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感想
考えさせられることの多い読書時間であった。
「本は文化財という位置付けであるため、例外的に再販制度が導入されており、値下げは許されない。」
しかし、この「文化財」とは何を意味するのか。曖昧すぎて意味が分からない。
「次世代に継承されるべきもの」という認識くらいである。
しかし競争の原理のもとで、中小の書店はAmazonや大型書店に潰されてしまっている。古本屋も例外ではなく、この10年、自分の家のまわりの、多くの書店や古本屋が潰れていくのを目にしてきた。
そもそもの疑問として、書店は文化財ではないのか?
疑問は尽きない。
・再販制度を撤廃すればなにが起きるか?
・文化財にも消費税を取ることは理にかなっているか?
・・・
店主ならではの鋭い指摘もあった。
自分が日々感じていることを代弁してくれた。
"書店人が薦める本といった読書案内では、現代の状況を深く考察しようとしている書籍を探し出すことは困難だ。理想的なのは、研究者が書籍の棚のレイアウトをすることだと思う。要するに書店では書籍配列のレイアウトが作れないのである。現代では学問はすでに越境的であり、相互にオーバーラップしている。単なるジャンルの配列だけでは逆にコンテクストが分断されてしまうのである。棚を見ている読者からすれば、配列の流れが見えない。類似本をまとめてみたり、同じ著者の本を一堂に展開するといった棚の配列は逆に違和感を伴う。書店人には、ここがよく読めない。" P124-125
分野横断的に展開されるコンテクストがよく読めるようになるくらいの経験を積んだ人は、結局管理職となって現場を離れるか、もしくは独立してしまう。
著者は現場に若い人が多いことが原因だとみていた。
勿論、編集工学研究所のような専門集団がいることは知っている。
それだけでは全体の底上げにはほど遠いかもしれない。
研究者は研究者で忙しい。
ここには様々なジレンマがある。
競争の原理だけではうまくいかない例だと自分は感じた。
本の紹介だけでは足りなさすぎるのである。
本と本を繋げる。
本と本が高分子化合物のように繋がり、立体的になることで、知の建築物が生まれる。
本が決められた場所に置かれてしまう図書館や大型書店には出来ないことである。
もっともっと可視化しなければならない。
・・・
メモ
(ショーペンハウアーの言葉)
"「反復は研究の母なり。重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。それというのも、二度目になると、その事柄のつながりが良く理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。更にまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象をうけるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである」" P185
"「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである」" P185
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読書日記1332
読んだ本
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日記
つづきを読みすすめた。
170ページほど読みすすんだ。
この本もまた、いろいろなことを考えさせられる。
一昨日、日本の幸福度の低さについて、『14歳からの社会学』を読みながらいろいろと考えた。
「みんながハッピーになれるならそれをやってもOK」
という発想の「行為功利主義」から、
「みんながハッピーになるならそのルールを適用しよう」
という発想の「規則功利主義」的な考えが現代に増えてきたのではないかと自分は考えた。
グローバル化によって「他者」がより不透明になったから「共通前提」が崩壊し、ルールで縛り付けるように力学が働く。
しかしそのルール作りは基本的に市民ではなく、地位の高い権力側が作ることが多いように思える。
つまり「議論」が足りないので、本当にルールが幸福度を上げているのか、実はハッキリしない。
「無思考」的に受け入れることによって、実は「不自由」になっているかもしれない。
ほんのわずかな例を挙げるならば、例えばどこへ行ってもおおむね「スケボ禁止」という注意書きを見る。スペースが広い場所でもだいたい書かれている。
そうなるとスケートボード専用の施設に行かなければならないが、東京は例外として、郊外にはほとんどないのではないだろうか。
行くだけで交通費もかさみ、いろいろと大変だろう。
誰が「スケボ禁止」の貼り紙を指示するのか。
いつどこで、誰がそう判断したのか。
公園の責任者だとか、行政のなんとか課を管轄する偉い人たちだとか、条例だとかがそう決めたのかもしれない。
そういう意味では市民的ではないと言える。
というのがおよそ昨日くらいまで考えたことであった。
・・・
"一九九二年の「タイム」誌の「なぜ憂鬱?」という特集記事を見ると、自分の幸福度に関する判断と自分が順応しているものとの間には確かに相関関係があることがわかる。" P104
"私たちは、自分たちの成功の度合いを少なくとも部分的には自分たちの生活水準の上昇率によって判断しているが、隣人や友人や同僚との比較によって判断することもある。この場合も同じように、社会全体が豊かになっても、平均的な幸福度は増大しない。なぜなら、私たちの物質的な財が増えれば、まわりの人々の物質的な財も増えるからである。" P105
日本の幸福度の低さの原因を改めて考えた。
究極的には国民の精神が貧困状態にあるのかもしれない。
仮に、日本の不景気が幸福度の低さと密接な関係があるとすれば、
「まわりより良い生活ができていないから不幸です」
と言っているようなものではないだろうか。
逆も同じで、
「まわりより稼げているから幸せです」
というのも、
「まわりより稼げていなければ不幸です」
の裏返しなので同様である。
精神の貧困という言葉は抽象的ではあるが、「努力次第でなんとかなる」という考えが根強い日本では、その発想を変えるしかない。
フランスやドイツから学ぶべきことは多くある。
決定論的な世界観では、もはや努力という言葉は意味をなさない。
階級社会が良いのか悪いのか分からないが、ヨーロッパの先進国では「努力次第で社会的地位が上がる」と考える人が日本よりは少ないとされる。
早いうちに選別される。
それを「運だから仕方がない」と心から思える人は自己に対する適切な評価を持つことができる。
日本はどうか。
加えて、日本は無宗教で規範がないという指摘もある。(小室直樹、山本七平)
他国の文化を取り入れる柔軟性はあるが、考え方に柔軟性がない人が多いのではないだろうか。
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