
「改善点を伝えても、それが本当の理由とは限らない」
「はい」
ヒュメナイオスは黙った。
ソクラテスが言った。
「分からないと認めるしかないのではないか」
ヒュメナイオスは彼を見た。
「運営が、何も分からないと言うのですか」
「何もではない。今日、希望が一致しなかったことは分かる」
「はい」
「君が傷ついていることも見える」
「はい」
「だが、なぜ選ばれなかったかを一つに定めることはできない」
「はい」
「君が将来も選ばれないとは言えない」
「はい」
「必ず次は選ばれるとも言えない」
「はい」
「君の人間としての価値について、この結果から言えることはない」
「はい」
「ならば、知っていることと知らないことを、そのまま伝えるしかない」
ヒュメナイオスはカリステを見た。
「カリステさん」
「はい」
「今日、あなたともう一度会いたいという希望は成立しませんでした」
カリステはうなずいた。
「なぜかを、私たちは正確には知りません」
「はい」
「次に成立するかも分かりません」
「はい」
「今すぐ次へ進むべきかも、私たちには決められません」
カリステは少し驚いた顔をした。
ヒュメナイオスは続けた。
「ただ、今日の結果が、あなたの人間としての価値を測ったものではないことだけは言えます。なぜなら、私たちはその価値を測る方法を持っていないからです」
カリステは黙っていた。
「それは、慰めですか」
「分かりません」
ヒュメナイオスは答えた。
「慰めになればよいとは思っています。でも、慰めになると保証はできません」
カリステはしばらく彼を見た。
やがて、小さくうなずいた。
「今まで言われた言葉よりは、信じられます」
「なぜです」
「希望を持てとも、気にするなとも言わなかったからです」
ヒュメナイオスは次回申込書を彼女の前から取った。
「これは、今お渡ししないほうがよいかもしれません」
カリステは言った。
「いえ、持って帰ります」
「申し込むのですか」
「今日は決めません」
「では、なぜ」
「今決めないことを、自分で選びたいからです」
ソクラテスは微笑んだ。
「保留も、認めたうえで行えば選択になるのかもしれない」
ミュルトーが言った。
「あなたの場合は、逃避になりかけていましたが」
会場に笑いが起きた。
ソクラテスはミュルトーを見た。
「君は私への尋問を終えていないようだね」
「次の篇まで取っておきます」
「恐ろしい予告だ」
しばらくして、成立した者たちは別室へ移り始めた。
成立しなかった者たちも、一人ずつ出口へ向かった。
しかし入口から入ってきたときとは、列の意味が違っていた。
入口では、参加条件によって人が分けられていた。
出口では、相互希望の成立によって人が分けられていた。
一方は選ばれた者。
もう一方は選ばれなかった者。
その区別は現実であった。
選ばれた者には次の時間があり、選ばれなかった者にはなかった。
だが制度は、その現実の差を作りながら、その差が人間の価値の差ではないと言わなければならなかった。
そして参加者は、人間の価値の差ではないと頭で理解しながら、それでも自分全体が選ばれなかったように感じていた。
なぜなら、人はプロフィールカードだけを会場へ持ってきたのではないからである。
年齢だけを持ってきたのでもない。
職業だけを持ってきたのでもない。
六分間の話し方だけを持ってきたのでもない。
過去の恋愛、家族からの期待、友人との比較、老いへの恐れ、孤独への不安、自分が愛され得る者であるというわずかな希望を、すべて持ってきていた。
制度が評価したのは、その一部にすぎなかった。
しかし評価される側は、自分を部分だけに分けることができなかった。
だから局所的な結果が、全体的な痛みになる。
「今回は希望が一致しなかった」という狭い事実が、「私は誰からも必要とされない」という広い判決へ変わる。
反対に、「一人と成立した」という狭い事実が、「私は価値のある人間だ」という広い証明へ変わる。
どちらも、制度が直接語ったことではない。
