炎上に巻き込まれると、批判の矢が飛び交い、言葉が錯乱する。だが冷静に見つめ直せば、その矢の多くは論理的な鋭さを欠き、むしろ「誤謬」と「バイアス」の組み合わせによって成立している。第2回では、定点観測した一連のやり取りから、典型的な誤謬や心理的バイアスを洗い出し、公共圏を蝕むメカニズムを解剖してみたい。
1. 人格攻撃(ad hominem)の氾濫
「人間的に終わっている」「ゴミ」「おもちゃ」。これらは論点に触れず、発言者そのものを貶めるためのレッテルだ。人格攻撃は一瞬で議論を打ち切る力を持つが、同時に対話の可能性を破壊する。論理的に誤っていると指摘するよりも、発言者を「無価値」と決めつける方が手っ取り早い。しかし公共圏における対話は、手っ取り早さを重視した瞬間に崩壊する。人格攻撃の氾濫は、まさに公共性の脆弱さを示す徴候である。
2. ラベル化による議論の停止
「終わっている」というラベルは、対話の終端記号として機能する。これは論点を明示せず、「これ以上話す価値がない」という印象だけを植え付ける。ラベル化の恐ろしさは、内容の妥当性に関係なく、社会的評価を瞬時に転覆させる点にある。ここでは「根拠のない断定」が「社会的事実」として流通してしまう。公共圏が「終わり」という言葉で支配されるとき、議論は開始される前に終了してしまう。
3. 誤った責任転嫁
「説明責任を負うのは断定した側ではなく、疑問を持った側」。この逆転した主張は、公共圏の基盤を崩す危険な論理だ。本来、断定をした側が根拠を示す責任を負う。疑問を呈した者が説明を求められるなら、誰も安心して問いを立てられなくなる。質問者の沈黙を強要するこのロジックは、討議の自由そのものを侵害している。
4. 二重基準と自己矛盾
謝罪をめぐる応酬も特徴的だった。「謝罪が空洞化する」と指摘すると、「あなたの反省も空洞化だ」と跳ね返される。このやりとりは、批判者が自らの論理を点検せず、ただ相手の言葉を反転させることで成り立っている。さらに「謝罪は必要」と言いつつ、「謝罪は意味を持たない」とも語られる。ここでは二重基準と自己矛盾が温存され、ただ「謝罪せよ」という要求の一点に集約される。
5. 嘲笑の制度化
「このおもちゃもうダメです」という発言は、論理ではなく嘲笑によって相手を処理する典型だ。嘲笑は笑いを共有することで観客を味方につけ、批判の正当性を演出する。だがこれは「対話」ではなく「観光」に近い。炎上を観光する人々は、相手を矯正する意図を持たず、ただ笑いの対象として消費する。嘲笑の制度化は、公共圏を「討議の場」から「娯楽の場」へと変質させる。
6. 心理的バイアスの重層
ここまでの誤謬を支えるのは、心理的バイアスである。
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投影(projection):相手を「感情的」と非難しつつ、自らが感情的になっている。
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内集団バイアス:観客的な仲間内での嘲笑は心地よく、排除対象を強化する。
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感情ヒューリスティック:怒りや嫌悪が即座に判断基準を支配し、論理的吟味を不要にする。
炎上の場は、こうしたバイアスが連鎖し、誤謬を強化する装置として機能する。
7. 公共圏への影響
誤謬とバイアスの連鎖は、個人同士の小さな争いを超えて、公共圏そのものに深刻な影響を与える。公共圏の本質は「討議可能性」にある。だが人格攻撃とラベル化が支配すると、討議は開始される前に終わる。誤った責任転嫁は、問いの自由を奪う。嘲笑の制度化は、対話を娯楽に変質させる。こうして公共圏は、機能不全に陥る。
8. 誤謬を矯正する方法はあるか
ここで浮かび上がる問いは一つだ。誤謬とバイアスを矯正し、公共圏を再生することは可能か。形式論理に基づく指摘は一時的に効果を持つが、感情の奔流に押し流されやすい。必要なのは、誤謬をただ批判するのでなく、誤謬が生まれる文脈を理解し、その文脈を再設計することだ。例えば、質問者が安心して問いを投げられるルールの明確化、嘲笑を娯楽ではなく批判のリソースとして再利用する工夫など。誤謬を無効化するのではなく、誤謬を討議の燃料に変える試みが必要だろう。
総じて、炎上は「悪意の集積」ではなく「誤謬とバイアスの集積」として理解できる。だからこそ、それは再設計可能な構造物でもある。次回は、この誤謬学的な観察を踏まえて、「炎上をどう乗り越え、新たな問いかけへと変えることができるか」を探ってみたい。