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炎上するたびに収益が上がる社会の構造、なんとかなりませんか?

 先日、ちょっとした出来事があった。記事の内容に大きな問題があったわけではない。ただ、当たり屋のようにちょこっと絡んだだけだ。中傷ではない。それだけのことだ。大規模に拡散されたわけでもない。SNSで炎上トレンドに入ったわけでもない。コメント欄が荒れに荒れたわけでもない。ほんの一部での小さなやりとりに過ぎなかった。
 ところが、である。AdSenseの収益はその数日で5倍になった。普段なら気にも留めないほどの誤差のはずが、明確に数字として跳ね上がった。冷静に考えれば、アクセス数は少しだけ増えた程度であり、爆発的な流入があったわけではない。それなのに、広告収益のグラフは急上昇していた。この事実の方が、むしろ奇妙である。
 「炎上すれば儲かる」という構図は、耳慣れた言葉だ。しかし今回は炎上ですらない。ただ、ちょっと絡まれただけ。それでも数字は動く。つまり、炎上という大きな事件でなくとも、「摩擦」や「争いの芽」さえあれば、それが収益に直結する仕組みがある、ということになる。
 この現象をどう説明できるだろうか。ひとつは、人間の関心の向き方そのものに原因がある。平凡な記事よりも、誰かが噛みついた記事の方が気になる。賛否が割れる瞬間にこそ、読者は覗きに来る。批判的に読みに来る人もいれば、「何があったのか」と見に来るだけの人もいる。その小さな動きが、広告収益の世界では大きな数字となって跳ね返る。
 もうひとつは、広告単価の揺らぎだ。AdSenseの仕組みは、単純にアクセス数だけでなく、その瞬間の入札状況やコンテンツ内容との関連性で単価が変わる。議論や摩擦が生じる記事は、滞在時間が伸びたり、クリック率が上がったりする。その相乗効果によって、収益が増大する可能性がある。つまり、私が経験した「収益5倍」も、偶然のように見えて、仕組みからすれば必然だったのかもしれない。
 しかし、ここに大きな問題が潜んでいる。健全に書いた記事よりも、誰かに絡まれた、あるいは絡む記事の方が儲かる。この逆転は、書き手のモチベーションを歪める。「誠実に書く」よりも「少し炎上の芽を仕込む」方が効率がいい、と学習してしまうからだ。私自身も、一瞬「なるほど、この手があるのか」と思ってしまった。だが、その感覚こそが危険である。
 なぜなら、これを繰り返すことで「表現の質」よりも「騒ぎの有無」が優先されるようになるからだ。記事の内容がどうであれ、誰かが噛みつけば儲かる。すると「噛みつかれるための言葉遣い」「誤解されやすい表現」「あえて過激に書く」という方向にシフトしてしまう。結果として、読者にとって有益な情報よりも、感情を刺激するだけの断片が増えていく。
 今回の私の体験は、ごく小さな事例に過ぎない。だが、この小さな現象の背後には、社会全体に広がる構造が透けて見える。炎上や衝突が、経済的インセンティブによって強化される構造だ。それは必ずしも大規模な炎上でなくともよい。むしろ「小さな摩擦」の方が頻繁に起き、その積み重ねが収益を押し上げる。こうした仕組みの中で、誠実にものを書こうとする人間が報われにくくなっているのではないか。
 さらに言えば、これは広告モデルだけの話ではない。SNSアルゴリズムも同じ構造を持っている。誰かが誰かに噛みつけば、その投稿はエンゲージメントが高いと判断され、上位に表示される。議論や対立が可視化されればされるほど、目につきやすくなる。そしてその注目が、また広告や収益に変換される。こうした循環を前にすると、私の「収益5倍」は決して例外的な出来事ではないのだ。
 では、どうすればよいのだろうか。広告モデルを捨てることは簡単ではない。多くの個人ブロガーや小規模メディアにとって、AdSenseは依然として重要な収入源だ。だが、その仕組みが「健全な記事よりも摩擦を優先する」方向に働いているなら、結果的にメディア全体が歪んでしまう。短期的には収益が上がっても、長期的には信頼を損なう。私が感じた違和感は、個人の問題を越えて、社会全体の課題でもある。
 もう一度強調したい。私は炎上したわけではない。ただ少し絡まれただけで、収益は確かに跳ね上がった。この「ちょっとした摩擦」ですら、経済的な意味を持ってしまう社会に、私たちは生きている。大規模な炎上を起こす必要もない。ほんの些細な摩擦が収益化されるのだとすれば、これからのインターネット空間はどうなっていくのだろうか。

 

最後に・・・

この事実を前に、私たちはどんな選択をすべきだろうか?