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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

読書日記1270

読んだ本

  高崎将平『そうしないことはありえたか?自由論入門』青土社 (2022)

横尾忠則『原郷の森』文藝春秋 (2022)

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日記

 

『原郷の森』

メモ

 

"芸術家に目的がなくなると、どんでもない作品が生まれる" P30

 

"読者は作家の目的など見ていない。忘我のために本を読むのではないか。作家が感動など目的にすると、読者にとってはヌカみたいなものだ。忘我と無常、作品と自分、作品と他者というようなものは徐々にひとつになっていく。" P30

 

"画家はイデオロギーじゃない。情熱だよ。画家はどう感じたかを描けばいいんだよ。" P50

 

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『そうしないことはありえたか?自由論入門』

つづきを読み進めた。(読書日記1269に収録)

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

 

読書日記1269までに本書の筋は書いたので前回までのあらすじ等は割愛。

 

 

二階の意欲説:

行為者Sの行為Aが自由であるのは、AがSの持つ二階の意欲と調和しているとき、かつそのときに限る。

 

と表された。

ビールが飲みたいけれども締め切り間近の論文を書かなければならない。このとき、一階の欲求は「ビールが飲みたい」と「論文を書きたい」となる。

二階の欲求は「誘惑に負けるのではなく、論文を書きたいという欲求に導かれて行為したい」とする。

 

このときに行為者がビールを諦め、論文を書くことを選べば行為Aの「論文を書きたい」が二階の意欲と調和していることになり、行為者は「自由」であるとみなすことができる、という理論が「二階の意欲説」であった。

 

 

ここで当然、批判の材料がすぐに見つかる。

大麻依存症の人が大麻を吸うのは自由意志に基づく選択なのか?という問いである。

一階の欲求が「大麻を吸いたい」であり、二階の欲求が「大麻を吸いたいという欲求に導かれて行為したい」だとすれば、大麻依存症の意志は「自由」とみなすことになる。

こんなふざけた話があるか?

 

 

それを回避する策として、著者はふたつのポイントに絞って検討を行う。

1.二階の意欲を形成する能力こそが自由の本質的条件である。しかしなぜ二階の意欲だけが特権視されるのか?

2.「意志の弱さ」を適切に扱うことができるか?

 

大麻の話と繋げたいので、本書の順番を入れ換えて先に2の「意志の弱さ」について書き残す。

行為者が「ビールを飲みたい、ダメだと分かっているがもう我慢できない」と考えてビールを飲む。行為者は自由に弱い意志に従っている、という見方ができる。

 

ビールと大麻依存症の区別は、自己に打ち克つ余地があるかどうかで区別ができる。

普通の人であれば、ビールを一日くらいは我慢できる。大麻依存症の人はそれが不可能である。

その意味で、後者は自由には行為していないとみなされる。

 

 

・・・

 

つぎに、二階の意欲が特権視されるのは何故か?の問題について書き残したい。

二階の意欲の定義は「Xという一階の欲求に導かれて行為したい」であった。

 

予測される反論は、

「n階の特定の欲求に導かれて行為したい」という、無際限に上がっていく欲求があるなか、なぜ二階なのか?という主張である。

それは「決定的なコミットメント」という戦略で阻止できるという。

 

"フランクファートによれば、欲求の無際限な上昇を止めるカギは、二階の意欲に対する決定的なコミットメント(decisive commitment)という心的な作用にある。" P82 

 

1971年に出した論文ではこの決定的なコミットメントという概念が深堀りされていないために批判が集中したという。そして1987年に修正された論文が出された。

"コミットメントを留保なしに下すとは、これ以上の厳密な探求を続けたとしても自分の心が変わるということはないだろう、という信念をもって主体がコミットを下すということである。つまり、それ以上の探求を続けることに意味はないということである。" P83

 

かくして、二階の意欲説が修正された。

二階の意欲説(修正版):

行為者Sの行為Aが自由であるのは、Aが、Sが決定的にコミットする二階の意欲と調和しているとき、かつそのときに限る。ここで、Sが「一階の欲求Dに導かれて行為したい」という特定の二階の欲求Vに決定的にコミットするのは、次の条件( i )、( ii )が成り立つとき、かつそのときに限る。

( i ) Sは一階の欲求Dを自分自身のものとして同化することを決断し、かつ、( ii )これ以上合理的熟慮を続けてもこの決断は覆らないだろうと判断している。

 

以上によって無際限に上昇する欲求への反論が提出された。

 

第二章の終わりに、「弱い自由意志」という前提を覆すことを提唱するワトソンの話が紹介された。

自分は読んでいて感じたのは、生まれたての状態から大麻依存症の人はいないので、時間に沿って、つまり個人史を考慮しなければ自由の本質はつかめないように思った。

そうなると結局、生まれたときの環境、教育、親の遺伝子など科学的な議論と接続することになる。

 

細かい問題を深く突き詰めると大きな問題を考えざるを得ないという、これまた逆説めいた状況が露呈されたように思う。

 

第三章につづく

 

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関連図書

 

 

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