読んだ本
つづきを読み進めた。
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日記
メモ
"それどころか我々は、物質的事物を感覚ー内容を用いて定義することが可能でなくてはならないことを知っている。" P51 (『言語・真理・論理』)
"かくして我々は、現象主義的な「知覚学説」が正しいか、あるいは他の種類の学説が正しいのかをたずねるべきではなく、ただ如何なる形の現象主義的な学説が正しいのかのみを問うべきであることを知る。" P52 (『言語・真理・論理』)
意外にも廃れていると勝手に思っていた現象学が論理と命題の問題に大きく貢献し得ることを自分は本書から見出した。
いったん本書を閉じて『確率と曖昧性の哲学』を手に取った。
高校数学の命題を一から復習したあとにソラティーズ・パラドックスの問題に再度取り組んだ。
一ノ瀬氏の過去の論文を読んでいることが前提になっている箇所は読み飛ばさざるを得なかった。
とりあえずシンプソンのパラドックスは理解できた。
ざっくり言えば、これは人間の推論が直感的には間違ってしまうことを示すパラドックスである。
(治療行為を行うと男女ともに回復する確率が、しない場合よりも高くなるが、全体としてみるとしないほうが治る確率が高まる)
母数を揃えると(=正規化)確率に変化が起こるという「高次のシンプソンのパラドックス」についてもノートに数字を書き込んで自分で試し、理解した。
ここだけを読むと統計学には欠陥があるのではないかと思ってしまう。
かなり神経を使うのでいったんここで本書を閉じた。
(集合論の復習もさすがにつかれてしまった)
この章は「ではどのような母集団に拠ることが適切な関係性の認識に結びつくのか」という新たな問題点を残して幕を閉じた。
・・・
『はまざの哲学』はタイムリーな本であった。
"因果性が決定論的意味を帯びるようになったのは、近代科学成立以後のことである。それゆえ、「心身因果」のような自然科学を逸脱した事象を考察する場合には、むしろ因果性を生活世界のカテゴリーとして捉え直す必要がある。その際に手がかりとなるのは、ラッセルの「因果概念不要説」である。彼は「どの学派に属する哲学者もみな、因果性は科学の根本的な公理ないしは公準であると想像しているけれども、奇妙なことに、重力天文学のような発達した科学においては、「原因」という言葉は決して姿を見せないのである」と述べ、続けて「物理学が原因を探し求めることを止めた理由は、実際のところ、そのようなものは存在しないからである」と断言している。" P48 (『はざまの哲学』)
今日はいつもより高度な理論を追っていたので思考が追いつかなかった。
認識論の限界地点までいくと因果関係というものは存在しないことが分かってしまうのであろうか。
1/3は0.333333と永遠に続く。3倍すれば9.99999と永遠につづく。
しかし1/3に3を掛ければ1になる。
こういう、直感に反する論理が無意識のなかに散りばめられているということなのか。
直感に反することが多すぎてあらゆるパラドックスを生んでしまうのだろうか。
パラドックスはただの形式的なもの(要するに中身は空っぽ)で、実は虚構であるということなのか。
さきほどの「高次のシンプソンのパラドックス」も、解釈としてはパラドックスと感じるが、計算すれば事実は事実であることが分かる。
矛盾なんてものは元から存在しなかった。
人間が勝手に生み出した虚構であった。
それはそれで面白い。
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関連図書
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