だが制度が順位を作り、結果を分け、次の時間を一方にだけ与えたとき、人々がその差へ価値の意味を加えることは、完全には避けられなかった。
では、選ばれなかった者の価値は、どこに残るのであろうか。
誰にも選ばれなくても存在する価値とは、誰によって確かめられるのであろうか。
運営者が「価値は否定されていない」と言うだけで、その価値は守られるのであろうか。
本人が自分を信じられなくなったときにも、価値はあると言えるのであろうか。
あるいは、人間の価値というものを、選ばれたかどうかとまったく無関係な場所へ置こうとすること自体が、選ばれたいという人間の願いを軽く扱うことになるのであろうか。
人は、価値があると言われたいだけではない。
誰かに選ばれることによって、その価値が現実になったと感じたいのである。
それならば、選ばれなくても価値があるという言葉と、実際には誰からも選ばれなかったという経験のあいだを、いったい何がつなぐことができるのであろうか。
プラトン梟対話篇『コンカツ』
第十二篇 ソクラテスの弁明
参加者のほとんどが会場を出たあとも、何人かはその場に残っていた。
成立した者たちは別室から戻り、連絡先を書いた小さな紙を手にしていた。成立しなかった者たちのうちにも、すぐには帰らず、壁際の椅子に座っている者がいた。
片づけを始めた係の者たちは、卓から花を下ろし、砂時計を箱へ戻していた。
壁に掲げられていた、
条件だけでなく、人柄を見ましょう。
という布も外されようとしていた。
ヒュメナイオスは入口の看板を裏返し、翌日の催しのために別の文句を取り付けようとしていた。
明日の題は、
秋までに見つける、最後の恋。
であった。
ソクラテスはそれを見て言った。
「夏が終わる前に、もう秋の最後の恋が始まるのか」
ヒュメナイオスは答えた。
「季節は待ってくれませんから」
「恋も待ってくれないのか」
「広告の準備が待ってくれないのです」
ソクラテスは笑った。
そのときミュルトーが、会場の中央へ進み出た。
彼女は使われなくなった卓を一つ選び、その上にソクラテスの希望記入票を置いた。
「まだ終わっていません」
ソクラテスは彼女を見た。
「何がだ」
「あなたへの尋問です」
ヒュメナイオスは片づけの手を止めた。
ロギステスも数表を箱へ入れず、卓の横へ立った。
エラトー、ノモス、カリステ、ヘシュキオス、タキュス、フィラ、アンドロンも、それぞれ少し離れた場所から二人を見ていた。
ソクラテスは言った。
「私は告発されたのか」
「はい」
「どのような罪で」
ミュルトーは、卓の上へ三枚の紙を並べた。
「第一の罪。あなたは、他人が人を選ぶ理由を問い続けながら、自分が誰を望むのかを、無知という言葉で隠そうとした」
ソクラテスは黙って聞いていた。
「第二の罪。あなたは、制度が参加者を短時間で判断することを批判しながら、自分は制度の外に立ち、判断によって傷つく責任を引き受けなかった」
ソクラテスは少し首を傾けた。
「第三の罪。あなたは、選択が不完全であることを明らかにしたが、その不完全さの中で選ばなければならない人々に、問いだけを残し、自分は答えを出す者ではないとして逃れようとした」
会場は静かになった。
ソクラテスは尋ねた。
「君は私を、若者を堕落させた罪でも訴えるのか」
「今日は、参加者を決められなくさせた罪です」
会場に小さな笑いが起きた。
ヒュメナイオスが言った。
「それなら私も証人になります。進行は大幅に遅れました」
「だが君は、標語を書き換えたではないか」
ソクラテスが答えた。
「反省させられたことと、営業を妨害されたことは両立します」
「この会では、必要なものはいつも二つだからね」
今度はヒュメナイオスも笑った。
しかしミュルトーは笑わなかった。
「ソクラテス。あなたはこの告発を認めますか」
「認めるかどうかを決める前に、罪とは何かを——」
「それです」
ミュルトーは彼の言葉を遮った。
「何がだ」
「あなたは、何かを決める前に、必ず言葉の意味を問い始める」
