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フォロワー数という数字は、現代社会における新しい通貨になってしまった。銀行口座に眠る残高よりも、企業の株価よりも、SNSのフォロワー数のほうが、ある種の人々にとってはよほど重要な意味を持っている。なぜなら、それは「人からどれだけ見られているか」を可視化してくれる唯一の指標だからだ。そして人々はその可視化に酔いしれ、数字の多寡を信用の尺度に変えてしまった。だが、問い直したい。フォロワー数が多いことと、その人が信用できることのあいだに、本当に相関関係はあるのだろうか。まして因果関係があるとでも言えるのだろうか。――なんかそういうデータあるんですか?
信用とは本来、時間をかけて築かれるものだった。約束を守ること、嘘をつかないこと、誠実に行動すること。こうした積み重ねによって「この人なら大丈夫だ」という信頼感が生まれる。だがSNSの世界では、その信頼感のプロセスが吹き飛ばされ、単なる数値が信頼の代わりに置かれてしまう。数万人、数十万人のフォロワーを持つ人間は、それだけで「信用できそう」と錯覚される。まるで「群衆が支持しているのだから間違いない」という民主主義的な誤解が働くのだ。しかし群衆の拍手は、真実を保証しない。かつて群衆が喝采した思想や人物の中に、歴史的に誤りや悲劇をもたらしたものがいくつあったことか。
フォロワー数は人気の指標であって、信頼の指標ではない。それは「たくさんの人に見られている」という事実であって、その発言の内容が正しいことや、その人物が誠実であることを意味しない。むしろ人気と信頼はしばしば反比例する。人々の欲望を巧みに煽る者、スキャンダルを撒き散らす者、あるいは極端な主張を繰り返す者ほど、フォロワーを増やしやすい。だがそうした人物こそ、信用してはいけないタイプであるはずだ。それでも、数の暴力が人々を黙らせる。「こんなにフォロワーがいるんだから正しいに違いない」と思わせてしまう。この思考停止こそが危険なのだ。
文学的に言えば、フォロワー数は「群衆の幻影」である。そこにいるのは生身の人間たちではなく、クリックの残響、スクロールの痕跡、アルゴリズムに従順な影の軍団だ。人々はその幻影を背後に従え、「これが私の力だ」と誇示する。だが、その幻影は気まぐれで、翌日には別の人間を支持する。数十万人のフォロワーがいても、たった一度の失言や炎上で一瞬にして瓦解する。砂上の楼閣のような信用を、なぜ「信用」と呼べるのだろうか。
社会批評的に見れば、フォロワー数信仰は「数字の神格化」という現象の一部にすぎない。アクセス数、再生回数、いいね数、エンゲージメント率――こうした数値が人々の評価基準をすべて奪い尽くしてしまった。もはや「質」より「量」なのだ。だが、信用は量では測れない。むしろ、数の少ない誠実なやり取りにこそ、本当の信用は宿るはずだ。親しい友人との一対一の会話、信頼できる相手との静かな交流。それらは数字として可視化されないが、人生にとってかけがえのない意味を持っている。だが数字化されない信用は「存在しないもの」とみなされてしまう。これが現代の病である。
皮肉なことに、フォロワー数を信用の証明とみなす風潮は、インフルエンサー自身をも縛りつけている。彼らは「信用されるために」ではなく「フォロワーを減らさないために」言葉を選ぶ。炎上しそうな発言を避け、流行に敏感に反応し、無難な言葉を並べる。結果として、その言葉は「信用」ではなく「迎合」になり果てる。だが、迎合は一時の安心を与えても、長期的な信頼にはつながらない。ここに大きな矛盾がある。フォロワー数を守るための言葉は、フォロワーの数が保証しているはずの「信用」を逆に空洞化させてしまうのだ。
問い直そう。信用とは何か。フォロワー数ではない。信用とは、言葉と行動が一致していること、約束が果たされること、嘘が隠されないことである。だが、こうした「地道な信用の積み重ね」は、SNS上では可視化されない。目に見えるのは、ただのフォロワー数だけだ。そして人々は目に見えるものだけを信じ、見えないものを軽視する。愛も友情も、見えないからこそ尊いのに、信用だけをなぜ見える数字に換算しようとするのか。
だから私は改めて言う。フォロワー多い人が信用できるって、なんかそういうデータあるんですか? 人気と信用を取り違えるのは、もうやめてもらっていいですか? 信用は統計値ではなく、たった一つの約束を守ることからしか生まれない。それを忘れて、数字だけを信仰する社会は、どれほどフォロワーが集まろうとも、根底に不信の闇を抱え続けるだろう。
最後に・・・
あなたは「フォロワー数」を信用しているのか、それとも「約束を守る人」を信用しているのか?