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読書日記と哲学がメインです (不定期更新)

読書日記2170

 

つづきを展開

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

 

久々に読書日記を書く。

久々、という言葉を使うことに、少しだけ違和感がある。私は読書から完全に離れていたわけではない。むしろ、別の仕方でずっと読んでいた。条文を読み、過去問を読み、制度を読み、解説を読み、間違えた選択肢の構造を読み、疲労した自分の身体の反応を読んでいた。読書日記を書いていない時間も、私は何かを読み続けていたのである。ただ、それはいつものように本を媒介にして言葉をほどく読書ではなく、試験と仕事と生活の圧力のなかで、世界のほうから押しつけられる記号を読み続けるような日々であった。

5月は、いろいろなものを背負いすぎた。

何を背負っていたのかと問われれば、すぐには言葉にできない。仕事、試験勉強、将来、生活、責任、継続、焦り、体調、読書日記を書けていないことへの薄い後ろめたさ。それらが一つずつ肩に載っていたというより、気づけば背中全体に重い布のように覆いかぶさっていた。背負っている最中の人間は、自分がどれほど背負っているのか、案外よく分からない。ただ、世界の輪郭が少しずつ硬くなる。物音が刺さる。未来が狭くなる。自分の内側から出てくる言葉が、どこか信用できなくなる。

私はこの時期、自分の意志でどうにかしようとしていたのだと思う。もっと頑張ればいい。もっと整理すればいい。もっと効率化すればいい。もっと踏ん張ればいい。社労士試験の学習も、仕事も、生活も、読書日記も、すべてを「自分の主体性」で支えようとしていた。だが、主体性という言葉は、便利であると同時に危険でもある。主体性と言った瞬間、そこにはどこかで「自分で何とかしなければならない」という残酷さが入り込む。自分が乱れているなら、自分の心が弱いのだ。自分が不安定なら、自分の考え方が悪いのだ。自分が苦しいなら、自分の受け取り方に問題があるのだ。そういう方向へ、いつの間にか引きずられてしまう。

そのあと、いつもの通院先で、いったん減らしていた精神安定剤を少し増やした。

それだけで、世界が変わった。

この「それだけで」という感覚が、私にはかなり大きかった。もちろん、薬を増やしたからすべてが解決したという単純な話ではない。現実の問題が消えたわけでも、試験勉強の負荷がなくなったわけでも、仕事や生活の責任が軽くなったわけでもない。だが、世界の見え方が変わった。輪郭が少しやわらいだ。過剰に敵意を帯びていたものが、ただの出来事として見える瞬間が戻ってきた。未来が一枚の黒い壁ではなく、まだいくつかの線を引ける場所として見え始めた。

ああ、人間とは、物質でここまで変わるのか。

そう思った。

この感覚は、私にとって単なる体調の変化ではなかった。小さな医学的調整であると同時に、大きな哲学的事件であった。なぜなら、私はそこで、自分が「主体性」と呼んでいたものの脆さを、身体の側から突きつけられたからである。心が世界を見ているのではない。心そのものが、すでに物質の配置によって変わっている。薬の量、神経の状態、睡眠、疲労、血糖、腸、菌、気圧、光、生活環境、他者との関係、制度的な圧力。そうしたものの上に、私が「私の考え」と呼んでいるものが、ようやく一時的に立ち上がっている。

小林秀雄のいう唯心論、つまり心がすべてを規定するという考えを、私はいま、かなり信用できなくなっている。もちろん、私は小林秀雄を十分に読み切ったとは言えないし、彼の思考を粗雑に退けたいわけでもない。精神の構えが世界の見え方を変えることは、たしかにある。文学も批評も、ものの見方を変える営みである。読書によって、同じ現実が別の角度から立ち上がることもある。そこまで否定するつもりはない。

だが、心が世界を規定する、という言い方には、いまの私にはどうしても危うさが見える。

心が世界を規定するのではない。心もまた、世界によって規定されている。もっと正確に言えば、心と呼ばれるものは、すでに身体と物質と環境のなかで発生している。心は王ではない。中心でもない。心は、身体の状態に依存し、物質の配列に揺れ、世界の圧力を受けながら、その都度発生する出来事である。

