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感想
目に見えないこと、数値化できないことは質的研究として強引に「統計学」「実証主義」の名のもとに学問と見なされる。
『分析哲学 これからとこれまで』のなかでは、飯田隆氏は哲学者の研究は終始「(偉大な)誰かの哲学者の研究」もしくは「解釈」で終わることに対して批判をしていた。
ビジネスの世界に限らず学問の場でも「成果」というものが重視される。
よって実証的なものが優先される潮流にある。
その学問の蓋を開けてみれば、素人から見てもピンと外れと思われる研究もいくつか存在する。
いますぐに頭に浮かんだものを二つ挙げるとすれば、DSM-5において発達障がいが「病気のひとつ」として位置付けられていること。その前提で研究が成されていること。(その意義までは否定しない)
もうひとつはジル・ドゥルーズ『哲学とは何か』を解釈する研究。
「「哲学とは何か」とは何か」という、ある種の転倒がそこにある。
(素人判断なのでその研究の意義までは否定しない)
論文の作成は研究者のオ○二ーという言葉すらある。
中島義道氏は、カントの論文は掃いて棄てるほどあると嘆いている。
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錯綜する哲学と比べれば、民俗学はactualなものだと感じた。
本書のなかで、なぜ柳田國男は官僚の高い地位に上り詰めたにも関わらず民俗学を志したのかについて書かれていた。
柳田國男は農家が貧しいことに衝撃を覚え、社会の仕組みを知るには現場に行くしかないと考えた。
そして農家を豊かにするという使命感を抱いたとされる。
しかし高度経済成長を経てある程度貧しさは解消された。それでもなぜ古屋准教授は民俗学をするのか。
古屋准教授の問題意識は多くの著名な学者と共通しているように自分には思えた。
分かる範囲では小室直樹、橋爪大三郎、宮台真司。他にも沢山いると思われる。
貧しさと豊かさは、実は等価交換であった。
物質的な貧しさと物質的な豊かさとを引き換えに、日本人は精神的な豊かさを差し出し、精神的貧困に陥った。
精神的な病は自然に囲まれると治るとよく言われる。
高木美保という女優は自然のなかに溶け込むことで自身の病を克服したと語っていた。
某有名Youtuberもそう語っている。自分も概ね同意する。
都市化によって失われたものは「目に見えない」ものが多い。
本書によれば、日本人は自然のなかに神が宿っているという価値観があったようである。
都市化するとどうなるか。
そのような伝統的な考えは消え失せ、神に対する想いは簡単に吹き飛ぶことが予想される。
神学や宗教社会学ではカバーしきれないことを民族学がカバーしている。
民族学についてあまり知らなかったが、本書を読んでその大きな存在意義について学びを得た。
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読書日記1211
読んだ本
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日記
『始まりの木』と同時に読むことで、日本のアカデミズムについていろいろと学びを得た。
飯田氏は、日本の哲学研究のダメっぷりについて書いている。
先ほど書いた通り、日本の哲学研究は中島義道氏も言うように、誰かの研究に終始することが少なくないのだという。
論文が英語メインとなると、もはや日本語で哲学の論文が書かれなくなる未来も考えられなくはない。
すると日本語ベースで哲学する力がなくなっていくのではないか。
日本語というものが哲学的には死語になるのではないか。
電子書籍の話の文脈のなかでそういった未来像について語られた。
日本人が英語で哲学する、というのは想像がつかない。
言葉は日々変わっていくものだと分かっているが、違和感が消えない。
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