読んだ本
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日記
『未来から来た男』
メモ
フォン・ノイマン (1903-1957)
1929年 ハンブルク大学に就職
"そのあいだも、彼は集合論と同様、量子力学をまるごと数学的本質にまで還元する仕事に忙しかった。" P49 (『未来から来た男』)
物理学の発展には哲学が間接的に貢献してきた歴史があったことが分かった。
ラッセルのパラドックスはこのブログで何回も触れてきたが、数学的な基盤が揺らぐと数学の言語で書かれている物理学にも支障をきたす。
数学と物理の橋渡しを20代でやっていたというノイマンの驚異的な話はもはや次元が違い過ぎて驚きもしない。
パラパラとめくっていくと、工学へと話が展開されていく。
集合論の奥深さに魅了された。少しずつ学びたい。
・・・
『マルクス・ガブリエルの哲学』
マルクス・ガブリエルの本が日本で少ない理由が書かれていた。
科学哲学とドイツ観念論の橋渡しができる学者がいないということであった。
マルクス・ガブリエルはドイツの古典的な観念論を若いうちに究め、そこから分析哲学(フレーゲなど)を経由して新・実在論なる思想を確立していったことが分かった。
個人的には、マルクス・ガブリエルの考え方が池田晶子に少し似ていることから、多少は注目している。(意識は物質に還元できない、などの発言)
今日はマルクス・ガブリエルの頭のなかを少し覗いた気になれた。
まず、ガブリエル氏は客観的なものは存在しないという信念を持っていることが分かった。(その考え方は「メタ形而上学的ニヒリズム」だと書かれていた。)
客観性はない、という立場をとれば「世界は存在しない」というタイトルの本を書くのも多少はうなづける。
"つまり観察者ありの世界であれば存在はその観察者が製作したものだということになり、逆に観察者抜きの世界であれば存在は観察者とは無縁で独立したものとなる。後者の見方が科学的自然主義だということは容易に気づかれるが、前者はデリダの脱構築をヒントにした構築主義だと推測される。" P22 (『マルクス・ガブリエルの哲学』)
人間(=観察者)がいるかどうか。ここで大きく二つに区別される。
ガブリエル氏は、質的にはフィクションも現実も同じだと考える。
客観性など存在しない、と考えているからこそできる発想なのだろうか。
"フレーゲによれば、存在とは個体が概念に包摂されることであり、また概念の外延が空集合よりも大きいことを意味する。" P24 (『マルクス・ガブリエルの哲学』)
ここで集合論の話がでてきた。
分析哲学は深み、面白味を感じるがいまの自分では力不足のため、今日はいったんここで本を閉じた。
・・・
「個体とは存在が概念に包摂されることである」
普通、なにかが在ることによって初めてそれが名付けられる。(石、森、土)
存在が先になければ概念などあるはずもないではないか。
と普通は考えるが、そもそも概念を持つ存在がなければ存在は認識されない。
だから「個体は存在が概念によって包摂されることである」なのだろう。そこは分かった。
だから観察者なき世界は存在と独立する。それも分かった。
だから次は「概念」について深堀りするのであるが「空集合」という用語でお手上げ。
集合論の勉強が追い付かない。
とはいえ、面白い話がてんこもりの月曜日であった。
つづく
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