タイトルを打った瞬間、指先がわずかに痺れた。他人に向けられた棘のはずが、いちばん近くの皮膚に刺さる。私は読書梟。日々、本に額を擦りつけては夜を薄く削り、気づけば七千のフォロワーに取り囲まれている。取り囲まれる、という言い方がぴったりだ。あの数字は安堵でも誇示でもない、輪郭のない群れだ。呼べば返事をするのか。拍手はくれるのか。机に椅子を引いて座ってくれるのか。答えは、たいてい沈黙だった。
あの夜のことを、私は言い逃れせず書く。「なんで小説しか読まないんですか?」と、私は打った。見ず知らずの誰かの「やっぱり小説が最高」のツイートに、素手で触れた。触れる前に三回消し、四回打った。送信の青い光が消えると、胸の奥が一度熱くなり、すぐ冷え、また熱くなった。当たり屋みたいだ、と自分で思った。いや、違う。あれは私の生活の中心にある問いだった。本の棚は小説だけで埋まらない。哲学の角、歴史の継ぎ目、科学の図の白地、エッセイの余白――それらが私の呼吸を守ってきた。どうして、と聞きたかった。ただ、それをXでやった。たまたま見つけた一人に向けて。返事は来ない。既読もわからない。タイムラインは何事もなかったかのように次の笑い話を運び、炎上の火種を乾いた手つきで並べ替える。私は自分でこしらえた小さな火を前に、火元の番人にもなれず、焚き火の観客にもなれない場所に立ち尽くした。
翌朝、私は読書会の告知を出した。「金曜21時/序章の一句だけ」。結局、集まったのは一人だった。画面に現れたのは麦茶を持つ青年で、角度の甘い笑顔をしていた。彼は名を名乗り、「あの、昨日のツイート、読みました」と言った。胸が詰まった。まさか、と思った。「ごめんなさい、刺すように見えたかもしれないけど」と私が言うと、彼は首を振った。「自分の棚が、急に狭くなった感じがして。広げたいなって」。それは救いだった。だが救いはいつも、同時に告白でもある。私は火を点けた。相手が燃えたふりをしてくれただけなのに、私は温かさを受け取ってしまう。
読書会は静かに始まり、静かに終わるはずだった。序章の一句を言い合い、各自の引っかかりを置いていく。それだけで十分なはずだ。ところが私は、司会の合間にタイムラインを覗く癖が抜けない。通知が膨らみ、昨夜の問いに遅れて反応がつく。「攻撃的」「偏ってる」「でもわかる」――鋸の歯のような肯否の波。私は画面を伏せ、青年に向き直った。青年はページの隅を折りながら言った。「小説しか読まないって、安心なんだと思うんです。世界の形がはっきりしているように感じるから。だけど、はっきりしてるってことは、どこかで誰かが削ってるってことかもしれない」。私は頷いた。私が欲しかったのは、こういう言葉だ。拍手ではなく、椅子を引く音。探すときの呼吸の不揃い。
会が終わったあと、私は散歩に出た。古本屋に入り、薄い哲学書を一冊買う。レジで店主が、領収書に小さく「返品不可」と書いた。私は冗談めかして「言葉も返品不可ですよね」と言うと、店主は肩をすくめた。「そうですね。あと、承認も」。帰り道、封筒の中で紙が擦れる音が、やけに大きかった。承認は返品不可。褒められることも、噛みつかれることも、一度体内に入ると、形を変えて沈殿する。沈殿は時に毒だ。私は毒に名札を貼ろうとする。貼る名は、たいてい問いだ。
夜、私は下書きの中の一文に戻った。「こういう時だけコメントするのやめてもらっていいですか?」。炎上や流行りものの時だけ現れて踵だけ踏んで去っていく人々に向けた言葉。だが、スクロールしていくうち、私は自分の影を見つける。昨日の私こそ、あの「こういう時だけ」を作った張本人ではないか。相手が小説の楽しさを無邪気に言葉にした瞬間に現れて、問いの刃先をそっと当てたのは私だ。正しさと傲慢の境界に立つと、人は自分の靴音を聞かなくなる。私は画面を閉じ、机に手書きで同じ文句を書いた。紙にすると、棘の輪郭がはっきりする。私はその下に小さく追記した。「これは私が、私に向けて言う」。
