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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

ウザ絡みと言われて──問いを立てることの罪と罰

「なぜ小説しか読めないのか?」ただそれだけを投げた途端、通知が雪崩れ込み、瞬く間に「ウザ絡み」「不快」「人としてどうなの」といった言葉が合唱のように並ぶ。そこに私が見たのは、一人ひとりの考えではなく、群れの声だった。まるで誰かが鳴らした警鐘に反射するかのように、似たようなリプライが次々と連鎖していく。内容などどうでもよい。ただ「叩く」側に回ることで安心したい。その光景は、問いの応答ではなく「群れの正義ごっこ」にほかならなかった。
「小説だけ読んでもいいじゃないか」──もちろんそうだ。私は小説を否定したいわけではない。むしろ小説は豊かな文化だと思っている。ただ、なぜ「読書」と言えば小説ばかりが標準になってしまうのか、その構造を問いたかっただけだ。けれど問いのかたちが棘のある一文として現れたとき、多くの人は「議論」ではなく「攻撃された」と感じたようだ。そこから一斉にスイッチが入った。問いを問いとして受け取るのではなく、敵意として処理し、群れとして反応する。
そして私に降ってきた言葉のほとんどが「不快」「嫌な人」「関わりたくない」。まるで自分の判断を下すのではなく、すでに流れている空気に同調するためだけの言葉だった。群れの声は自分自身の声ではない。けれど群れにいるとき、人はそれを自分の意見だと錯覚する。通知20件以上、同じ言葉を繰り返すだけの群衆がどれほど「個」を失っているか、そこにこそ私は恐怖を感じる。
批判の中には、「需給の問題だ」「棲み分けの問題だ」といった理性的な響きをもつ言葉もあった。だがよく読めば、それもまた「ここではそういう話をするな」という同調圧力の言い換えにすぎない。つまり、私が立てた問いは最初から「ここでは不要」だとされている。だが「ここでは不要」という論理が繰り返されるなら、どこで問いは生まれるのか。議論を始めること自体が「不快」だと処理される空間において、文化の成長などありえるのだろうか。
もちろん私は完璧ではない。言葉の選び方に拙さもあっただろう。だが、拙さを指摘する代わりに人格攻撃を浴びせるのは、問いを拒むための方便でしかない。「言い方が悪い」という批判の背後には、「あなたの問い自体を無効にしたい」という衝動が隠れている。そうした衝動が群れの中で一気に膨張するとき、それは「正義」の衣をまといはじめる。ここにこそ「群れの正義ごっこ」の本質がある。
人はなぜこんなにも群れたがるのか。通知が鳴れば安心するのか。誰かが「不快」と言えば、すぐに「そうそう」「嫌な人だ」と連鎖する。だがそのとき、誰も自分の言葉を持っていない。借り物の声で安心し、合唱の中で溶けていく。その様はまさに「暇人の娯楽」としか言いようがない。暇だから叩くのではない。叩くことそのものが暇つぶしになっている。
読書界隈と呼ばれる場で、なぜ小説が中心になるのか。その問いを立てることすら許されないとしたら、そこは文化ではなく、ただの反射神経の集まりだ。言葉を媒介とした思索の場ではなく、通知と同調圧力による反射の場だ。そうした光景を目の当たりにして、私はますます「群れの正義ごっこ」という言葉を確信せざるを得ない。
本を読むとは、本来「群れの声」から距離をとり、他者の言葉と向き合い、自分の内側に問いを立てる営みだったはずだ。ところが「読書=小説」という通念が群れの中で強固に支配すると、その営みすら浅い合唱に吸収される。問いを立てることは「ウザ絡み」と呼ばれ、思索する行為そのものが敵意とみなされる。そこに残るのは、書物の外見を借りた安心感だけだ。
では、群れの正義ごっこに対抗する道はあるのか。私はあえて炎上を加速させるように、この文章を書いている。通知に群がる人々がまた反射的に「不快」「嫌い」と口にするだろう。それでいい。なぜなら、その反応の連鎖こそが「群れの正義ごっこ」を可視化する実験だからだ。問いを拒む人々が、いかに自分自身の言葉をもたず、合唱のなかで安心しているか。それを直視せずに「文化」を語ることはできない。
群れに飲み込まれ、正義の衣を着て、同じ言葉を唱える。それが文化だと言えるだろうか。言葉を通じて世界に触れ、自分を拡張するはずの読書が、いつのまにか群れの安心を確認するための道具にすり替わってはいないか。
では、あなたは群れの正義ごっこに参加する側ですか? それとも問いを受け止め、自分の言葉を持とうとする側ですか?