このことを思うと、「気の持ちよう」という言葉が、どれほど粗い言葉であるかが見えてくる。眠れていない人間に、ものの見方を変えろと言うこと。薬が必要な状態の人間に、心を強く持てと言うこと。疲労と不安と責任で身体がすり減っている人間に、主体的に生きろと言うこと。それらは一見、人間の尊厳を信じているように見える。しかし、実際には、人間の物質性を見ていない。身体を見ていない。神経を見ていない。腸を見ていない。眠りを見ていない。制度の圧力を見ていない。見ていないものを、すべて「心」の責任にしてしまう。

ここに、私は強い不信を持つようになった。

魂の存在までは否定しない。人間には、単なる化学反応や生理現象だけでは言い尽くせない何かがある、という感覚はまだ残っている。魂という言葉を使うかどうかは別として、人間の内側には、物質に還元しきれない震えのようなものがあると思っている。だが、その何かは、物質から自由に浮いているのではない。むしろ、物質に深く埋め込まれている。薬に揺れ、睡眠に左右され、菌に支えられ、疲労に濁り、食べ物に動かされ、環境にひらかれたり閉じられたりしながら、そのうえでかろうじて立ち上がっている。

われわれは、自分の意志で生きていると思っている。しかし実際には、腸内細菌によっても生かされている。腸内細菌が感情や思考や免疫や体調に影響を与えるという話を聞くと、人間中心のものの見方が少しずつ崩れていく。むしろ菌のほうが世界の中心なのではないか、という説にすら、私は妙な説得力を感じる。人間とは、世界の中心に立って意味を与える存在というより、菌や物質や環境の巨大な連鎖の表面に、一時的に発生している現象なのではないか。

そう考えると、「私」というものの輪郭はかなり小さくなる。

私は、世界の中心ではない。私は、点である。

身体の状態、薬の量、神経の動き、腸内細菌、仕事の負荷、試験勉強の進捗、生活のリズム、過去に読んだ本、これから読もうとしている本、他者との関係、社会制度、偶然の出来事。そうした無数の線が交差する場所に、たまたま「私」と呼ばれる点がある。私は私の意志だけで私なのではない。私は、物質の配置であり、疲労の蓄積であり、薬の量であり、制度の圧力であり、菌に生かされる身体であり、それでもなお言葉を書こうとする一点である。

この一点という感覚は、私を卑小にするだけではない。むしろ、少し楽にするところがある。なぜなら、自分が世界の中心ではないと分かることは、自分が世界をすべて背負わなくてよいということでもあるからである。5月の私は、いろいろなものを背負いすぎていた。だが、そもそも人間は、そんなに多くのものを一人で背負えるようにはできていないのではないか。主体性とは、すべてを自分の意志で引き受けることではない。自分を成立させている条件を知り、その条件を少しずつ組み替えることなのではないか。

薬を増やす。眠る。食べる。予定を減らす。人に話す。背負うものを下ろす。過去問を区切る。カードをつくる。通勤時間に復習する。読む本を変える。書く量を変える。これらは主体性の敗北ではない。むしろ、主体性が成立するための条件整備である。自分の心を変えようとする前に、心を成立させている物質の配置を整えること。これは逃げではない。人間が点であることを認めたうえで、その点を壊さないようにする実践である。

こうした感覚を持つようになると、ヘーゲルの絶対精神という考えにも、いまの私はどうしても胡散臭さを感じてしまう。もちろん、私はヘーゲルをまだ十分に読めていない。だから、絶対精神という概念をきちんと理解したうえで批判できる段階にはない。ここで書いているのは、学術的な批判ではなく、いまの私の身体から出てくる違和感である。

それでも、精神が歴史を貫き、自己を展開し、世界を回収していくような壮大な図式に触れると、私は身構えてしまう。人間の精神は、本当にそんなに堂々と世界を背負えるのか。薬の量で見え方が変わり、睡眠で判断が変わり、疲労で未来が変わり、腸や菌や神経で感情が揺れる存在が、精神の名において歴史を統合してよいのか。精神は、そこまで強いものなのか。いや、少なくとも私の経験からすれば、精神はもっと脆い。もっと依存している。もっと揺れている。もっと物質に縛られている。

だから私は、唯心論を信じられなくなった。絶対精神にも警戒するようになった。心が世界を規定するという言い方にも、精神が歴史を回収するという言い方にも、どこか人間の側の思い上がりを感じるようになった。

