読んだ本
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日記
引き続き論理実証主義の歴史を追いながら、たまに寄り道をしたくなったので別のジャンルの本にも手を出した。
『ヴェトナム (上)』につづき、『ヴェトナム (下)』も店頭に並ぶようになったので読むことにした。
毎日ブログでアウトプットしているので自分はキケロの言葉を覚えている。
歴史を知らないということはいつまでも子供である、というキケロの言葉は忘れないようにしたい。
神なき現代社会の基準、尺度は歴史の教訓であると自分は考える。
(神なき現代社会論はこちらの二冊に詳しく書いてある)
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ひとまず『ヴェトナム (上) 』を地道に読み進めた。
1900年代前半にフランスが、インカ帝国を壊滅させたスペイン人のように「所有」を目的に侵略したことについて書かれていた。
「白人」と一括りにしたくはないが、白人と侵略にまつわる話、歴史は多く(日本にも多くあるが)、しかもたかが100年前にこういうことがあったのか、というのがなんとも言えない気分になる。
フランスがヴェトナムにある穀物を半ば独占し、とてつもない数の餓死者を出したと書かれていた。
夏川草介『始まりの木』には、飢饉が起きても農家は大量に備蓄をそなえているので先に都市の人がやられると書いてあったが、侵略された場合は全く別であるという過酷な現実を知った。
メモ
"民主体制とは、意に染まらない政府を取り除く権利を、有権者に認めるものである。だが、共産主義的統治がいったん確立すると、自由選挙なるものはもはや消滅し、一九五四年以来の、ハノイによる各種の""援助"も、もはやそれきりとなったのである。" P31 (『ヴェトナム (上) 』)
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『はまざの哲学』
メモ
(パスカルの言葉)"「そもそも自然のなかにおける人間というものはいったい何なのだろう。無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてのとの中間である。" P34 (『はざまの哲学』)
リチャード・ローティ(1931-2007) は、ジョン・ロック以来の「認識論的哲学」の終焉を宣告したと書かれていた。
昨日、A・J・エイヤー『言語・真理・論理』を読んで現象学は認識論に貢献する可能性を自分は感じたが、最先端の科学に翻弄される「認識論」はもはやその効力を失ったという見解を一定数の哲学者は持っているということを知った。
(クーンの見解)
"彼らは(・・・)後から生まれた理論の方が真理へのより近似であると言える意味を捜し求めているのである。その種のものは見出しえないと私は思う。" P65 (『はざまの哲学』)
"つまり、真理を超越的あるいは外在的なものと前提とした上で、それへの近似としての科学理論の進歩を語ることは不可能だ、というのである。その理由は、真理と対照して理論どうしを比較しうる「中立的言語」(たとえば感覚与件言語)は存在しない、という点にある。クーンによれば、「「真理」という用語は「証明」という用語と同様に、理論内的にしか適用できない用語」なのである。" P65
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書店でぶらぶらしていると『統計学を哲学する』が目に入ったので少し立ち読み。
昨日読んだ「シンプソンのパラドックス」について書かれていた。
パラパラとしか読めていないが、因果と確率に関する論争はまだ決着がついていないように自分には思われた。
そのあとに集合論を、マセマを読みながら地道に勉強。
今日は無限と濃度についていろいろと学んだ。
自然数全体からなる集合N
N ={1,2,3,・・・}
正の偶数からなる集合E
E ={2,4,6,・・・}
直感では明らかにNのほうがEよりも多いように見える。
しかしお互い「無限」なので話は変わり、「1⇔2」、「2⇔4」、「3⇔6」と対応していくのでNとEは濃度が同じと書かれていた。
今日はこの集合を応用して分かる「ヒルベルトの無限ホテルのパラドックス」について学びを得た。
直感と反する数学的事実は今後も多く自分の前に出てくるだろう。
大学生の頃、教授が「これから君たちは直感力を磨くことです」と語っていたが、その方法のひとつとして、世の中は直感に反することが多いという自覚が大事なのかもしれないと思った。
『はざまの哲学』のつづきを読むと、直観主義(証明手続きが具体的に与えられていない問題は真でも偽でもないと主張する立場)は現代数学の主流から外れているという。
矛盾ととことん向き合えば何か見えてくるものがあるかもしれない。
つづく
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関連図書
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