「意味を知らずに答えることは危険ではないか」
「危険です。しかし、意味を問い続ければ答えなくてよいのですか」
「私は答えないとは言っていない」
「では、答えてください」
「何を」
「あなたは私に、もう一度会いたいのですか」
ソクラテスは、卓上の希望記入票を見た。
「その票には、そう書いた」
「票の話ではありません。今のあなたに尋ねています」
「今も、もう少し話したいと思っている」
「なぜです」
「君が私へ厳しい問いを向けたからだ」
「私があなたを問い詰めなくなったら、関心を失いますか」
ソクラテスは答えなかった。
ミュルトーは続けた。
「あなたが関心を持っているのは、私ですか。それとも、私によって明らかになる自分ですか」
「人は、他人を通して自分を知ることもある」
「それは知っています」
「では、なぜ問題なのか」
「私があなたのための鏡としてしか存在しないなら、それは私への関心ではないからです」
「君を鏡としてしか見ているつもりはない」
「しか、ではないと、どうして分かるのです」
ソクラテスは考えた。
「君が何を望み、何を恐れ、どのように人を選ぶかを知りたい」
「それを知って、何をするのです」
「君を理解したい」
「理解した後、私を選ぶのですか」
「理解した結果による」
「では私は、理解された後に選ばれるかどうかを審査される」
「君も私を審査するだろう」
「はい」
「ならば相互ではないか」
「相互なら、審査ではなくなるのですか」
ソクラテスは黙った。
ヒュメナイオスが小さく言った。
「それは今日、私が聞かれた言葉です」
ミュルトーはソクラテスから目をそらさなかった。
「あなたは、運営者の言葉を剥がしました。マッチングは人間同士が合っていることではなく、次の時間を互いに与える意思が一時的に一致しただけだと」
「そうだ」
「プロフィールは人間ではなく、比較できる形式への翻訳だと」
「そうだ」
「第一印象は真実ではなく、仮説にすぎないと」
「そうだ」
「条件は人間の価値ではなく、その人が守ろうとしている生活の圧縮かもしれないと」
「そうだ」
「では、あなた自身は何を根拠に、私へ次の時間を与えるのです」
「君をもっと知りたいという気持ちだ」
「その気持ちは、正しいのですか」
「分からない」
「安全なのですか」
「分からない」
「長く続くのですか」
「分からない」
「結婚へつながるのですか」
「分からない」
「では、何も分からないのに会うのですか」
「そうなる」
ミュルトーは、初めて少し笑った。
「ようやく婚活の参加者らしくなりましたね」
会場から笑いが起きた。
ソクラテスは言った。
「私は最初から参加者だったのではないか」
「いいえ。あなたはずっと、会場の中にいる観察者でした」
「違いは何か」
「参加者は、間違える危険を負います。観察者は、間違いを見つけるだけです」
ソクラテスは黙った。
「参加者は、選べば誰かを選ばないことになります」
「そうだ」
「誰かを信じれば、裏切られるかもしれません」
「そうだ」
「自分を見せれば、拒絶されるかもしれません」
「そうだ」
「時間を与えれば、無駄になるかもしれません」
「そうだ」
「それでも、自分の望みを言わなければ、相手には何も始められない」
「その通りだ」
「あなたはその危険を、問いによって避けようとしていませんでしたか」
ソクラテスはすぐには答えなかった。
係の者が箱を運ぶ音だけが聞こえた。
やがてソクラテスは言った。
「そうしていたのかもしれない」
会場が静まった。
ミュルトーも、少し驚いたように彼を見た。
ソクラテスは続けた。
「私は、人が自分の無知を忘れたとき、不正な判断をすると考えていた」
「それは間違いですか」
「間違いではないだろう」
「では」
「しかし、自分が無知であると知ることによって、判断しない自分を正しいと思うことも、不正なのかもしれない」
ロギステスが言った。
「無知の自覚も、使い方によっては偏りになるのですか」
