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読書日記951

読んだ本

引用元:版元ドットコム

引用元:版元ドットコム

つづきを読み進めた。

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

 

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日記

 

 

この二つの本を同時に読むことによって相乗効果が生まれるように思われた。

何を美しいと感じるか、それは主観でもあるが客観でもある。

何故ならば、美しさを認識するには視覚、聴覚がなければならない。感覚器官を通じて脳に認識されるまで、つまりその「経験」、専門的には「実在」は健康的な人であれば誰でも接触できるという点において客観的であるからだ。

その美的法則を解明することは現在も科学的に行われているが、なんらかの普遍的な法則が存在することは否定できないはずである。

 

 

・・・

 

判断力批判』の目的についてメモを取った。

"『判断力批判』は <モノとしての美> の根拠ではなく、「美しい」と判断されること(いわば <コトとしての美> ) の根拠を問う"『美学』 P28

 

 

前者は実在に関する哲学的考察だと思われる。

後者、つまり美学が扱うのはあくまで経験のなかに含まれる美についてである。

より根源的な、モノとしての美の根拠はカンタンメイヤスーらの思弁的実在論者、オブジェクト指向哲学者たちが詳細に語っているだろうが、個人的にはあまり関心が持てない。

 

 

 

美学の創始者はバウムガルデンといわれている。

彼は論理学と感性の学(=美学)を分けた。

論理学は「可知的」、美学は「可感的」である。

 

 

重要なのは上位概念と下位概念の区別だ。

「可知的」とは可感的でもあり可知的でもある。可感的だけでは可知的とは言えない。受動か能動かで考えれば分かる。知覚は必然的に受動的である。五感をコントロールすることなど不可能である。しかし理性は操作可能である。人間には意志があり理性がある。知覚を受け止め、それを解釈する自由が人間にはある。よって可知的であることは理性的でもあり、可感的でもある。

 

 

今日の時点では詳細には分かりかねたが、バウムガルデンの考えをカントは否定的に捉えている。バウムガルデン『美学』よりもカントの『判断力批判』が美学の古典として確固たる地位を占めている以上、なんらかの論理的欠損があったのであろうという理解にとどめた。

 

カントはいう。趣味判断はア・プリオリな法則が存在し得ないと。

この詳細も本日の時点ではわかりかねた。

ひとまずページを読み進め、「美の無関心性説」という部分をじっくり読んだ。

 

 

見たこともないような花や景色について、人はそれを事前に知識として知っていなくとも「美しい」と感じる。

つまり概念は美的経験には必要条件ではないということを意味する。

カントは「概念的思考にとっては <何も意味しない> ものこそ美しい」と述べている。

これがいわゆる、美が持つ「無目的の合目的性」のことだろうと思われる。

 

 

何について書いているのか錯綜してきてしまった。

整理したい。

「美」は受動的に感覚器官によって感性が刺激されることによって認識される。

それは受動的である。

受動的であるがゆえに、能動的である論理学とは区別されることは明確である。

 

 

美とはなにか。それは美しいと思ったものである。それは容易い。

しかし善とはなにか。それは善だと思ったものである、とは言えない。

美は善のうちに入るだろうが、美だけが善ではない。

善は上位の概念なので善を理解するには下位の概念から理解しなければならない。

それは数学を学ぶ前に算数を学ばなければならないことに似ている。

 

 

 

趣味と美に関しては、一旦「感情」と「感性」について考察が必要である。

今日の時点では本書に書かれていた「美の無関心性 ≒ 趣味判断の無関心性」についてはわかりかねた。

 

 

 

 

・・・

 

 

昨日は論理実証主義者カルナップの「事実」の扱い方について書き残した。

本日は『事実/価値二分法の崩壊』1部を全て読み終えた。

論理実証主義が経済学と結合することによって起きた弊害というものを目の当たりにした。

 

 

経済学は科学でなければならない、だから事実だけを扱わなければならず、道徳・倫理は排除しなければならない、という考えになるわけである。

しかしよく考えてみればそれはおかしい。

経済学は社会をよくするための学問「であった」はずだ。

 

 

1998年ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センは、そんな論理実証主義によって変色した経済学を批判。

ベンサムによって考案された「功利主義」は、「幸福は快楽の総和である」とみなすことによって「悪意のある快楽」までもが幸福の条件にもなり得るため、理論体系としては弱い。

アマルティア・センは経済学者たちがアダム・スミスを誤読していると見ていた。そして著者もその考えに依拠している。

 

 

幸福と善について詳細に調べれば、それに付随して倫理に関して、そして経済に関して有益な知見が得られることはセンが著書に示したとおり有効であるはずだ。そのように著者は語る。

経済学を「事実のみを扱う科学である」とみなすことによって倫理から離れていくことをアマルティア・センは危険視したはずである。

 

 

その後は人間の行動の合理性や効用、厚生経済学開発経済学について語られたが今日の段階では情報がパンクしているので整理しかねる。

 

 

・・・

 

 

美学は突き詰めれば「善」に関する研究に繋がり得るであろうし、「善」を突き詰めることは倫理学や道徳、そして法哲学や公共哲学へと接続することもできるはずだ。

従ってこの二つの本は深いところで繋がっていると言える。

美学や倫理学を狭い学問だとみなす(あるいは議論のための議論)のは愚かではないだろうか。

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