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山口尚『人が人を罰するということー自由と責任の哲学入門』読了 + 読書日記1260

山口尚『人が人を罰するということ:自由と責任の哲学入門』ちくま新書 (2023)

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感想

 

読みごたえのある本であった。

『格差という虚構』以来、ちくま新書では個人的に最高と思える本であったように思う。

端的に文章が非常に読みやすく、かつ無駄のない理路整然した本であった。

当ブログは有り難いことに、数字をみる限り徐々に読者( ≒ アクセス数)が増えている。

本書の内容を全て要約することは著作権の問題に抵触する恐れがあり、本書の売り上げを下げてしまう可能性はゼロではないので、敢えて結論を書かず、問いかけるかたちにまとめあげたい。また、二回ほど既にこの本について触れているので、同じことの繰り返しを避けるため、重複するものは割愛したい。

 

・・・

 

「なぜ刑罰があるのか」という問いと、「刑罰は正しいか」の問いは別問題。

本書では刑罰の正しさに関する是非を追わず、刑罰の意味について深堀りされる。

よって、本書の内容は「刑罰」というシステムがどういう構造になっているのかという説明から入り、後半ではその構造上から浮かび上がる問題、「自由意志がなければ責任も生じないではないか(=小坂井敏晶の責任虚構説)」を吟味するものとなっている。

 

 

まず刑罰というシステムは人間として「自然」であるという立場になって考える。

「やられたらやりかえす」。そうではなく、現実に、人間の普遍的な原理上(全員がそうではないにせよ)、不当に差別を受けたり不当に暴力を受けている人々に対して何も感じることはできないという事実がある。

小学生の子供が複数の中学生の不良少年たちに暴力を振るっている様子を大人は黙って見ていられるか。普通はマイナスの感情、あるいは「憤怒」という感情が沸き上がる。

 

 

サークルやコンパでもいい。毎回遅刻する人物がいたらどうだろう。何も感じないことは難しいのではないだろうか。参加者はその人物に対してなにかしらの措置を講じたくなる。

この延長線上に「刑罰」は慣習として存在する可能性は十分にある。つまり制度がさきではなく、人間の普遍的な心理によって生まれるとみるのが妥当である。

だから「刑罰はある」と言える。

しかし「自由(=自由意志)」がなければ全ては「必然(=決定論的世界観)」なのだから「責任」も生じ得ない。にもかかわらずそれが当たり前のように存在している。概ねこの点に着目して小坂井氏は「責任は虚構である」と考えた。

 

しかし山口氏は小坂井氏の主張しなかった点に着目する。

 

 

「責任など実在しない」という主張は「人間の存在条件を人間自身が否定すること」に等しい

 

責任が発生するには自由が必要である。自由が存在するには選択肢(洗脳されていない、あるいは操作されていないという意)が必要である。選びとられた行動は「行為」である。行為は動詞のことだ考えればいい。「(小坂井氏の)責任は存在しない」という主張は、自由が無いということを前提にしている。にもかかわらず彼は行為(=主張)している。以上から、小坂井氏は自己矛盾に陥っていると山口氏は主張した。

 

・・・

 

さらに矛盾はつづく。

それでも山口氏は責任を個人に負わせることの社会的意義を否定しない。社会的に意義があるのはどう考えても自明だからである。(連続殺人犯を野放しにすることほど恐ろしいことはない)

しかし、責めることを正当化するには形而上学的な自由の存在が要求される。

リベット実験はたしかに「自由意志はない」ことを示した。しかし数ミリの時間、無意識的に発生した神経の命令を「拒否」する余地があるということもまた科学的な事実であった。

 

 

つまり、小坂井氏は部分的には真理を共有しているということになる。

突飛な考えではなく、理論的には欠陥があるかもしれないが、完全に間違っているわけでもない。

 

 

「責任はある」し、「責任はない」。

まるでシュレーディンガーの猫である。

量子力学のような分野と社会思想のような分野でさえも、ギリギリのところで真理を共有しているように思えてならない。

これこそ、自身が3年前ほどに直感的に感じた「世の中はフラクタル構造」ではないだろうか。

 

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読書日記1260

読んだ本

三木清『人生論ノート 改版』新潮文庫 (1985)

荒木優太『これからのエリック・ホッファーのために:在野研究者の生と心得』東京書籍 (2016)

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日記

 

『人生論ノート』

メモ

 

"人間的な知性の自由はさしあたり懐疑のうちにある。" P24

 

"娯楽という観念は恐らく近代的な観念である。それは機械技術の時代の産物であり、この時代のあらゆる特性を具えている。娯楽というものは生活を楽しむことを知らなくなった人間がその代わりに考え出したものである。それは幸福に対する近代的な代用品である。幸福についてほんとに考えることを知らない近代人は娯楽について考える。" P121

 

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『これからのエリック・ホッファーのために』

久しぶりに再読した。

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131ページを読んだ。多くの人が知っているが、福沢諭吉の言う「学問」とは「実学」であり、文学は「虚学」とされ、学問ですらない。

しかし荒木氏は言う。人文は大学に飼い慣らされてはならない、と。

そのとおりだ、と自分は思った。

ザミャーチンの言葉を再度思い出した。偉大な文学は狂人から、夢想家から、異端者から生まれる。

 

南方熊楠小室直樹エリック・ホッファー

在野に乾杯。

 

つづく

 

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関連図書

 

 

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