「無知を認めることが、問いの始まりならよい」
ソクラテスは答えた。
「だが無知を理由に、決断の責任から永久に降りるなら、それは知恵ではなく隠れ場所になる」
ミュルトーは尋ねた。
「あなたは、そこに隠れていたのですか」
「隠れていなかったと断言できない」
「なぜ」
「人を選べば、自分の欲望が明らかになるからだ」
「欲望が明らかになることは悪いことですか」
「欲望は、しばしば不合理で、偏っていて、説明できない」
「だから隠すのですか」
「哲学者は、説明できないものを恥じることがある」
「説明できれば、欲望は正しくなるのですか」
「ならない」
「ならば説明できないことを理由に、ないことにしてはならない」
「君の言う通りだろう」
ミュルトーは卓上の第二の紙を指した。
「では、第二の罪について尋ねます。あなたは制度の外に立っていた」
「私は会場にいた」
「場所の話ではありません。あなたは、運営者の矛盾、参加者の偏見、プロフィールの限界を問い続けた。しかし、あなた自身が誰かを選ぶときに生じる暴力を引き受けようとはしなかった」
「選択は暴力なのか」
「誰か一人を選ぶとは、他の者へ同じ時間を与えないことです」
「すべての者と会い続けることはできない」
「はい」
「ならば排除は避けられない」
「はい」
「避けられないものを暴力と呼ぶのか」
「避けられないことと、傷つけないことは同じではありません」
ソクラテスはうなずいた。
「選択によって、誰かの機会が失われる」
「はい」
「しかし、誰も選ばなければ、誰の機会も生まれない」
「はい」
「では選択は、未来を作ると同時に、別の未来を閉じる」
「そうです」
「その閉じられた未来へ責任を負わなければならないのか」
「すべてを補償することはできません」
「では、どのような責任か」
ミュルトーは少し考えた。
「自分が選ばなかった相手を、劣った人間にしない責任です」
会場の何人かが顔を上げた。
「続けてほしい」
ソクラテスは言った。
「私はあなたを選ぶかもしれません。そのとき、他の人を選びません」
「そうだ」
「しかし、私が選ばなかった人が、あなたより劣っていることにはなりません」
「そうだろう」
「私に合わなかった。私が十分な関心を持てなかった。私の時間や勇気に限りがあった。そのことと、相手の価値は同じではありません」
「では選ばない理由を、相手の欠陥だけへ置かない」
「はい」
「自分の側の限界も認める」
「はい」
「選択の責任とは、全員を選ぶことではなく、自分の選択を人間の順位表へ変えないことか」
「それだけではありません」
「他には」
「選んだ相手にも、選ばれ続ける義務がないことを認めることです」
ソクラテスは少し眉を上げた。
「どういう意味か」
「あなたが私を選んでも、私は後であなたを選ばなくなるかもしれません」
「それは困る」
「私はあなたの希望を満たすために存在しているのではありません」
「それは理解している」
「理解している人は、困るなどと言いません」
「理解と感情は別だ」
「ならば、私が選ばなくなったとき、理解を感情より優先できますか」
「できるかは分からない」
「それでも、私の自由を認めますか」
「認めなければならないだろう」
「『ならない』ではなく、認めたいと思いますか」
ソクラテスはしばらく黙った。
「認めたいと思う」
「なぜ」
「君を所有したいのではなく、君と関係を持ちたいからだ」
「所有と関係は、どこで分かれるのです」
ソクラテスは苦笑した。
「今度は君が、私の問い方をするのか」
「答えてください」
「相手の変化や拒絶の可能性をなくそうとするとき、関係は所有へ近づくのかもしれない」
「では結婚は、相手が変わらないという保証ではない」
「そうだ」
「結婚意思とは、未来を固定する意思ではない」
「そうだろう」
「では何です」
ソクラテスは考えた。
「未来が変わる可能性を持った相手と、変化が起きたときにも話し合おうとする意思かもしれない」
ノモスが言った。
