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なぜ問いを立てると炎上するのか──小説批判ではなく読書文化の話

少し前に、私はTwitter(今のX)で「なんで小説しか読めないんだ?」と引用ツイートをしました。正直に言えば、あまりに「小説以外の本」をシェアする人が少ない現状に、うんざりしたからです。ブックオフに行けば、何十万冊という本が110円の棚に並んでいる。けれどもSNSの読書界隈では、そこで取り上げられるのはほとんど小説ばかり。詩も哲学書も評論も実用書も、ほとんど登場しません。そこに違和感を覚えて、問いを投げかけただけでした。

ところがその一言は、一瞬にして炎上の火種となりました。「小説を馬鹿にしているのか」「人の自由に口を出すな」「小説こそ想像力を育む素晴らしいものだ」という批判が集中し、フォロワーは一気に200人減少しました。しかも「フォローを外しました」「不快でした」と宣言する人が次々に現れ、私のタイムラインは一夜にして断罪の場と化しました。

皮肉なことに、その同じ時期にAdSenseの収益は跳ね上がりました。炎上によって記事が読まれ、アクセスが増えたのです。フォロワーは減り、批判は増えたのに、収益は5倍になった。つまり「炎上は商業的には得になる」という逆説的な構造が、あからさまに可視化されたのです。

私はそのことに、正直言って背筋が冷たくなる思いがしました。なぜなら、それは「攻撃や誤解の増幅が、公共的な問いを立てることよりも利益を生み出す」社会構造を示しているからです。問いかけが炎上の引き金となり、炎上が注目を呼び、注目が収益へと変わる。こうした仕組みは、私個人の問題ではなく、現代の情報環境に根差した現象だと思うのです。

もちろん、小説を読むこと自体に何の問題もありません。小説は想像力を育み、感情を揺さぶり、人生を豊かにする力を持っています。それを否定するつもりはまったくありません。私が問いたかったのは、小説を読む自由そのものではなく、「小説だけを読むことが当たり前」とされている空気です。なぜ、他のジャンルは影に追いやられるのか。なぜ「小説中心」が、読書の“標準”とされてしまうのか。

それは読書文化における「見えない前提」の問題です。読書の多様性を認めるなら、詩や哲学や科学書も同じく「読書」の一部であるはずなのに、小説だけが特権的な位置を占めている。しかも、その状況を問いかけただけで「攻撃」と受け取られる。ここには「問いを立てる人は嫌われる」という社会的なメカニズムが働いています。

なぜ、問いは攻撃に見えるのでしょうか。理由の一つは、SNSの文脈の短さにあります。140字の制限の中では、問いをやわらかく敷衍する余裕がありません。「なぜ小説ばかり?」というシンプルなフレーズは、挑発にも、嘲笑にも読める。さらに拡散のスピードが加わり、「この人は小説を馬鹿にしている」というレッテルが一瞬で固定化されてしまう。

もう一つの理由は、アイデンティティの問題です。人にとって「好きな本」は、自分自身の延長のようなものです。小説を愛する人にとって、「なぜ小説ばかり?」は「なぜあなたはそんなものばかり?」と聞かれたように響く。だからこそ、冷静な問いは「人格攻撃」として受け取られる危険を孕んでいるのです。

しかしそれでも、私は問いを立てることをやめたくはありません。なぜなら、読書文化の偏りに気づくことは、私たちの思考の幅を広げるうえで不可欠だからです。小説は素晴らしい。けれども、他のジャンルを遠ざけてしまえば、その素晴らしささえも偏狭なものになってしまうかもしれない。問いは、攻撃ではなく、文化を開く扉なのです。

今回の炎上で、多くの人を不快にさせてしまったのは確かに私の未熟でした。問いの立て方や言葉の選び方に改善の余地があったのも事実です。けれども、問いそのものは消してはならない。むしろ「なぜ問いを立てると炎上するのか」という問いをさらに深める必要があるのだと感じています。

フォロワーを減らし、批判を浴び、収益が増える。この逆説は、私たちの社会が「炎上を燃料にした経済」を内包していることの証明でもあります。読書文化の問いが、商業的な構造によって歪められてしまう。この矛盾を前にして、私たちはどうすればいいのでしょうか。

小説を読む自由と、小説だけを読む社会。問いを立てる自由と、問いを攻撃とみなす社会。炎上が収益を生む構造と、公共的な議論の必要性。この三つの緊張関係のなかで、私たちはどのように読書文化を守り、広げていくことができるのでしょうか?