婚活をしているのに、デートの予定が入らない。いや、むしろ婚活を始めてから予定表がますます真っ白になっていく。これは一体どういう逆説なのだろうか。歯医者を予約しようとした瞬間に残業が決まるように、婚活を始めた瞬間にデートが遠ざかる。人類が発明した数ある制度の中でも、このねじれはとりわけブラックユーモアに満ちている。
婚活はデートを効率化するためにあると誰もが信じている。アプリを入れて、プロフィールを書き、年収や趣味を整え、条件を調整する。そうすれば、効率的に異性と出会えるはずだと。だが実際に起きるのは、プロフィール更新の繰り返しと、通知を待ち続ける空白の時間だ。カレンダーに追加されるのは「アプリのメッセージを返す」「自己PRを直す」といったタスクばかりで、肝心のデートの予定は一つも増えない。日曜の夜に手帳を開くと、空欄のマス目がまぶしく光っていて、自分の労力が虚空に消えていったことを突きつけてくる。
婚活をすることで、出会いは合理化されるどころか窒息する。そもそも恋愛は誤配から始まるものだった。たまたま隣に座った人に惹かれる。偶然目が合った人に声をかける。期待していなかった相手と妙に話が合う。そうした偶然のノイズが恋愛の火花を散らしてきた。しかし婚活はそれらを「非効率」として削ぎ落とす。条件を入力し、年齢で絞り込み、年収で順位をつけ、趣味が一致する人をフィルタに通す。アルゴリズムは誤配を憎む。だが、恋愛は誤配からしか生まれない。
タレブならこう断言するだろう。制度化された出会いは脆い。偶然のノイズこそが人間関係を強くする。金融市場がリスクを小分けにしすぎてブラックスワンに粉砕されるように、婚活市場も「安全に」「効率的に」と条件を最適化した途端に崩壊する。誰にも会えないという、最大の不効率に行き着くのだ。
婚活アプリを開けば、そこは顔写真と条件文の墓場だ。年齢、年収、学歴、休日の過ごし方、好きな食べ物。すべてがスペックのリストに還元され、人間性は条件検索の素材になる。スワイプは「はい」か「いいえ」の二進法。そこには予期せぬ混乱も、不可解な魅力も、誤配もない。「なんとなく惹かれる」「好みではないが話が合う」そうしたズレはアルゴリズムにとってバグでしかない。結果として、アプリを触れば触るほど「出会えない」という矛盾が強化されていく。これこそが反脆弱性の逆、つまり「脆弱性の増幅装置」としての婚活である。
婚活疲れ、という言葉が定着している。普通に考えればおかしい話だ。結婚や恋愛は本来、生活を豊かにするためにある。それなのに、結婚する前に生活を削って疲弊してしまう。ブラックジョークにも程がある。恋人を探すことが修行になり、幸福を求めることが不幸を招く。これは「休暇で疲れる」や「ダイエットで不健康になる」と同じ逆説であり、人間が制度を信じすぎた末の笑劇である。
デートできない婚活は、制度が誤配を排除した結果だ。しかし、そこで見えてくるのは逆説的な真理でもある。人は失敗することで、制度の虚構に気づく。婚活で空振りを重ねるほど、「条件」ではなく「偶然」が重要だと理解していく。つまり、デートできない婚活そのものが、誤配の必要性を教える反脆弱な教師になっている。制度が失敗を生むたびに、失敗は人を強くする。
この意味で、婚活の空白のカレンダーは単なる敗北ではない。予定が埋まらないことが、むしろ誤配を待つ余白になる。空白は偶然を呼び込む。空白を恥じるのではなく、茶化して讃えることができるなら、その人は制度の外で生きる力を持ち始める。タレブが言うように、失敗を重ねて強くなる者だけが反脆弱になる。デートできない婚活に苦しんでいるあなたは、すでに反脆弱の訓練を受けているのだ。
笑うべきだ。デートが入らないカレンダーを見て絶望する代わりに、そこに書き込まれるはずだった予定の亡霊を想像してみよう。「18時に新宿のカフェで初対面」「21時に解散」──その予定は実現せず、カレンダーは空欄のまま残った。だが、空欄であったがゆえにあなたは疲弊せず、次の日も普通に生き延びた。誤配はまだ訪れていない。それだけの話だ。
婚活の本当の罠は、「空白=失敗」と信じてしまうことにある。だが実際は逆だ。空白を抱えても生き延びることこそが、恋愛に耐える体力を育てている。婚活が効率化の名のもとに偶然を潰すなら、私たちは茶化しとズレで偶然を呼び戻すしかない。プロフィール欄に無意味な一文を書く、条件に合わない人と会ってみる、アプリを閉じて本を読みながら散歩に出る。そうした誤配を導入することでしか、制度の呪縛は壊せない。
婚活をしているのにデートができない。これは敗北ではない。むしろ敗北を受け入れることで、人は制度から解放され、誤配に強くなる。予定が埋まらない婚活は、偶然とズレを取り戻すリハビリであり、制度の外で強くなるための稽古である。だから私は言いたい。婚活でデートできないのは不幸ではない。むしろ、それこそが反脆弱な幸福の入口なのだ。