「それでは弱すぎませんか」
ソクラテスは彼を見た。
「なぜか」
「困難が起きたとき、話し合った結果として別れることも含まれるからです」
「結婚とは、何が起きても別れない約束か」
「簡単には投げ出さない約束です」
「簡単とは、どの程度か」
ノモスは答えなかった。
ミュルトーが言った。
「私は、永遠を保証する人より、保証できないことを認めながら、逃げずに対話する人を選びたいです」
「それが私だと思うのか」
「今のところは、対話から逃げないように見えます」
ヒュメナイオスが小さく言った。
「進行からは逃げませんでしたね」
ソクラテスは聞こえないふりをした。
ミュルトーは第三の紙を指した。
「最後の罪です」
「問いだけを残した罪か」
「はい」
「問いを残すことは罪なのか」
「答えのない問題もあります」
「ならば、問いを残すしかない」
「しかし、問いを残す者と、その問いの中で生活しなければならない者は同じではありません」
「どういう意味か」
「運営者は、明日も会を開かなければなりません」
ヒュメナイオスはうなずいた。
「参加者は、誰かに会うか、休むか、婚活をやめるか決めなければなりません」
カリステが結果用紙を見ながらうなずいた。
「フィラは、不安の理由が分からなくても離れるか決めなければなりません」
フィラは静かに答えた。
「はい」
「アンドロンは、理由が分からないまま、自分の振る舞いをどう変えるか決めなければなりません」
アンドロンもうなずいた。
「ヘシュキオスは、傷ついたまま次へ進むか、休むか決めなければなりません」
ヘシュキオスは言った。
「今日は休むと決めました」
「タキュスは、選ばれたことを自分の価値の証明にしないようにしながら、成立した二人のうち誰と会うか決めなければなりません」
タキュスは苦笑した。
「まだ決めていません」
「皆、答えのないまま生活へ戻るのです」
ミュルトーはソクラテスを見た。
「あなたは問いを残して帰る。しかし私たちは、その問いの中で明日を決めなければならない」
ソクラテスは答えた。
「哲学が答えを与えられないなら、何をすべきだと言うのか」
「少なくとも、問いを発見した者も、決断の結果を一緒に引き受けるべきです」
「どのように」
「運営の矛盾を指摘したなら、運営者が明日から使える言葉も考える」
「私は広告を書くのが不得手だ」
「得手かどうかではありません」
「プロフィールの限界を指摘したなら、どの情報を、どの理由で尋ねるべきかを考える」
ロギステスが言った。
「それは助かります」
「第一印象の危険を指摘したなら、安全と偏見をどう分けるか、完全でなくても手順を考える」
ヒュメナイオスもうなずいた。
「選ばれなかった者の価値は測れないと言うなら、その者をすぐ次の購入へ誘導しない仕組みを考える」
カリステがヒュメナイオスを見た。
「それも必要です」
「そして、選択が不完全だと言うなら、自分も不完全な理由で誰かを選び、その理由を更新する責任を負う」
ソクラテスは静かに尋ねた。
「理由を更新するとは何か」
「最初に相手を選んだ理由を、その人の本質として固定しないことです」
「例えば」
「明るいから選んだ相手が、後に暗い時期を過ごすかもしれない」
「あるだろう」
「安定した仕事を持つから選んだ相手が、仕事を失うかもしれない」
「あるだろう」
「健康だから選んだ相手が、病気になるかもしれない」
「あるだろう」
「子どもを望むから選んだ二人が、後に希望を変えるかもしれない」
「あるだろう」
「選んだ条件が失われたとき、相手そのものまで失われたと考えるなら、人を選んだのではなく条件を選んだことになります」
「では条件を理由に選んではならないのか」
「条件は理由の一部になり得ます。しかし条件が変わったとき、関係を必ず続けなければならないとも言えません」
「では、どうすればよい」
「分かりません」
ソクラテスは少し笑った。
「君もついに無知を告白したね」
「はい。ただし、分からないことを、何もしない理由にはしません」
