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婚活をスペックのマッチングにするのやめてもらっていいですか?

婚活という言葉ほど、現代日本の精神の空虚さを端的に暴露するものはない。いや、恋愛や結婚が社会的装置に絡め取られてきたのは昔からであり、親同士の見合いや家同士の格付けもまた「スペック」だった。しかし、今の婚活に漂う不快な匂いは、それが「市場」の言葉を全面的に引き受け、愛や倫理の残滓すら商品陳列棚のように並べ替えてしまう点にある。人は「年収」「身長」「学歴」「容姿」といったデータに変換され、そのプロフィールはまるで株式銘柄の目論見書のように管理される。そこには笑いがある。いや、笑うしかない惨状がある。「結婚相手を選ぶのに、ここまで数値化が必要だったのか?」という、素朴な問いすら茶番として片付けられるほどに。
婚活市場で繰り返されるのは「条件に合うか否か」という一点だ。相手の目の奥に宿る独特の寂しさや、話の途中で見せる間抜けな癖といった、かつて恋を燃え上がらせた要素は消し飛ぶ。「彼は年収500万、彼女は年齢29歳、東京在住、趣味は旅行」――そこに愛の物語が紛れ込む余地はあるのだろうか。いや、あるいは「趣味:旅行」と入力した瞬間に、それはすでに愛ではなく商品説明文の一部なのかもしれない。ラブストーリーを期待するこちら側の心情など、アルゴリズムの前では無価値である。「条件が揃ったら成立、揃わなければ不成立」――これが婚活アプリの世界の掟であり、そこに残るのは冷たいYes/Noの二分法のみである。
もちろん、こうした仕組みを求めたのは我々自身だ。効率よく、手間をかけず、リスクを回避しながら、なるべく高性能の伴侶を入手したい。消費者としての欲望が、恋愛市場の整備を後押ししてきた。結婚相談所の広告は「スペックで選べる安心感」を売りにし、マッチングアプリアルゴリズムは「条件を絞れば理想の相手に出会える確率が上がります」と囁く。ここで注意すべきは、我々が「恋愛」ではなく「取引」に安心感を抱くようになったという事実だ。相手を愛する以前に、まず「買って損をしない」ことが重要視される。なんという貧しい想像力だろうか。恋人を中古車に見立てるのはさすがに下品だろう。しかし実際の婚活現場は「事故歴なし、走行距離少なめ、燃費良し」といった売り文句に近い尺度で人間を査定している。
さらに滑稽なのは、この「スペック偏重」の裏で誰もが虚偽のプロフィールを作り上げる点だ。年収は盛られ、体型は加工され、趣味はそれっぽく脚色される。誠実さを前提とする市場が、実は不誠実の温床になっている。だが、その矛盾さえ「まあそういうものだから」で済まされる。こうして、愛のための努力や誠意は不要となり、代わりに「いかに検索に引っかかるか」「いかに選ばれるパッケージを作るか」という技巧だけが残る。人間は恋をする生き物ではなく、選ばれるために自らを演出する商品へと変貌する。これはもはや愛ではなく広告である。いや、広告ですらまだ芸術性がある分マシかもしれない。婚活プロフィールは、笑いも涙もなく、ただ平板な事実と願望の羅列にすぎないからだ。
ここまで徹底的に「条件マッチング」に特化した婚活が、果たして何を生み出すのか。おそらくは、条件が一致したはずの二人が、いざ結婚生活に入った瞬間に「え、なんか違う」という衝撃を味わうことだろう。なぜなら、条件は生活を保証しないからだ。身長180センチの夫が、深夜にビールの空き缶を散らかす姿は、条件表には記載されていない。年収600万円の妻が、日曜日のたびに不機嫌になる理由も、検索欄には入力できない。結局、結婚とは「スペック外」の出来事にどう耐えるか、どう笑い飛ばすかの積み重ねでしかない。だが婚活の条件マッチングは、その「スペック外」の部分を最初から切り捨て、無視し、なきものにしてしまう。だからこそ、条件に恵まれたカップルほど、想定外の生活の瑣末に敗北していく。皮肉な話だ。
もっとも、婚活そのものを否定するつもりはない。人は誰かと出会わねばならないし、その場を整える仕組みが必要なのも確かだ。しかし、その仕組みが「愛の否定」として機能するならば、そこに未来はない。恋愛や結婚に必要なのは「偶然」「無駄」「誤解」「不一致」といった要素であって、完璧に整列したスペック表ではない。むしろ「ズレ」を受け入れることこそが愛である。相手の条件を愛するのではなく、条件を超えた不完全さを抱きしめること。それを忘れたとき、婚活はただの就職活動に堕落する。いや、就職活動ですら「面接での人柄」を見る分、まだ人間的である。婚活は人柄すらアルゴリズムのノイズとして切り捨てるのだから。
だから私は叫びたい。婚活をスペックのマッチングにするのやめてもらっていいですか? 愛を数値化しないでほしい。人間を条件検索のフィルターに押し込めないでほしい。条件を満たさない誰かに惹かれる瞬間こそが、人生を面白くし、苦しくし、豊かにする。スペックは便利だ。しかし便利さが人間の心を代替する瞬間、そこに待っているのは、空虚な合理性だけだ。合理性の果てで、孤独がより深まるのなら、その効率化は何の意味を持つのか。
愛はスペックではない。条件の一致は、愛の始まりではなく、せいぜい笑い話のネタにすぎない。もし婚活市場の誰もが、そのシンプルな真実を笑い飛ばせなくなったとき、我々は人間であることをやめ、ただの「条件の集合体」と化すのだろう。その滑稽さを笑いながらも、心のどこかで震えている私は、今日も問いを繰り返す。――スペックに還元された愛に、未来はあるのだろうか?