炎上をめぐる観測を重ねてきた。第1回では、応酬を統括的に整理し、第2回では誤謬とバイアスを洗い出した。最終回であるここでは、「問いかけ」という視点に焦点を当てたい。炎上の只中で失われたものは、実は答えではなく、問いそのものだったのではないか。もしそうならば、私たちはどのように問いを取り戻し、公共圏を再設計できるのだろうか。
1. 「問い」が拒絶される構造
これまでのやり取りを振り返ると、もっとも多くの抵抗を受けたのは、私が投げた「問い」であった。「注目されたいのですか?」という問い、「謝罪は具体的にどのような修復プロセスを伴うのですか?」という問い。これらは本来、議論を前進させるための出発点のはずだった。しかし返ってきたのは「人間的に終わっている」「おもちゃ」という断定である。問いを開く代わりに、扉は閉ざされる。ここに、炎上を観光する人々の構造が透けて見える。
問いは不快である。なぜなら、問いは答えを強制せず、余白を作るからだ。余白は不安を生み、不安は防衛反応を招く。批判者たちがラベル化や嘲笑に走ったのは、問いを受け止める不安に耐えきれなかったからかもしれない。だがその防衛は、公共圏を狭める方向にしか働かない。
2. 公共圏における問いの役割
ハーバーマスは公共圏を「討議による正統性生成の場」と定義した。討議の原動力は答えではなく問いである。問いがなければ討議は始まらず、答えはただの独白に終わる。炎上の現場では、この基本が覆されていた。問いを立てた者が「説明責任」を押し付けられ、断定した者は免責される。これは公共圏の倒錯である。
ここで思い出すべきは、アーレントが強調した「行為の予測不可能性」だ。行為も問いも、未来を開くがゆえに制御できない。だからこそ問いは不安を生む。しかし不安に耐える力こそが、公共性を支える。炎上の観測から得た最大の教訓は、公共圏の健全性は「問いへの耐性」に比例する、という点だ。
3. 非暴力としての問い
問いは、非暴力の一形態である。怒りをぶつけるのではなく、相手の思考を呼び出す行為だからだ。ガンディーが実践した非暴力抵抗は、相手を打ち負かすのではなく、相手の良心に呼びかける方法だった。同じように、問いは相手の思考に呼びかける。もちろん、すぐに応答が得られるとは限らない。だが問いは種であり、芽吹く可能性を残す。
炎上の現場で嘲笑や罵倒が投げ込まれても、問いは非暴力のかたちでそこに残り続ける。暴力は瞬間的に強いが、問いは持続的に効く。定点観測を通じてわかったのは、問いこそが沈黙を打ち破る唯一の道である、ということだった。
4. 読書と問いの連関
ここで読書の営みと接続してみよう。小説を読むか、哲学書を読むか、その選択をめぐっても批判が飛び交った。しかし本を読むという行為は、じつは「問いを持ち続ける訓練」にほかならない。物語は「なぜ?」を誘発し、哲学は「本当にそうか?」を問い直す。読書は答えを与えるだけではなく、問いを持続させる技術を育む。
だからこそ、多様な読書文化は公共圏にとって重要なのだ。読書によって鍛えられた問いの感性があれば、炎上の場も即座に断定で閉じられることなく、少なくとも一度は立ち止まる契機を得る。読書と公共性は、静かに結びついている。
5. 再設計のための条件
では、炎上を問いに変えるために何が必要だろうか。ここで三つの条件を挙げたい。
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断定の根拠を要求する文化
断定を投げた側が説明責任を果たすのは当然だ。そのルールが共有されれば、ラベル化は容易に通用しなくなる。 -
問いへの耐性を高める訓練
不安を恐れず、余白を引き受ける態度が必要だ。これは教育や読書の実践を通じてしか育たない。 -
嘲笑を批評へと転換する工夫
笑いそのものを排除するのではなく、嘲笑を対象化し、そこから批評を生み出す視点が求められる。観光的笑いを批評的笑いへ変換することが、公共圏を広げる。
6. 最後の問い
ここまで、炎上を定点観測し、誤謬を解剖し、問いの役割を考えてきた。結論は単純ではない。炎上はなくならない。むしろこれからも繰り返されるだろう。だが炎上を「観光」で終わらせるか、「問い」へと変えるかは、私たちの選択にかかっている。
だから最後に逆質問を投げたい。あなたにとって「問い」とは何か。相手を詰ませるための道具か、それとも共に考えるための橋か。もし後者を選ぶなら、炎上もまた公共圏を更新する契機になりうるのではないか。