つづきを展開」
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炎上は明らかに効果がある。数字だけを見れば、短期間でアクセスは爆増し、コメント欄は活況を呈し、アルゴリズムも「注目されているコンテンツ」としてさらに優遇する。冷静に考えれば、誰もが嫌がるはずのネガティブ現象が、なぜこれほどまでにアクセス数や収益のブースターになり得るのか。ここには単なるネット文化以上に、人間の感情の仕組みそのものが深く関わっている。感情科学の視点から炎上を読み解くことで、私たち自身の弱さと欲望があらわになる。
第一に指摘すべきは、人間には「ネガティビティ・バイアス」が備わっているという事実だ。心理学の研究では、ポジティブな情報よりもネガティブな情報のほうが注意を強く引きつけ、記憶にも残りやすいことが示されている。進化論的に言えば、それは当然だ。生存のためには「美しい花を見逃す」よりも「毒蛇を見逃さない」ほうが重要だからである。この適応的性質が、現代の情報環境では逆に利用される。誰かの不祥事、失敗、過激な発言――そうしたネガティブ情報は、我々の脳に「危険信号」として刻まれ、スクロールの手を止めさせる。そしてそれが「炎上」と呼ばれる現象の始動点となる。
さらに、怒りは単なる不快感情ではなく「行動を誘発する感情」である。恐怖や悲しみが人を退避や萎縮に導くのに対し、怒りは「相手を糾弾したい」「不正を正したい」というアプローチ行動を生み出す。つまり炎上は、観客を「受動的な視聴者」から「能動的な参加者」へと変える装置なのだ。怒りを覚えた人はコメントを書き、リツイートし、抗議のメールを送り、署名運動に参加するかもしれない。炎上が「ただ見られる」だけでなく「加速度的に拡散される」のは、この怒りの行動誘発性に根拠がある。
感情科学が教えるもう一つのポイントは「感情伝染」だ。人間は社会的動物であり、他者の感情に容易に感染する。実験的にも、怒りに満ちた投稿を目にすると、それを読んだ人々の怒りレベルが上昇することが確認されている。ソーシャルメディアでは、誰かの怒りを表明する投稿が瞬く間に「共感」や「同調」を引き出し、それが連鎖していく。こうして個人の小さな怒りは、数時間で数万単位の人々を巻き込む炎上に膨れ上がる。炎上とは、感情のパンデミックに他ならない。
短期的効果をさらに強めるのが、炎上の「報酬系」効果である。神経科学的に言えば、怒りを表明する行為は脳の報酬回路を刺激する。攻撃的コメントを投げつけたり、相手を皮肉ったりすることで、一時的に「正義を行使した」「優位に立った」という快感が得られる。これはドーパミンの分泌を伴う報酬体験であり、炎上参加を「やめられない」理由でもある。皮肉なことに、批判や糾弾という一見ネガティブな行為が、本人にとっては「気持ちよさ」につながってしまうのだ。
この報酬効果は炎上の当事者側にも働く。ネガティブな注目であっても、視聴数やコメント数が跳ね上がれば、それ自体が「注目を浴びている」というドーパミン体験になる。炎上商法が繰り返し使われるのは、嫌悪を買ってでも「注目される」ことが脳にとって強烈な報酬だからである。短期的にせよ「数字が伸びる」という現象が、収益や承認欲求を即座に満たす。だからこそ、炎上は確実に効果がある。
しかし問題はここからだ。感情科学はまた、慢性的な怒りや不安が心身を蝕むことも示している。炎上は一時的には快感を伴うが、長期的にはユーザーの心理的消耗(burnout)やシニシズムを引き起こす。毎日誰かを叩いている人の多くが、いつしか虚無感や孤独感に襲われるのも無理はない。また、炎上を繰り返す発信者は短期的には収益を得ても、徐々に「信用資本」を失い、いざというときに支持を得られなくなる。つまり炎上は「燃料」としては爆発的だが「資産」としては持続性がない。
感情科学的に言えば、炎上は「強力だが消耗の早い資源」である。怒りの感情は一瞬のエネルギーを生むが、燃え尽きるのも早い。そして燃え尽きた後には、信頼の空洞と心理的疲労が残るだけだ。それでも私たちは何度も炎上に巻き込まれる。なぜか。理由は単純で、「それが気持ちいいから」である。怒りを共有し、誰かを叩き、数字が跳ね上がる。それが短期的なドーパミン報酬をもたらす。つまり炎上は、人間の進化的弱点と神経的報酬を巧妙に利用した「感情の罠」なのだ。
ここまで考えると、炎上の効果と危険性ははっきりしている。短期的な注目や収益には直結する。しかし長期的な信頼や持続的な関係性を破壊する。つまり炎上は「今日だけは効くが、明日には毒になる」薬物に似ている。それを理解したうえで、私たちはどこまでこの装置を利用し続けるのか。それとも利用され続けるのか。
最後に・・・
炎上が快感であることを知りつつも、私たちは本当に「その短期的な報酬」と引き換えに、長期的な信頼を手放し続けるつもりなのだろうか?