ミュルトーはそう答えた。
ソクラテスは長いあいだ、彼女を見ていた。
やがて卓上の三枚の告発状を手に取った。
「私は弁明しなければならないのだね」
「できますか」
「おそらく、完全にはできない」
「では、できる範囲で」
ソクラテスは、残っている者たちへ向き直った。
「アテナイの諸君。私は今日、運営者が恋愛を入口に掲げ、内部で結婚意思を審査することを問うた」
ヒュメナイオスが腕を組んだ。
「私は、真剣さという言葉の中に、結婚への熱意と、他者の時間への責任が混ざっていることを問うた」
ノモスとエラトーが聞いていた。
「私は、気軽さという言葉が、重い目的を軽く見せるために使われることを問うた」
「私は、プロフィールが人間を知る道具であると同時に、人間を比較できる形式へ変える道具であることを問うた」
ロギステスが数表を持ったまま立っていた。
「私は、普通という言葉が、平均、規範、安心を混ぜ、個人の好みを世界の基準へ変えることを問うた」
カリステは、自分の書き直したプロフィールを手にしていた。
「私は、条件が人間の価値ではなく、その人が守ろうとする生活の圧縮であるかもしれないと述べた」
「私は、同じ六分を与えることが、同じ機会を与えることではないと問うた」
ヘシュキオスとタキュスが互いに少し離れて立っていた。
「私は、自然体が何も作らない自分ではなく、相手へ伝わるよう調整された、持続可能な自己表現であるかもしれないと問うた」
「私は、第一印象を相手についての判決ではなく、自分と相手の間に生じた最初の仮説として扱うべきではないかと問うた」
フィラとアンドロンは、互いを見ることなく聞いていた。
「私は、マッチングが二人の人格や未来の一致ではなく、次の時間を互いに与える一時的な意思の一致にすぎないと述べた」
「そして、選ばれなかった者の価値は、この制度には測れないと述べた」
ヘシュキオスとカリステは黙っていた。
ソクラテスは一度言葉を止めた。
「だが私は、自分自身について一つのことを見落としていた」
ミュルトーが尋ねた。
「何です」
「制度が測れないからといって、私が何も望んでいないことにはならない」
誰も口を挟まなかった。
「理由が不完全だからといって、理由が存在しないことにはならない」
「はい」
「人を選ぶことで誰かを傷つける可能性があるからといって、選ばない私は無垢であることにはならない」
「はい」
「分からないと言うことは、誠実である場合もある。しかし、分かっている欲望を言わないための言葉にもなる」
ミュルトーは静かにうなずいた。
「私は君に、もう一度会いたい」
ソクラテスは言った。
「なぜかを完全には説明できない。君が私を問い詰めたからだけでもない。君を理解できたからでもない。君が結婚相手として正しいと分かったからでもない」
「では、なぜです」
「君が何を言うかを聞きたい。そして君に質問するだけでなく、君からの質問によって、自分の望みを隠せなくなることを、もう少し引き受けてみたい」
「それでは、やはり自分のためではありませんか」
「私のためでもある」
「私のためでもありますか」
「それは君が決めることだろう」
ミュルトーはしばらく考えた。
「では、次に会ったときは、私の話を聞いてください」
「今日も聞いたつもりだ」
「あなたは、答えの中から次の問いを探していました」
「それは聞くことではないのか」
「聞くことの一つではあります。しかし、問いに使わずに受け止めることもしてください」
ソクラテスは困った顔をした。
「それは難しい」
「だから、確かめる価値があります」
二人は少し笑った。
ヒュメナイオスが言った。
「では、連絡先を交換しますか」
ソクラテスはミュルトーを見た。
ミュルトーはうなずいた。
係の者が、小さな板と筆を持ってきた。
ソクラテスは自分の住む場所を書こうとして手を止めた。
「私は、多くの場合、市場にいる」
ミュルトーは言った。
「市場のどこです」
「歩いていれば見つかる」
