つづきを読み終えた。
(読書日記1337に収録)
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感想
カントは、倫理とは自由の法則だと考えた。
『私たちはどう生きるべきか』を読んで、その考えは矛盾しないと感じ、むしろ強化された。三島由紀夫は高橋和巳との対談で「倫理を考えると終いには政治のことを考えてしまう」といった話を語っていたが、自分は「自由のことを考えると終いには倫理に及んでしまう」と思われた。
メモ
物質主義、快楽主義、二つに内在するパラドックス
"幸福以外の何かをめざし、それに一生懸命になることが、幸福や永続的な満足への近道だという古くからの知恵を、人は忘れてしまっているのである。" P379
物質主義の考え方に沿えば、物が豊かになると生活も豊かになり幸福になる。
明らかに物が豊かな現代の日本においては、世界の幸福度51位という結果は矛盾しているように感じる。
日本は比較的、というよりもかなり自由が保障されている(表現、言論、報道など)。娯楽施設は多くあり、自由にインターネットを通じて、いつでもどこでも動画を観ることができる。20世紀と比べ、明らかに娯楽が増えているにもかかわらず、それでも幸福度が51位というのは、快楽主義の原理からしても矛盾しているようにみえる。
断言はできない。
日本が他の先進国と比べて、質的に幸福の話を論じることは難しいという側面もある。
(例えば、日本は「幸福」と言える条件のハードルが高くなってしまった、と考えることもできる)
それでも51位というのは、つまり、物の豊かさと幸福度は厳密にはリンクしていないのかもしれない。
もしくは、化学で例えるならば、水溶液に砂糖が沈殿するくらいの飽和状態にあり、砂糖がこれ以上溶けないように、物によってこれ以上幸福になることは難しいことを指しているのかもしれない。
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"確かに、倫理的に生きることが人生に内容と価値を与える唯一の方法だとは言えない。だが、人がどう生きるかを選択しようとするとき、倫理的な生き方は一番しっかりした基盤をもった生き方である。フットボール・クラブや企業といったような一部の人の利益に取り組むことは、深く考えれば考えるほど意味を認めにくくなる。対照的に、どれだけ深く考えても、倫理的生活に取り組むことは、つまらないとか無意味だということにはならないことがわかる。" P388
本書ではスポーツ選手やビジネスマンの葛藤が書かれていた。
端的に、持続的な幸福というものは原理上不可能ということである。
リーグで優勝した瞬間、喜びは高まるが時間が経つにつれてその幸福感は収まっていく。人によっては「次もまた優勝できるだろうか」と不安にもなる。
大金を手にした瞬間、「もっともっと」と満足できない人の話が語られた。
上には上がいる限り、どこまでも競争は終わらない。
ピーター・シンガーの言わんとしていることは、読書日記1315の寓話と同じだと自分には思われた。
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終盤は動物倫理学に関する話に及んだ。
『異なる声』(論文か雑誌かは分かりかねた)に寄せられた文章をピーター・シンガーは本書で二回引用していた。
"世界に対する責任が自らにあるという強い感じを私は抱いています。つまり、ただ自分が楽しんで生きるということは、私にはとうていできないのです。自分がこの世界に存在しているという事実そのものが私に義務を課し、たとえどんなに小さなことしかできなくとも、この世界を住みよい場所にするためにできるだけのことをしなければならないと思うのです。" P393
自分は「この世界」という言葉には気をつけるべきだと感じた。
その際、宮台真司氏の区別の仕方は参考になった。
宮台氏は「社会ー世界」と区別した。
前者の「社会」はコミュニケーション可能な領域(つまり人間社会)にとどまる。
後者はコミュニケーション不可能である「自然」も含む。
この引用文が指す「この世界」とは、明らかに後者である。
それを踏まえたうえで自分は少し考えた。
自分は倫理には関心があると思っているが、ヴィーガンには関心が持てないでいる。
人類には肉を食べないで生きるという選択肢があるとはいえ、その選択を消すことによって、肉から得られるあらゆる価値(幸福・健康・文化など)が消え去る。
そして、その消えた価値の総量が動物や自然環境に還元されるという構造になる。
自分には、これが幸福の「ゼロサムゲーム」に思えたのであった。
そうではなく、考えるべきことは、いかにしてこのゼロサムゲームから脱するかではないだろうか。
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ピーター・シンガーの倫理観
"倫理的に生きるとは、自分が誤りを犯すという可能性を認めつつ、現実を意識しながら今すぐ、世界をよりよい場所にするために自分にできることをするということである。" P400
これには同意できる。
「世界をよりよい場所にするために」というのは、今自分が書いた言葉に直すならば、「ゼロサムゲームから脱するために」と言い換えることができる。
最後に「いや、倫理なんて下らない」と思っている人に、ピーター・シンガーが語りかけた。
"倫理的真理は宇宙の組織の中に書き込まれているのではない。その限りにおいて、主観主義者は正しいことを述べている。何らかの種類の欲求あるいは選好をもった存在がいないとすれば、価値あるものは何も存在せず倫理には内容がまったくないことになる。他方、欲求をもった存在がいるなら、個々の存在の主観的価値にはとどまらないような価値が存在する。理性的推論によって宇宙の視点へと導かれるという可能性が加わると、可能な限り最高の「客観性」を提供してくれる。私の理性能力が、他の存在の苦しみは私自身の苦しみと非常に似ていること、しかも(ある適当な事例によって)私の苦しみが私にとって重大事であるのとちょうど同じくらいに、他の存在の苦しみはその存在にとって重大事であるということを示してくれるなら、私の理性は疑いもなく真であるような何かを私に示しているのである。" P412
