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倫理学、選ばれず

いま、大学で最も選ばれない学問のひとつが「倫理学」である。哲学科の中でもさらに地味で、実用性がなく、就職にもつながらないとされる。だが、それは単に学生の関心の問題ではない。社会そのものが倫理学を“排除する構造”を内面化しているのだ。私たちはいま、倫理を必要としながら、倫理を学ぶことをやめた社会に生きている。
倫理学は、もともと「どう生きるか」という人間の根本的問いを扱う学問だった。だが、現代社会ではこの問いが制度的に無効化されている。教育は「どう働くか」を教え、経済は「どう稼ぐか」を評価し、政治は「どう管理するか」を競う。つまり、「どう生きるか」はもはや誰の仕事でもなくなった。倫理学は、社会的分業の外に追いやられた最後の問いの領域である。だからこそ、人々はそれを“役に立たない”と呼ぶ。倫理学は選ばれないのではない。選ばれないように設計されているのだ。
大学のカリキュラムを見れば、この構造は明らかである。倫理学の講義はどんどん減り、代わりに「応用倫理」「ビジネス倫理」「AI倫理」など、すぐに社会に翻訳できる分野が増えている。つまり、倫理はもはや“生き方の探究”ではなく、“社会的リスクを回避するための管理技術”になった。企業研修でも「倫理」とは「炎上しない振る舞い」や「コンプライアンス遵守」を意味する。そこにはすでに思索の余地はない。倫理が「選ばれない」のではなく、倫理を考える権利そのものが奪われているのである。
倫理学は、利益にも効率にも結びつかない。だから資本主義の世界では、常に周縁化される。だがそれこそが、倫理学の倫理なのだ。倫理とは、効率に抗う知である。社会が最適化されるほど、倫理は邪魔になる。倫理は問いを増やすが、社会は答えを求める。倫理は迷わせるが、制度は指示したがる。倫理は不確実だが、政治は確実性を演出する。つまり、倫理学とは「社会を円滑に回さないための学問」なのだ。倫理学が嫌われるのは当然である。彼らは摩擦を起こすからだ。
近代以降の哲学は、道徳を規範化することで“倫理の管理”を始めた。カントの義務論、功利主義アリストテレス的徳倫理──それぞれの体系は「正しさの条件」を整備することに熱中した。だが、二十一世紀のわれわれに必要なのは、正しさの定義ではなく、「正しさを定義することの暴力」を見抜く目ではないか。倫理が制度に吸収された瞬間、それは倫理であることをやめる。倫理とは、常に制度の外で、他者の声を聴こうとする態度のことだ。倫理学が不人気なのは、われわれがその「外」を恐れている証でもある。
一方、社会の中心では“道徳の代用品”が次々と生まれている。SDGsダイバーシティエシカル消費──どれも善意の仮面をかぶりながら、消費の文法で語られる。「良いことをしている自分」を演出することが目的化し、そこにはもう“倫理的な思索”はない。倫理学がこの社会で居場所を失うのは当然だ。なぜなら、倫理学は「善」を疑う学問だからである。倫理学者は、誰かが「正しい」と言った瞬間に、その根拠を掘り崩そうとする。だが、現代社会は“正しさを疑う者”を最も危険視する。倫理学は社会にとって、良心であると同時にウイルスでもある。
倫理学が選ばれない理由のひとつは、成果が見えないことにある。実験データも、経済指標もない。ただ「思考」が残るだけだ。だが、その思考こそが社会を支えてきたのではなかったか。倫理学は“成果を出さない学問”であることを誇りにしていい。成果主義の時代において、成果を拒否すること自体が倫理的行為なのだから。倫理学とは、「何もしないことの価値」を守る最後の砦である。
それでも私は信じたい。倫理学は死なない。
なぜなら、社会がどれほど技術的・効率的になろうと、人間は必ず「なぜ生きるのか」に戻ってくるからだ。AIが人間の意思決定を肩代わりする時代になればなるほど、倫理学の問いは深まる。AIに倫理を与えることはできても、AIに“葛藤”を与えることはできない。倫理とは、答えを出せないことを引き受ける勇気である。その勇気を語る言葉が消えるとき、人間は人間であることをやめるだろう。
倫理学は“選ばれない”ことで存在を保っている。もし人気が出てしまえば、それはもはや倫理ではなくなる。倫理は常に孤独であり、少数派であり、制度の端に追いやられていなければならない。倫理学は社会の中心に立たない。だが、その影の部分で、社会の良心を支え続けている。倫理学が「役に立たない」と言われるとき、私はむしろ安心する。それはまだ、倫理が生きている証だからだ。