読んだ本
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日記
メモ
"本を読む場合は、その行間を求めなければならない。つまり、書かれた物質の文字ではなく、書かれることのない魂ということです。今は読書でも知識を得ようとすることが主体になっています。私が言っているのはそうではなく、行間、魂なのです。知識を得ようとすれば、すべてが駄目になります。(・・・)成功思想とか幸福思想があると、読書はただ面倒臭いものでしかなく、真の読書は出来ない。" P93 (『人間の運命』)
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知識欲は棄てきれない。不可能である。自分は完璧主義にはなることの弊害について多少は理解しているつもりなので、この思想は今のところ、頭の片隅にとどめておくことしかできない。
しかし、この思想は逆説を端的に示しているように思われた。
知りたい、知りたい。これが暴走すると「小説は役に立たない」になる。
学問の世界全体を見渡すと(実際には見渡しきれないが)、特に哲学に至っては倒錯した現象が見受けられる。
哲学という言葉自体が既に学問化されていて、いまや大学に飼い慣らされてもいる。その根拠としてはカント研究者中島義道の発言「カントに関する論文が、読まれもしないのに掃いて棄てるほど量産されている」や、「哲学者の研究」などが挙げられる。
もう少し加えるならば、そもそも学問は客観性というものがなければならないにもかかわらず、哲学においては客観性よりも「事実性」に傾斜しているように思われる。
例えば昨日書いたように、「小坂井が「責任は虚構である」と述べた」は事実であるが、「責任は虚構である」が事実とは限らないということと同じように、「デリダは「○○は□□と違う」と述べた」は事実であるが、「○○は□□と違う」は事実とは限らない。本来は「○○は□□と違うのか?」と問うべきであるのに、アカデミックの世界ではまずデリダに関する文献を読み漁ったり、フーコーであったり、ドゥルーズであったりするわけである。(著名人の博士論文のタイトルは誰かの研究であることが多いように自分には思われる)
話が逸れてしまったが、自分は事実性よりも客観性を求めるべきであるように思う。
しかし、客観性に固執するとやはりそれも考えものである。
客観性と主観性をうまく統合させていく。その営みのうえで文学は欠かせない。それは正しいように自分には思われた。
つづく
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