つづきを読み終えた。
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あらすじ
物語の骨格をあとで思い出せるように、下巻の300ページまでのあらすじをざっくりと書き残す。
早くに父親を亡くしたピェールは教養ある気高い母親、グレンディング夫人に愛されながら成長する。
ピェールは詩的な才能を早くも獲得し、街で出会う数々の女性を表現力溢れる言葉で魅了する。
やがてルーシーという年下の女性と婚約。グレンディング夫人も息子の幸せを願う。
しかしイザベルという女性と出会い運命が狂う。
イザベルという人物について説明することでネタばらしになってしまうので割愛。
イザベルの登場によってルーシーとの婚約は破綻。そしてグレンディング夫人と決裂し、ピェールは莫大な遺産相続権を失い、ふるさとを離れゼロの状態から作家として生計を立てる生活に突入する。
下巻ではルーシーとイザベルがもつれ合う。
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感想
あとで思い出すためにあらすじを書いたものの、あらすじというものは文学作品の骨ではなくむしろ皮であるように思う。
あらすじを理解することは表面的な理解にとどまるに等しい。従って、あらすじを理解したことで文学作品を理解したと思うことほど馬鹿げた行為はない。
換言すれば、この本が「偉大な文学」という位置付けであるならば、文学にとってストーリーはそこまで重要ではないという認識で良いのだと個人として腹に落とした。
メルヴィルの『白鯨』が世にでた当時はあまり評価されず、本作品『ピェール 黙示録よりも深く』に至っては手厳しい批評を受けたとされる。
それでも多くの人々から読まれつづけ、現代では多くの作家、あるいは文学者から偉大な文学だと評価を受けている。
この点にひっかかる。
ある作家は、本当の文学作品は100年後に真価が分かるということを述べていた。
どうみても「権力」の問題である。
今書店に置いてある本で、過去に発禁処分を受けた本は沢山存在する。
例えば、今では普通に本屋で売られているD.H.ロレンス『チャタレー夫人の恋人』は、過去に日本において発禁を受けている。
メルヴィルは哲学者でさえも「真理」からほど遠い場所にいることを、本書のなかで糾弾しているように思われた。
解説を読むと、メルヴィルはアメリカの腐敗したキリスト社会の欺瞞を己の「福音書」を世に送り出すことによって暴き出そうとしたが『緋文字』の著者ホーソーンに「それは失敗に終わるだろう」と打ち明けている。
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ピェールの言いたいことは、今では部分的には理解できるように思う。
哲学者アランは、精神は肉体を拒む何者かであると述べた、と執行草舟氏がたびたび言及するように、精神のために生きることを決意すればピェールのような生き方にならざるを得ない。
人間には悪と善が同時に内在するように、精神と肉体も同時に存在し、言葉を紡ぎ出す「何者か」は、人間という言語を持った矛盾の塊とも言える二面的な特性を否応なしに引き受けざるを得ない。
人間と動物の決定的な違いは理性の有無というのが一般的な見解であろうが、個人としては「意味」というものを理解できるかが分かれ目のように思う。
いや、厳密に言えばメタ的な視点である。意味というのものについての「意味」を考えることができるかどうか。ここが決定的な違いである。
どういう生き方を選択するか、いかなる意味を人生に与えるか。
意味を放棄するも自由、無目的に生きるも自由。
しかしこの一回性でしかない人生の意味を問わずに、どう充実させることができるのだろうか。
言葉のみによって思考し、行動することのできる人間が、言語への深い問いかけなしに、どう生を全うできるというのだろうか。
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