「それでは連絡先になりません」
「では君は、どこにいる」
「あなたが来られる場所を、日時とともに書きます」
「ずいぶん具体的だね」
「関係には、哲学だけでなく予定も必要です」
ロギステスが言った。
「日時は測定できます」
会場に笑いが起きた。
二人は、三日後の日暮れ前に、アゴラ近くの柱廊で会うことを決めた。
ソクラテスは尋ねた。
「この約束は、結婚意思か」
ミュルトーは答えた。
「いいえ。一度会う意思です」
「恋愛か」
「まだ分かりません」
「婚活か」
「少なくとも、会場の外で行う婚活かもしれません」
「では、何なのだ」
「三日後の約束です。それ以上の意味は、その日に考えましょう」
ソクラテスはうなずいた。
「君は、言葉の意味を限定することが上手だ」
「あなたに教わりました」
ヒュメナイオスは、入口の看板を外した。
表には、
秋までに見つける、最後の恋。
と書かれていた。
裏には、小さな文字が並んでいた。
参加によって交際・婚約・結婚を保証するものではありません。
マッチングは相互希望の一致を示すものであり、人格的・生活的適合を保証しません。
キャンセルの場合、所定の料金が発生します。
成立しなかった場合も返金はありません。
ソクラテスは裏面を読んだ。
「こちらのほうが、今日の議論に近い」
ヒュメナイオスは言った。
「こちらを表にすれば、誰も来ません」
「なぜ、真実には人を集める力がないのだろう」
「真実だけでは、人は動かないからです」
「では何が必要か」
「希望です」
「希望は、真実ではないのか」
「真実になる可能性です」
「実現しなかった希望は、嘘だったのか」
「そうではありません」
「では希望とは、まだ真実でも嘘でもないものか」
「そうかもしれません」
ソクラテスは看板の表と裏を交互に見た。
「ならば問題は、希望を掲げることではないのだろう」
「では何です」
「希望の裏面を隠し、その希望が実現しなかった責任を、望んだ者の未熟さにすることだ」
ヒュメナイオスは看板を持ったまま黙った。
ソクラテスは続けた。
「君が恋愛を入口に掲げるなら、恋愛を求めて来た者を軽薄と呼んではならない」
「はい」
「結婚意思を求めるなら、それが相手を知る前から完成しているものではないと認めなければならない」
「はい」
「条件を使うなら、条件が人間の全価値ではないことを、標語ではなく仕組みによって示さなければならない」
「どのように」
「それは君とロギステスが考えるべきことだ」
ヒュメナイオスは眉をひそめた。
ミュルトーが言った。
「また問いだけ残すのですか」
ソクラテスは苦笑した。
「では一緒に考えよう」
ロギステスが卓へ数表を戻した。
「具体的には、結果表示の言葉、評価項目、順位の扱い、不成立直後の再勧誘、判断不能という選択肢などでしょう」
ヒュメナイオスはうなずいた。
「会話時間も、すべて同じ六分だけでなく、希望者向けに長い形式を設けられるかもしれません」
ヘシュキオスが言った。
「それなら参加してみたいです」
タキュスは言った。
「私は短い形式でもよいですが、長い形式では自分が何を話すのか知りたいです」
カリステが言った。
「不成立のとき、すぐ次回を勧めない選択肢も必要だと思います」
フィラは言った。
「理由を説明できなくても、会話を辞退できることを最初に伝えてください」
アンドロンは言った。
「ただし、辞退された人が危険人物と決めつけられない仕組みも必要です」
エラトーは言った。
「結婚時期の欄は、時間だけでなく、相手との関係によって変わると書けるようにしてください」
ノモスは言った。
「それでも、結婚意思がまったくない人と区別する方法は必要です」
ロギステスは、一つずつ記録した。
ヒュメナイオスは看板を壁へ立てかけた。
「ずいぶん複雑な催しになりそうです」
ソクラテスは答えた。
「人間が複雑なのだから、単純な制度によって扱えば、どこかに歪みが出る」
「しかし複雑にしすぎれば、誰も参加できません」