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読書日記1338
読んだ本
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー日記
『道徳的な運:哲学論集一九七三~一九八○』
つづきを読みすすめた。
メモ
ゴーギャンの正当化・・・「彼の選択を正当化するのは成功そのものしかない」
ゴーギャンの正当化について深堀された。
人生の終盤に後悔の念を催させるとき、それが「失敗したからだ」という信念はどれほど合理的だろうか。
「あのときああすればよかった」
運に質的な区別をつけることは可能だろうか。
「失敗」を決定づけるものは様々である。
・画家でうまくいかなかったのは、不慮の事故によって手が使えなくなってしまったからである。
・画家でうまくいかなかったのは、本人の努力不足である。
・画家でうまくいかなかったのは、ゴッホのように天才すぎてまわりから評価が得られなかったからだ。
挙げればいくらでもあるが、努力以外は「外的」なものである。
"この区別が示すのは、ゴーギャンの正当化は何らかの仕方で運の問題であるが、それと同時に、すべての種類の運が同様に問題になるわけではないということである。重要なのは、失敗の原因がその計画それ自体にどれだけ内的かということである。" P41
事故は非正当化できないとウィリアムズは主張する。
"彼を非正当化できるのは画家としての彼が失敗することだけである。" P42
"ゴーギャンの事例における内的運はそれ自体、彼が真に価値ある作品を描くことに成功する本当に天賦の才を持った画家であるかどうか、というひとつの問いに、事実上絞られている。彼の計画の実現に関わる全条件が彼にかかっているわけではない。なぜなら、明らかに、他者の行為または行為の差し替えが計画の実現に対する多くの必要性となるからであるーーそしてこれが外的運の重要な核心部分である。" P43
このあたりの解説を読んだ。
"しかし、我々の実際の道徳判断を見ると、我々の道徳的評価は結果にも大きく左右されていて、カント主義だけではそうした道徳的評価が理解できないことが判明していく。" P327-328
議論の複雑性に悩ませられながらも、少しの間考えた。
今論じられているのはそもそもなんだったか。
現代の道徳哲学は「カントの義務論ー功利主義」の陣営に分かれるとされている。
おそらく、倫理に客観性をもたせることの困難さによる。
まだ読解にほとんど時間をかけていないので断言できないが、解説によればカント主義は運と道徳の関係性を説明できていないという指摘がある。
そして、道徳的評価が運によって左右される観点をウィリアムズが突いている、というのが第二章の内容となっている。
この論考を別の論考とつなげて考えるにはあまりに早すぎ、今日はいったんここで記録するだけにとどめる。
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『進化倫理学入門』
「自然にかなったことは善である」という命題に対して、今日どれほど効力があるだろうか。
人間は自然に反する多くの事を行っている。
本書では『スーパーサイズ・ミー』という、ひたすらファストフードを食べつづける映画について触れられていた。
人間は飢えに負けないように脂肪を体内にためる能力があり、肥満はそのメカニズムによって発生する、と考えられている。
人間は太古から脂肪分を含む食物を求め、ときには渇望さえもした。
だからといって、現代人に「脂肪分はたえず渇望すべきである」とはならない。
肥満によって糖尿病になる人が少なくない。糖尿病は恐ろしい病気でもある。
それをかんがみれば、自然由来の機能(脂肪分をなるべく多く体内に蓄える)は、現代人にとって少々「余計な機能」であると自分には思えてくる。
つまり、裏を返せば「自然にかなったことは善である」という命題は部分的に偽ではないか、と思えてくるのである。
生物学は倫理を考える学問ではないが、倫理の考察にヒントを与える材料になり得る。
本書を久しぶりに手に取った。
今日は少しだけ読んで一旦ストップした。
本書は第一部と第二部が独立している。
第二部は個人的に面白そうな予感がしている。
メモ
"ムーアによると、善はそもそも基礎的なものであるから、より基礎的な何かには還元することはできない。" P167
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『自由の余地』
メモ
アパティア・・・・ストア派の考えのひとつ。運に対しては抵抗せずに賢く服従するといった態度をとること。
”自分には自由意志がないかもしれないという可能性を恐れるなら、その恐ろしい状態がどんなであるかについて薄々わかっているのでなくてはならない。” P8
死への恐怖は、死がどういうものか薄々分かっているからかもしれない。
そう考えるならば、なぜ「自由意志がないかもしれない」ということに対して人々は恐れないのか。
自由意志はあるのか、ないのか。
この問題はダークマターの解明くらいに難問なのかもしれない。
自由意志問題については以下の三冊が参考になった。
ピーター・シンガーの本を読み、自分は自由について深く考え直すことの重要性を再認識した。
そのためには有益な問いを多く立てる必要がある。
吉田健一が書いていたように、
まだ言葉になっていないことを言語化することが知識化の条件であるならば、そのためにはまだ立てていない問いを多く立てる必要がある。
完全に本書や『進化倫理学入門』、『道徳的な運』を理解できるとは到底思えないが、なにかしらの知見、問いを得ることに注力したいと思う。
つづく
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関連図書