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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

読書日記1324

読んだ本

ロバート・ノージック『生のなかの螺旋:自己と人生のダイアローグ』ちくま学芸文庫 (2024)

須藤靖/伊勢田哲治『科学を語るとはどういうことか:科学者、哲学者にモノ申す 増補版』河出書房新社 (2021)

木下頌子/渡辺一暁/飯塚理恵/小草泰『分析フェミニズム基本論文集』慶應義塾大学出版会 (2022)

松岡正剛/ドミニク・チェン『謎床』晶文社 (2017)

プラトーン著作集『〈第6巻 第3分冊 ピレーボス〉善・快楽・魂 (櫂歌全書 18)』櫂歌書房 (2017)

その他数冊

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日記

 

土日ほど本を読める日はない。

散歩したりBARに行ったりして、たまにはのんびりして休んだらどうか、という内なる声が今はない。

完全になくなってしまった。

新入社員の頃に散歩という名の放浪をし過ぎた。

今はお金があまりないので、できることといったら読書。

「なんのためにそんな読むの?」「バカなの?」と言われても分からなくはない。

でも自分はそれでも本を読んでいたい。そうなってしまったのである。

(最近、Twitter経由でこのブログに来る人が増えたので、念のための自己紹介)

 

 

『生のなかの螺旋:自己と人生のダイアローグ』

メモ

 

"われわれは、よい暮らしをする人の数が少なくなるよりはこの国の人口が減少する方がよいだろうと信じる。幸福の総計が、もしもほとんど積極的な幸福はなく存在しないよりはましである程度に生きている個人の大集団を付加し続けることを意味するのなら、そんなものは最大にならない方がよいと考える。そんな幸福の総計は多量すぎることによって幸福の平均値を下げるだろう。" P422

 

持論

幸福度調査の問題点は、幸福度に中央値がないことなのではないか?

 

メモ2

全能者のパラドックス

「神は神が持ち上げることのできない石を創れるか?」

できる⇒持ち上げることができない石が存在することになるので、神は全能ではないことになる。

できない⇒創れない石が存在することになるので、神は全能ではないことになる。

 

 

全体的に考えさせられるテーマが多く、小難しい表現が少なく文章もハッキリとしていて良書だと感じた。

 

・・・

『科学を語るとはどういうことか:科学者、哲学者にモノ申す 増補版』

自分はヒュームの法則や自由意志問題を好んで読んでいたので、科学哲学という分野を自然に受け入れていた。

しかし物理学者である須藤氏からすれば、こんなもの科学の役に立つのか?というものに見えるらしい。

 

伊勢田氏が須藤氏のツッコミにこれでもかというくらい丁寧に答える。

冷静に、丁寧に答え、科学哲学への誤解がすこしずつ解消されていく。

(それでも須藤氏の考え方は常に変わらない)

 

「そんなこと考えて何になるの?」

という突っ込みが多かった。

須藤氏は、社会の役に立たない学問は要らないという意見を持っていることが自分には分かった。

この理屈でいくと、おそらく民俗学、文学、考古学などは、直接には社会の利益にならないであろうから不要だということになりはしないか。

 

 

伊勢田氏は、法学には「自由」「責任」といった概念の解釈の問題など、部分的に哲学の知見が生かされていると須藤氏に説明をする。(環境決定論など)

「でも、自由意志を突き詰めることになんの意味があるの?」

という態度は最後まで変わらなかった。

哲学という分野がどういうふうにみられているのか、よく分かる一冊であった。

なかなかに面白い。

 

・・・

『〈第6巻 第3分冊 ピレーボス〉善・快楽・魂 (櫂歌全書 18)』

「考えることを考える本」

あまりにも本書は難しすぎた。

よく調べたら、過去に一回「ピレボス」を別の本で自分は読んでいた。

あれから池田晶子の本を引き続きかなり読んだと自負しているが、「考えることを考える」の意味がまだまだ全く分かっていない自分がいることは理解できた。

 

6割ほど本編を通読したが、あまりにも難解で参ってしまった。

「快楽主義者 VS 善く生きるソクラテス」という構図くらいは理解できるが、あまりに抽象的な議論が続いたので、明日は解説をメインに読んでいこうと思うに至る。

 

・・・

『謎床』

メモ

 

(松岡正剛) "日本では、「ある」よりも「なる」が大事ですからね。なんでも「成り行き」になるんです(笑)。" P125-126

 

(ドミニク・チェン) "つまり、「どういうデータを集めるか」ということについては、それほどイノベーティブなことが起こっていない。コストが下がっていて、またありとあらゆる物理・環境情報が取れるようになっているので、拾えるものは全部拾うという状態でしかない。" P147

 

・・・

『分析フェミニズム基本論文集』

 

メモ

"他方で、ヌスバウムの考えによれば、D.H.ロレンスの小説に描かれているような許容可能なモノ化の場合には、道具扱いがまったく含まれていないという。しかしこの主張は信じがたい。あらゆる性的行為において、私たちは間違いなく、相手を利用しており、したがって道具扱いしている。" P125-126

 

 

ヌスバウム氏の考察に沿っていくと、どこまでが道具扱いなのか?という問いに収斂することによって、性的モノ化の研究は道徳的要件を分析する作業になり、終いには性的パートナーの関係を定義づけるような狭い文脈に集中し、ジェンダーの役割が形成される様々な文脈に対する視点を欠いていると、ティモ・ユッテン氏は述べた。

 

 

これを読み、自分は非常に複雑な面を見て取った。

 

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関連図書

 

 

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