翌日、メッセージが届いた。名の知らないアカウントから、丁寧な言葉で。「昨日の問い、ひどく刺さりました。私は小説だけで自分を守っていたのかもしれません。他のジャンルも読んでみます。おすすめ、ありますか」。私は即座に返信しなかった。おすすめは、宣言より重い。責任がついてくる。私は書棚の前で立ち止まり、最初の一冊を探した。安全すぎず、危険すぎず、けれど境界を跨がせる本。思案の末、私は三冊のタイトルを打った。返ってきた短い「ありがとうございます」を読んで、体がわずかに軽くなる。誰かが棚の隅を広げた音が、確かにした。
午後、例のツイートに派生スレが立っていた。「人はなぜ小説に逃げるのか」「小説だけ読んで何が悪い」――議論は早口言葉のように滑らかで、同時に空虚だった。私はそこに割って入ることも、観客になることもやめ、ブログの編集画面を開いた。Xは入口。蓄積は別の場所に置く。そう決めてから、心の荒れが一段落するようになった。私は記事に今日の読書会の記録を残し、青年の言葉を匿名のまま短く引用した。「はっきりしてるってことは、どこかでだれかが削ってる」。保存ボタンを押すと、部屋の明かりが少しだけ白くなった気がした。
金曜。二度目の読書会の告知を出す。今回は狙いを絞って、「ふたりで話したい」と正直に書いた。すると、三人からDMが来た。うち二人は当日、仕事で来られなかった。残った一人は、また彼だった。私たちは序章の一句から始め、そこに含まれる不器用さを手で確かめた。文の継ぎ目に指をかけるみたいに、意味がまだ固まっていない場所を探す。探す音が、スピーカー越しにほんの少し聞こえる。終わり際、彼が言った。「昨日の“なんで”のツイート、ぼくにもきっと、いつか必要になると思います。必要なときに受け取れるように、いまは胸ポケットにしまっておく感じ」。私は笑った。棘は、刺すためにしか存在しないわけじゃない。自分の向きを確かめる指針でもある。
通話を切り、私は再びタイムラインに戻る。誰かが誰かのことばを切り取って、鋭利に磨き上げている。「こういう時だけコメントするのやめてもらっていいですか?」というフレーズさえ、別の文脈で踊っていた。私は親指を止め、息を整え、昨夜の自分の言葉をもういちど読む。やめてもらっていいですか――命令形の影に、恥が立ち上がる。私は下書きを削り、こう書き換える。「この問い、私から始めたのだから、片づけるのも私からでいい」。送信はしない。これは自分の机の上で完結させる作業だ。
机の端には、古本屋の領収書がある。「返品不可」の小さな字。私はその隣に、さらに小さく書き足す。「問いも、返品不可」。いったん口にしたものは、いつか必ず自分に戻ってくる。戻ってくることを前提に、言葉を投げなければならない。そうすれば、当たり屋の足さばきは、仕掛け人の歩幅に変わるかもしれない。私はメールを開き、昨日の人に「その後どうですか」と短く送る。返事はしばらくして、「棚、ひと段だけ増えました」。写真が添えられ、そこには見知らぬ背表紙の並びがあった。いい。知らない背表紙が、ここから増えていく。
深夜、窓の外に終電の気配が薄く漂う。私はノートを開き、今日の一句を自分用に書く。「序章の一句から始めましょう。あなたの一句を教えてください」。それから、もうひとつ。「なんで小説しか読まないんですか?」――この問いに、私はいつか丁寧に答える日を用意しよう。小説の向こうに広がる棚の地図を描き、道標を立て、迷いや苛立ちの行き止まりにベンチを置く。その準備を、明日から始める。拍手の数ではなく、椅子の脚の数で数える場所を増やしていく。
画面を消す前、私はふと自分のプロフィールの固定ツイートを変えた。「こういう時だけコメントするのやめてもらっていいですか?」ではなく、「あなたが座れる椅子はここにあります。ふたり分あります」。単純で、少しだけ照れくさい言葉。送信して、私は灯りを落とす。暗闇の中で、紙袋がこすれる音がした。返品不可の紙だ。私は頬のどこかに沈んでいる承認の残り火を、そっと息で揺らす。燃やし切れたら、灰は土になる。土になったら、また椅子の脚を支える。そう考えると、眠気がやってきた。
最後に、自分に向けて問いを置いておく。「あなたは、どの一句から始めますか?」