「では、単純にすることは必要だ」
「はい」
「ただし、単純化したものを、人間そのものだと思ってはならない」
ロギステスがうなずいた。
「制度には、人を整理する力だけでなく、自分の整理が不完全であると示す仕組みが必要なのかもしれません」
「制度が、自分は無知であると認めるのか」
「はい」
ソクラテスは笑った。
「では制度も、少し哲学者になれるかもしれない」
ヒュメナイオスが言った。
「ただし、決断から逃げない哲学者に限ります」
会場に最後の笑いが起きた。
やがて参加者たちは、一人ずつ外へ出ていった。
成立した者も、不成立だった者も、同じ出口を通った。
入口では、年齢、職業、結婚意思によって分けられていた者たちが、出口では再び、ただ一人ずつの人間へ戻っていった。
しかし完全に元へ戻る者はいなかった。
選ばれた者は、選ばれた理由を自分の価値と同じにしないようにしながら、次の時間へ進んだ。
選ばれなかった者は、傷を抱えながら、その傷を自分の全価値への判決にしない方法を探していた。
運営者は、人を結びつける制度が、同時に人を比較し、順位づけ、傷つける制度でもあることを知った。
ソクラテスは、問いを向けることが誠実であるだけでなく、答えを避ける技術にもなり得ることを知った。
ミュルトーは、ソクラテスを選んだ。
しかし選び続けるとは約束しなかった。
ソクラテスも彼女を選んだ。
しかし彼女を理解したとは言わなかった。
二人が共有したのは、完成した結婚意思でも、運命でも、永遠の恋でもなかった。
ただ、三日後にもう一度会い、今日より少し長い時間を互いに与えるという約束であった。
外へ出ると、夜風が吹いていた。
ヒュメナイオスが壁へ立てかけていた看板が、風によって倒れた。
表の、
最後の恋を始めよう。
という文字が地面へ伏せた。
代わりに裏面が上を向いた。
そこには小さく、
成立しなかった場合も返金はありません。
と書かれていた。
ソクラテスはそれを見て言った。
「プラトンよ」
「はい」
「表だけでは人は来ず、裏だけでは人は希望を持てないらしい」
「では、どちらを掲げればよいのでしょう」
「両方ではないか」
「そんな看板を、人は読みますか」
「読まないかもしれない」
「では意味がないのでは」
「意味がないことと、掲げる責任がないことは同じだろうか」
私は答えられなかった。
ソクラテスは、ミュルトーとの約束を書いた板を衣の中へ入れた。
そしてアゴラの方角へ歩き始めた。
私は彼の後ろを歩きながら考えた。
恋愛とは、条件の外にある純粋な感情ではない。
結婚とは、感情を排した合理的な契約でもない。
人は条件を持ち、第一印象を持ち、時間に追われ、傷つくことを恐れながら、それでも誰かを選ぼうとする。
その選択は不完全である。
選ぶ理由も、選ばない理由も、本人にすら完全には分からない。
しかし、不完全であるからといって、選択しなくてよいわけではない。
また、選択しなければ誰も傷つけないというわけでもない。
人を選ぶとは、その人の全価値を判定することではない。
人を選ばないとは、その人が劣っていると宣告することでもない。
条件を確認するとは、人間を条件へ還元することではない。
そして、恋愛を望むことと、結婚の責任を考えることは、必ずしも互いを否定しない。
ただし、それらを短い言葉、一枚のプロフィール、六分の会話、一度のマッチングへ収めようとするとき、制度は自分が切り落としたものを忘れてはならない。
入口では恋愛を売り、内部では結婚意思を審査する。
だが出口で人々が持ち帰るのは、恋愛でも結婚でもない。
自分は何を望み、何を恐れ、何を条件と呼び、誰を選ばなかったのかという、簡単には返却できない問いである。
さて、読者よ。
完全には知り得ない相手を、不完全な理由によって選ばなければならないとき、誠実さとは正しい相手を選ぶことなのであろうか。
それとも、自分の選択が相手の全価値を決めるものではないと知りながら、それでも選択の結果から逃げないことなのであろうか。