つづきを展開
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インターネット上の議論において、もっとも頻繁に、そしてもっとも厄介な摩擦点となるものの一つが、「傷ついた」と「危害を加えられた」の混同である。私はここしばらく、読書文化にまつわるやり取りのなかで、この混同が連続的に噴出する場面に直面してきた。発端は単純な問いかけである。「なぜ小説しか読めないのか?」というシンプルな疑問を投げかけただけで、相手からの反応は瞬時に「小説を馬鹿にしている」「人格攻撃だ」という批判へと雪崩を打った。もちろん、私の表現が拙かった部分はあったかもしれない。だが、そこで生まれた感情的な反発が、即座に「危害」という言葉に変換される現象に、私は大きな違和感を覚えざるを得ない。
まず確認しておきたいのは、誰かが「傷ついた」と感じることそのものは尊重されるべき事実だという点だ。それは主観的な体験であり、本人が不快だ、侮辱された、と感じるならば、それは消し去ることができない感情である。しかし一方で、そこから直ちに「危害を加えられた」という判断が導かれるならば、議論の条件は一気に崩壊する。なぜなら「傷つき」と「危害」は性質が異なるからである。「傷つき」は主観的経験であり、その多くは一時的で可変的である。対して「危害」は、ミルが定義するように、他者の自由や権利を実質的に侵害し、生活に持続的な不利益をもたらす行為である。両者を区別せずに混同すれば、あらゆる不快感がそのまま「加害」として告発されることになり、公共的な議論の空間は萎縮し、崩れ去ってしまう。
実際、私に対して繰り返された言葉の多くは、ほとんど捨て台詞のようなものであった。「あなたは危害の原則を守っていない」「論理以前に破綻している」「もう交流の必要はない」。その背後には、「自分や周囲が傷ついたのだから、あなたは危害を加えた」という暗黙の前提が敷かれている。ここには二重の問題がある。一つは、被害とされるものが検証可能なかたちで提示されないこと。どの表現のどの箇所が、どういうメカニズムで「危害」となったのかが明示されないまま、「傷ついた」が「危害」に転化している。もう一つは、この転化のプロセスが感情的な即時反応に依拠しているため、論理的な対話が成立しないことである。
もちろん、私は相手の「不快」を否定するつもりはない。むしろ「不快だった」と伝えること自体は健全であり、それを無視するのは無責任だろう。しかし、不快感をそのまま「危害」と同一視することは、やはり飛躍である。社会的に共有できる議論の基盤をつくるためには、「不快感をもった」ことと「他者の権利を侵害した」ことを切り分けねばならない。もしこれらを同一視するならば、議論を行うたびに「誰かが不快だと言った」ことを理由に、発言が封じられることになる。結果として、議論は成立しないか、最初から回避されるかのいずれかになる。
ここで思い出すのは、ハンナ・アーレントが言う「公共性」の概念である。公共的な空間とは、多様な意見がぶつかり合い、その摩擦を通じて新しい理解が生まれる場である。そのときに必要なのは「互いに異なる見解を持ち込む勇気」と「それを批判的に受け止める冷静さ」である。しかし実際のSNS空間では、「異なる見解を持ち込むこと」自体が「加害」とされやすい。これは公共空間の前提を掘り崩す危険な傾向だ。もちろん、差別発言や侮辱的罵倒は明確な危害となりうる。だが、「問いを立てる」ことや「異なる角度の批評」を即座に危害扱いすることは、むしろ自由で開かれた言論空間を窒息させる。
ではどうすればよいのか。一つの提案は、「傷つきの表明」と「危害の告発」を段階的に区別することである。まず「私は不快だった」と主観的に表明する。次に「どの表現のどの部分が、どのような理由で不快だったのか」を具体的に示す。そのうえで「この不快は一時的なものか、それとも社会的な偏見を再生産する構造的な危害につながるのか」を検討する。こうした手続きを経ることで、初めて「不快」が「危害」へと変換されるかどうかを判断できる。このプロセスを省略して「不快=危害」と短絡するならば、議論は感情的な応酬に堕し、互いに「捨て台詞を残してブロックする」ような不毛さだけが残る。
私自身、この数日のやり取りのなかで痛感したのは、まさにこの不毛さであった。相手は「あなたは人を傷つけた」「危害を与えた」と断言する。しかし、その証拠や説明はなく、「自分や他者がそう感じたのだから、それが事実だ」という循環的論理に陥っている。そして最終的には「論理などどうでもいい、あなたのやり方は破綻している」と言い捨てて去っていく。これでは議論は成立しないし、互いに学び合う契機も閉ざされてしまう。むしろ、この一連のやり取り自体が、「不快」と「危害」を区別しないことの危険性を示す生きた実例になってしまっているのだ。
ここで誤解してほしくないのは、私は「不快にさせてよい」と言いたいわけではないということだ。むしろ、可能なかぎり不快を与えない表現を模索すべきだと思う。だが、不快をゼロにすることは不可能である。議論の本質は、異なる前提や価値観が衝突するところにある。その衝突が常に誰かを不快にさせることは避けられない。したがって重要なのは、「不快をどう扱うか」である。不快の表明は尊重されるが、それが直ちに「危害」と見なされて発言を封じる根拠にはならない。この区別を守ることが、公共的な討議を存続させる最低条件である。
結局、今回私が経験した数々の捨て台詞──「論理は破綻している」「危害を加えた」「交流の必要はない」──は、論理的な反駁ではなく、感情的な拒絶の表明であった。それは一個人の権利として尊重すべきだろう。だが、それが「危害」という名で正当化されるならば、議論そのものは成立しない。私は、感情を尊重しつつも、論理の基盤を捨てないことを選ぶ。なぜなら、論理を捨てれば残るのは「不快か不快でないか」という二分法だけであり、それは討議ではなく沈黙と断絶を生むだけだからだ。
「傷ついた」と「危害を加えられた」。この二つを区別できるか否かが、言論空間を守る鍵になる。私はそう確信している。そしてこの確信をもって、今日もまた、問いを立て続けるしかないのだ。
最後に・・・
私たちはこれからの言論空間において、どこまでを「不快」として個人の内面に留め、どこからを「危害」として公共的に制約すべきだと考えるのだろうか?