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ダフナ・ジョエル/ルバ・ヴィハンスキ『ジェンダーと脳: 性別を超える脳の多様性』紀伊国屋書店 (2021) 読了

ダフナ・ジョエル/ルバ・ヴィハンスキ『ジェンダーと脳:性別を超える脳の多様性』紀伊国屋書店 (2021)

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感想

 

脳に関する科学的な知見というものがいまいちパッとしない。

あまりにも脳が複雑すぎて研究が追い付いていないのかもしれない。

脳科学似非科学であると指摘する識者もいる。

腸と脳が密接にやり取りをしている「腸脳相関」は、近年明らかになってきたくらいである。

 

 

本書を読んで、常識というものが常に更新されつづけるということを改めて実感した。

昔は当たり前だったが、今はそうではない、という知見は多く存在する。

しかし難しいのは、常識や偏見というものはある程度人間の経験的なものから生まれるということである。

本当は部分的でしかないが、それがあたかも全体であるかのようになってしまうことはよくある。だから偏見は生まれる。

しかしゼロではない。100ではないが0.1ではある。

0.1が50だと思われたら大変である。

だからそれを覆すために反論の材料を集めなければならない。

そしてその材料が詰まっているのが本書であった。

 

 

三つ子の魂百までというのは、発達心理学的にも有力な説だというのは本書を読んでも変わらなかった。

この生まれてから3年の間からジェンダーに関するあれこれが始まる。

例えば、男の子にはこのおもちゃ、女の子にはこのおもちゃという決めつけは、実は成長してから子供が不利な立場に置かれてほしくないという親の偏見があったりする。

男の子もピンクは好きだろうし、女の子も黒が好きだろう。

親は成長してから男の子がピンク色や従来女の子向けと考えられていた遊びなどを好むようになってほしくないという意識があるかもしれない。

そういうことが積み重なってジェンダー規範が子供に内在化されていく。

現状を変えていくのはなかなか困難で、ジェンダー規範というものはかくして再生産されていく。

 

 

本書を読むとジェンダーが科学的な問題ではなくて社会学、政治的な問題だということがよく伝わってきた。

しかし課題はあまりにも多い。

科学的な正しさと政治的な正しさの境界線を取り決めることはかなり困難ではないだろうか。

 

"さて、この本の締めくくりとして、未来の展望について述べたい。私が思い描く未来に男性や女性はいない。いるのは女性、男性、あるいは間性の生殖器を持つ人だけだ。" P175

 

自分はトランス女性のトイレ問題について考えた。

エマ・ワトソンは寛容で、全く問題ないと述べていたみたいである。

しかし、身体的に男性の人が女性用トイレに入れるだろうか。

 

 

フェミニズムの目標は、平等ではなく女性が心地よく暮らせる社会を実現させることであるはずだ。

であれば不必要な平等(トイレの男女共用論など)は排除されるべきではないか。

自分は行きすぎた平等への使命感に多少危惧する。

 

 

他にも、本書で書かれていたトピックに関して挙げれば、教育現場において男児への接し方や女児への接し方に関してどう在るべきなのか考えさせられた。

寒い時、男の子にはコートを着させ女の子には自分で着させるという妙な配慮が存在しているようである。

配慮も1つのキーワードとなるだろう。

 

 

行きすぎた平等はディストピアにもなり得る。(共産主義者たちの失敗を鑑みれば)

社会に突きつけられているのは、先程書いたように、科学的な正しさと政治的な正しさを明確にすることではないだろうか。

 

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