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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

選ばれず、倫理学

人は口を揃えて言う。「結婚は中身が大事」「内面を見てくれる人と出会いたい」と。だが、婚活サイトを開けば、パンフレットを見れば、街コンのポスターを覗けば、そこに並ぶのは選ばれた美男美女ばかりである。誰もが笑顔で、光を反射するような歯並びと肌を持ち、「誠実」「爽やか」「優しそう」といった、誰にとっても無害なテンプレートを体現している。これを人は「清潔感」と呼ぶ。だが、この言葉こそが、現代の恋愛市場における最も残酷なラベリング装置である。
清潔感は衛生の問題ではない。それは、視覚的な「快さ」の総合得点だ。髪の艶、肌の滑らかさ、服のブランド、歯の白さ、声のトーン、姿勢、匂い。あらゆる要素が絡み合い、結果的に「社会的に安心できる外見」を作り上げる。言い換えれば、清潔感とは“他者に不快感を与えないようにデザインされた自己像”である。そこに個性はない。だが、この匿名的均質性こそが、婚活という制度の基礎構造を支えている。
「内面が大事」という言葉は、実際には「外見で足切りした後にようやく審査される中身」を意味する。人は本心では「中身を見てほしい」と願いながら、同時に「中身を見てもらうために通過すべき外見の審査」に従っている。つまり、“内面を評価される権利”が、外見と収入によって前提づけられているのだ。恋愛は自由なはずなのに、誰もが審査を受け入れている。ここにすでに倫理の倒錯がある。
婚活産業は、この倒錯を巧妙に制度化した。「理想の相手に出会う」というポジティブなスローガンの裏で、実際に動いているのは「リスクのない他者を選ぶ」ためのアルゴリズムである。収入は安定性の記号であり、清潔感は社会的安全の記号である。つまり、婚活とは「リスク回避としての愛の市場化」だ。愛の本質であるはずの不確実性、偶然性、脆弱性は徹底的に排除される。清潔で、安定していて、誰にとっても無難な他者。それを愛と呼ぶなら、人間的な欲望はどこへ行ったのか。
恋愛はもはや「選ばれること」が目的化されている。選ぶのではない。選ばれるために外見を整え、プロフィールを作り、収入を上げ、趣味を“清潔化”する。読書が好きでも、難解な哲学書を読むと言えば引かれるから、「ミステリーや人間ドラマが好きです」と曖昧に言い換える。音楽の趣味も極端だと警戒されるから、「幅広く聴きます」と中庸に寄せる。自己の表現はどんどん平均化され、最終的に“選ばれるための自己”が完成する。ここにはもう人間の濃度がない。ただ、統計的に最適化された人格の残骸が並んでいる。
「清潔感のある人がいい」というフレーズの暴力性は、そこに潜む倫理的前提にある。それは“清潔でない人間は、愛されるに値しない”という宣告である。恋愛市場における「清潔」と「不潔」は、道徳的な線引きに転化する。清潔とは正義であり、不潔とは怠惰であり、敗北である。この構図は、戦後日本が「努力すれば報われる」という幻想で社会を維持してきた名残でもある。清潔感とは、「努力で取り戻せる外見」という希望の形をした支配だ。だが実際には、それを維持できるのは、時間と金銭と身体的健康を持つ者だけだ。努力という言葉は、ここでもまた特権の仮面を被っている。
清潔感とは、現代における「中流幻想」の象徴でもある。少し背伸びした服、無印良品のインテリア、年収500万程度の安定。すべてが「無難で安心できる人生」のシミュレーションだ。それを維持するために、人は自分を消費する。恋愛はもはや感情ではなく、イメージの管理になってしまった。
「不快感を与えないこと」だけが愛の条件になる社会──これを愛と呼べるだろうか。
私は思う。愛とは本来、他者の“ノイズ”を引き受ける行為ではないか。相手の欠点や醜さや矛盾を、ただの条件ではなく、存在として受け入れること。それこそが関係のリアリティだ。だが婚活産業は、ノイズを排除し、均質性を「相性の良さ」として売る。清潔感は、愛の不純物を取り除いた結果の無菌的な理想像にすぎない。そんなものは、長期的には必ず腐る。なぜなら、愛は本来、摩擦のなかでしか生きられないからだ。
清潔感とは、愛の死を覆い隠すデオドラントである。
収入とは、感情の保証書である。
プロフィールとは、孤独の言い訳である。
それでも、人はそこに希望を見出そうとする。誰かに見つけてもらいたい。誰かに“選ばれる”ことで存在を確認したい。そういう弱さが、人を婚活市場に向かわせる。それは責められることではない。だが、その構造の中で「清潔感がない」「年収が低い」「条件に合わない」と言われた人々は、まるで存在の資格を剥奪されたような沈黙に追いやられる。彼らの沈黙は、社会の沈黙だ。
そして私は問いたい。
「清潔感のある人がいい」という言葉を口にするとき、あなたは誰の倫理を代弁しているのか?
それは本当にあなた自身の欲望なのか、それとも市場に最適化された幻想なのか?
人は、他人の快適さの中で自分を測るようになったとき、自由を失う。
だから私は、「清潔感がない」と言われる側にこそ、まだ人間のリアルが残っていると思う。
そのリアルを笑い飛ばしながら、制度の外側で生きる人間を、私は信じたい。
(約4000字・章立てなし・社会批評文体)
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