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炎上を観光する人々

炎上が起きると、そこには必ず「観光客」が集まってくる。彼らは決して火を消そうとはしないし、火を点けた張本人でもない。ただ、遠巻きに眺め、スマートフォンを構え、時に茶化し、時に過剰に「心配」を口にし、けれどそのどれもが火勢に寄与してしまう。炎上を観光する人々――その存在は、現代の公共圏を語る上で避けて通れないだろう。

彼らが「観光客」と呼ばれるのは、まずその行動様式が観光的だからである。火事を見に行くのは古来から人間の習性だった。江戸時代の火事見物などはよく知られている。実害を受けるわけでもなく、ましてや消火に参加するわけでもない。それでも群衆はぞろぞろと集まり、「どこまで燃えるか」を興味津々で見届けた。SNSにおける炎上もまた同じである。燃えている場面に「見物客」として集まる。そこで発せられる言葉は批判のように見えて、実際には「観ている」ことを示すための合図に過ぎない。つまり「私はここにいます」という立ち会い証明の一種である。

観光客たちは、自分の立ち位置をきちんとわきまえているように見える。彼らは「当事者ではない」と思っている。そのため無責任な冗談が飛び出し、火を茶化す発言が横行する。「もう鎮火してたよ」「燃えてるゴミがあるらしい」――こうしたコメントは一見すると軽口だが、その軽さこそが火を維持する酸素となる。なぜなら、炎上において最も恐ろしいのは「無視」だからだ。観光客は決して無視しない。むしろ存在を確認し続け、スクリーンショットを共有し、「まだ燃えてる」と伝える。その繰り返しが炎を延命させる。

観光客の心理は複雑だ。彼らは炎上を「危険」と思いながら、同時に「娯楽」と感じている。危険が自分に及ばない距離であればあるほど、娯楽性は増す。動物園で檻の中の猛獣を眺めるような感覚に近い。実際、炎上の渦中にいる人間は必死に生き延びようとしているのに、観光客は「見ているだけ」で愉快さを得る。それは傍観者の特権である。だがその特権があるからこそ、炎上はいつまでも「見世物」として成立し続ける。

興味深いのは、観光客の多くが「批評家」を自認することだ。彼らは「ただ茶化しているだけ」ではなく、「これが問題だ」と指摘する言葉を装う。だがその指摘は往々にして浅い。「態度が悪い」「礼儀がない」「謝罪が足りない」といった形式的なラベルに終始する。つまり内容ではなくマナーの裁定者として振る舞うのだ。これは観光客にとって安全な位置取りである。マナーの欠如は誰にでも見えるから、深い知識も論理も要らない。その一言で「自分は正しい側に立っている」と確認できる。それは批判ではなく、参加証明のスタンプのようなものだ。

こうして炎上は「公共圏の縮図」として現れる。そこでは異論や風刺よりも、「誰がどの態度で発言したか」が中心になる。内容よりも印象、論点よりも礼儀。観光客の群れが拍手するのは、正しい反論よりも「分かりやすい断罪」や「笑える茶化し」だ。だからこそ「終わっている」という断定は喝采され、「注目されたいんですか?」という問いは叩かれる。強い断言は見世物として映えるが、問いは受け手に考える労を強いる。観光客にとって考えることは観光の目的ではない。ただ眺めて笑い、帰り道で「面白かった」と言えれば十分なのだ。

ここに公共性の大きな問題がある。炎上を観光する人々が多数派になると、公共圏は熟議の場ではなく見世物小屋に変わる。真面目な議論は嘲笑にかき消され、不快でも必要な批判は「不謹慎」と処刑される。公共圏の表面は賑わっているように見えて、その実、思考は縮小している。つまり「公共圏の熱狂」が「思考の空洞化」と直結するのである。

ではどうすればよいのか。観光客を完全に排除することはできない。むしろ炎上が観光の対象となるのは、プラットフォームの構造がそう設計されているからだ。アルゴリズムは「注目」を報酬として与え、拡散を促す。観光客はそれに呼応するだけである。だから「観光客が悪い」と糾弾しても意味はない。むしろ我々にできるのは、「観光客に消費されること」を前提に、なお言葉を投げる覚悟を持つことだろう。観光客の拍手喝采や嘲笑を避けることはできない。しかし、それがどれほど空虚でも、公共圏に投げ込まれた言葉は何らかの痕跡を残す。その痕跡の中から、時に誰かが真剣な議論を拾い上げる。炎上の灰の中からも、まだ新しい芽は出るのだ。

炎上を観光する人々は、批判の担い手ではない。彼らはむしろ公共圏の「観客」である。観客が多すぎると舞台は歪む。しかし観客がいなければ舞台は成立しない。この逆説を抱えたまま、私たちは今日も言葉を投げる。批判され、嘲笑され、時に誤解されながらも、それでも言葉を使う。なぜなら、観光客の笑い声の奥に、ほんの少数だとしても「観光ではなく議論」を望む人が潜んでいるからだ。

炎上は消費される。しかし観光され尽くした後に残る灰が、次の議論の土壌になるのかもしれない。観光客が意図せず撒いた注目の種が、思いがけず芽吹くこともある。そう考えるなら、炎上の観光客もまた、公共圏の皮肉な共犯者である。