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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

も~も〜、自己家畜化された家畜がうるさくて嫌になります

つづきを展開

 

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「なぜ小説しか読めないのか?」ただそれだけを投げかけたことで、私はX上で無数の批判を浴びた。「ウザ絡み」「不快」「人としてどうか」「棲み分けの問題」……。繰り返される言葉の数々は、私に向けられているようでいて、実際には群れ同士が互いに安心しあうための鳴き声に過ぎなかった。通知が鳴れば反射的に群がり、同じ表現を並べ、同じジェスチャーで「不快」を示す。それは個人の意見ではなく、群れの合唱だった。私はそれを「群れの正義ごっこ」と呼んできたが、もっと適切に言うなら、あれは「自己家畜化された人間」の反応にほかならない。
リチャード・ランガムは『善と悪のパラドクス』で、人間が進化の過程で「反応的攻撃性」を抑え込む方向に自己家畜化されたことを論じている。衝動的に暴れる個体は共同体の中で淘汰され、温和で協力的な気質をもつ者が生き残った。つまり人間は、日常の場面では驚くほどおとなしい「飼いならされた家畜」として振る舞う。しかしその一方で、群れとしては高度に組織化された「計画的攻撃」を可能にした。そこに「善と悪のパラドクス」がある。温和さと残虐さは、同じ進化的プロセスの表と裏なのだ。
SNSでの炎上は、このパラドクスの縮図だと私は思う。ひとりひとりは温和な読書好きに見える。しかし問いを立てられた瞬間、群れのスイッチが入る。誰かが「不快だ」と言えば、次々と「そうだ」「ウザい」と連鎖する。暴力の刃物を振り回すわけではないが、言葉の群れが合唱する時、それは処刑にも似た計画的攻撃になる。しかもそれは「自分は正しい側にいる」という確信に満ちた安心感のもとで行われるから、なおさら悪質である。
「自己家畜化された家畜が鳴いている」──私は炎上の渦中で、そう感じずにはいられなかった。も~も〜と鳴く牛のように、彼らは一斉に同じフレーズを繰り返す。「小説を馬鹿にするな」「不快だ」「人としてどうか」。それはもはや意見ではなく、反射神経に近い。問いの意味を考える前に、群れの調和を乱す存在を叩くことが第一になる。自己家畜化とは、まさにこうした反射のことではないか。
私は小説を否定しているわけではない。むしろ物語の力を誰よりも信じている。だが「なぜ読書といえば小説が標準になるのか」という問いを投げかけると、それは「小説を馬鹿にしている」と解釈され、即座に反撃される。ここで重要なのは、反撃が個別の論拠ではなく、群れの合唱として表れることだ。もし本当に議論したいなら、「なぜ小説が文化の中心になりやすいのか」を一緒に考えればいい。教育制度の影響かもしれないし、出版市場の構造かもしれないし、物語が共有しやすいという社会的要因かもしれない。だが実際にはそうはならず、群れの声は「不快」というラベルを貼って思考を終了させる。
これがまさに自己家畜化の弊害だ。衝動的な暴力は抑えられている。だから誰も直接的に危害は加えない。しかし群れとしての「処刑システム」は維持されている。群れの中で「不快」と言えば、それが合図となり、一斉に鳴き声が始まる。その鳴き声こそが「群れの正義ごっこ」であり、現代SNSにおける新しい暴力のかたちなのだ。
読書とは本来、群れから離れ、自分の内面と静かに向き合う営みだったはずだ。書物は、群れの声ではなく、他者の個としての声を私たちに差し出してくれるものだ。ところが今の読書文化は「小説=読書」という安易な通念の中で群れを形成し、問いかけを投げる者を「不快」として排除する。自己家畜化によって獲得された「温和さ」が、いつのまにか「問いの排除装置」として働いているのである。
も~も〜と鳴く声の中で、私は思う。人間は本当に進化したのだろうか。自己家畜化によって私たちは互いを殺し合わずに済むようになった。だが同時に、群れの合唱による「社会的処刑」をより洗練させたのではないか。SNSにおける炎上とは、まさに人間進化の副作用なのだ。
問いを立てることは、家畜の群れを乱す行為である。だからこそ「罪」とされ、「罰」として集中砲火が浴びせられる。だが私は言いたい。問いを立てることがなければ、読書も文化も死んでしまう、と。小説の素晴らしさを語ることも大切だ。しかし「なぜ小説なのか」と問うこともまた、大切なのだ。その両方を受け止められないなら、それは文化ではなく、ただの群れである。

 

最後に・・・

あなたは自己家畜化された群れの鳴き声に安心していたいですか? それとも鳴き声を超えて、自分自身の言葉で問いに向き合いますか?