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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

読書日記1187

読んだ本

デボラ・キャメロン『はじめてのフェミニズムちくまプリマー新書 (2023)

A・J・エイヤー『言語・真理・論理』ちくま学芸文庫 (2022)

池田晶子『無敵のソクラテス』新潮社 (2010)

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日記

 

今日は濃い一日だったように思われる。晴れたので散歩も進み、書店に行ったりと充実した一日であった。

とりあえず読んで考えたことなどを書き残していきたい。

 

 

まず朝は『言語・真理・論理』を読んだ。実在論というものを、少し本腰を入れて学びたいと思うようになった。言語と現実世界の対応関係というものを突き詰めていくと、付随して人間社会の物事が見えてくる。本腰を入れたい理由としては、まず自分はいくつか解明したいことがあり、そのひとつとして、現代ではプラトンの絶対主義がどこまで通用するのか、相対主義に論理的欠陥はあるのか、という問いがある。

 

・・・

 

さすがにサクッと読める本ではないのでゆっくりと読み進めた。

まず命題の扱い方についてしっかりとエイヤーの主張をおさえた。

エイヤーは命題の検証可能性を強いものと弱いものに分ける。

前者は経験的に、決定的に確立される場合とし、後者は経験からその命題が「ありそうなもの」として扱われる場合だとした。

「検証」というものを厳密に扱わなければ不毛な考察に終わることを教えてくれた。

 

 

・命題「この絵はマネが描いたものである」について

"「観念的」に対立された意味において「実在的」であるかどうかを発見出来るような手続きが何かあるだろうか?" P26

 

エイヤーは、答えがどちらであろうが、この命題にはっきりと答えることのできる経験を私たちはすることが可能か?と問い、「明らかにない」とした。

あくまで経験と検証可能性に依拠しなければならない。

 

 

"カントが指摘したように存在は属性ではない。" P30

命題は言語によって構成される限り、実在しないモノ、コトについていくらでも言及できる。だからこそ経験と検証可能性が大事であると自分は感じた。

概念は言語化可能だが、概念自体はモノとしては存在しない。

言語化可能=在る」と見なしてしまうと命題を適切に取り扱うことはできない。

 

 

・・・

 

自分はもうひとつ解明したいことがある。それは公には書けないので伏せる。

自分の好きな作家が明らかに反フェミニズムであることに対してモヤモヤが消えない。

ということで少し勉強をしたいと考えた。

 

 

命題「性は社会的に構築されたものである」について、エイヤー的に考えたらどうなるだろうか。

デボラ・キャメロン氏も書いているように、フェミニズムは派閥が多く、それぞれがそれぞれの戦略で動いているために、端的に複雑で全体像が掴めない。

自分はこの命題が無意味には思えないが、「能力は遺伝よりも環境に大きく左右される」という命題並みに難しいように思えた。

 

 

さきほどの、カント「存在は属性ではない」を三段論法に応用してみた。

1.性別は属性である

2.属性は存在ではない( ≒ 属性は存在しない)

3.性別は存在しない

 

ちょっと無理がありそうだと思われた。たしかに性別は観念的なものではある。

だからといって「性別とは虚構である」と主張するには分厚い本を1冊書いて説得する必要があるかもしれない。

 

 

読んでいて本当に複雑な問題だと感じた。

例えば女性の自己決定権を尊重すると搾取の構造から救えないという、二律背反のような現実がある。

貧しい国では女性の性的搾取を法で抑制しようとすると、金銭的にきつい生活を強いらせてしまう。

サルトルのように「主体性とはなにか」と考えればそれこそまた本を1冊書いて論じることができるくらいの難しい問題だ。

 

 

資本主義は美を価値とする。それは男性優位の社会の産物でもあって、だからといって美を追求することは必ずしも男性のためではないことも理解できる。

自分の人生を豊かにするための美の追求がある一方、美が価値とされる社会構造のなかで、生存戦略としての美の追求という側面もある。

整形、美容器具、コスメ、サプリなどは前者のためでもあって後者のためでもある時がある。

生存戦略として美の達成を強いられる女性は摂食障害などに苦しむこともある。

かくして社会病理が生まれ、他にも気づきにくい生きづらさがいたるところで発生する。

この問題は空間が膨張しているかのように、多面的な様相を呈している。

 

 

池田晶子ならこの状況をどう見るか。

池田晶子は性別なんかどうでもいいと捉える人であった。とりあえず性教育について語っている章があったので読んでみた。内容はエイズ撲滅キャンペーンに関する話だ。

ソクラテス(=池田晶子)は言う。動物の本能が最も恐れるのは死であると。

つまり本能から完全に自由である精神とは、死を恐れない精神である、と。

これは理解できる。理解はできるが実践は難しい。

つづける。

性教育はお互いを尊重することを目標とする、だから想像力を育むためにはコンドームの必要性を教えることは大事だと啓発者は語る。そしてそれが人間性を高めることにつながる、と。

性教育は正しい性のあり方を教え、若者が動物的に乱れた生活を送らないようにするためだ、と。

そしてソクラテスが反論する。

 

 

そもそもエイズを撲滅する目的は、病気を防ぎ、死を防ぐためだ、と。

であれば、結局のところ、死を恐れるという動物的な本能から自由ではない、と。

そのような精神が人間性と全く関係ないということは自明ではないか、と。

性「教育」なのに、人間性の向上に寄与しないことが暴かれた。

 

・・・

 

自己矛盾というのが暴かれたわけであったが、目的というものは時にピント外れになることがままある。

フェミニズムは自己矛盾に陥っていないか。

池田晶子を読み込んでいくと、自分はなんとなく、そのような気がしてしまうのであった。

とはいえ結論付けるのは早すぎる。

物事を広く捉えたいのでこれからも地道に勉強したい。

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