しかし、それでも私は、ロゴスまでは疑っていない。

ここが、自分でも不思議なところである。物質が先行する。人間は点でしかない。精神は物質に規定される。心は世界を規定する王ではない。そこまで考えてもなお、私はロゴスの存在を疑わない。世界は意味不明である。少なくとも、人間の側から見れば、世界は過剰であり、混沌であり、説明しきれない。偶然、疲労、病、薬、菌、制度、仕事、試験、他者、記憶、欲望、挫折、希望。そうしたものが絶えず押し寄せてくる。そこに完全な意味を与えることなどできない。

それでも、線はギリギリ成立し得る。

この線を、私はロゴスと呼びたい。ロゴスは、人間が世界を支配するための道具ではない。心が勝手に世界へ投げかける意味でもない。精神が歴史を丸ごと回収する巨大な装置でもない。むしろ、人間という点を貫く垂直の線である。

ロゴスは垂直なのだ。

人間は点でしかない。だが、その点に、まれに線が通る。ある一文を読んだとき、ばらばらだった経験が急に縦に貫かれることがある。ああ、そういうことだったのか、と思う瞬間がある。世界の全体が理解できるわけではない。人生の意味が完全に分かるわけでもない。苦しみが消えるわけでもない。それでも、混沌の中に一本だけ線が立つことがある。その線は、私が所有しているものではない。私が作り出したものでもない。むしろ、私という点を通過していくものである。

読書とは、その通過を記録する営みなのではないか。

読書日記を書いてきた私は、これまでどこかで、読書を精神の営みだと思っていた。もちろん、それは間違いではない。本を読むとは、言葉を受け取り、意味を考え、自分の経験と接続し、世界の見え方を変えていく営みである。だが、いまの私は、それだけでは足りないと思っている。読書は、純粋な精神活動ではない。読める日と読めない日がある。同じ本でも、疲れているときと眠れているときでは別の本になる。薬が足りないときと整っているときでは、一文の重さが変わる。身体がこわばっているとき、言葉は入ってこない。世界が敵意を帯びているとき、本の意味も歪む。

つまり、本の意味もまた、身体に規定されている。

だが、だから読書が無意味になるわけではない。むしろ、そこに読書日記の切実さがある。読書とは、物質に規定された人間が、その規定を少しだけ言葉に変える行為である。完全な自由ではない。だが、完全な受動でもない。薬に揺れ、菌に生かされ、疲労に曇り、制度に押され、仕事に削られ、試験に追われながら、それでもなお、私は「私にはこう見えた」と書く。その一点に、読書日記の意味がある。

5月からの変化は、だから単に体調が悪かった、薬を少し戻した、少し楽になった、という話ではない。私のなかで、人間観が変わったのである。心を中心に置く考え方が、かなり信用できなくなった。主体性という言葉に含まれる過剰な責任の匂いにも敏感になった。精神の偉大さを語る思想に、以前よりも距離を取るようになった。人間はもっと物質的で、もっと弱く、もっと依存的で、もっと偶然に左右される存在なのだと思うようになった。

しかし同時に、それは絶望ではない。

人間が点でしかないなら、その点を整えればよい。点でしかないからこそ、背負いすぎてはいけない。点でしかないからこそ、眠らなければならない。点でしかないからこそ、薬や身体や菌や生活環境を軽視してはいけない。点でしかないからこそ、世界を全部意味づけようとしてはいけない。世界は意味不明でよい。意味不明なままでよい。ただ、その意味不明な世界のなかで、一本の線が立つことがある。その線に触れたとき、人間はもう一度言葉を書くことができる。

私はロゴスを、人間の勝利としてではなく、人間の限界のなかに立つ線として考えたい。ロゴスは、私の精神が世界を支配する証ではない。私という点が、世界の過剰さのなかで完全に消えずに済むための、垂直の支えである。横に広がる世界は意味不明である。日々は雑多であり、生活は乱れ、仕事は続き、試験は迫り、身体は揺れ、薬の量で見え方は変わる。だが、その横の混乱のなかに、ときどき縦の線が入る。その線が入った瞬間、私は少しだけ書けるようになる。

久々に読書日記を書くということは、私にとって、以前の自分に戻ることではない。むしろ、以前よりも少しだけ自分の弱さを知った状態で、もう一度書くことである。自分の心が世界を決めているなどとは、もう簡単には言えない。自分の精神が歴史や人生を堂々と背負えるとも思えない。私は点である。物質に揺れる点である。菌に生かされ、薬に支えられ、疲労に曇り、制度に押され、偶然に運ばれる点である。

それでも、その点にロゴスが通ることはある。

読書日記とは、そのことを信じるための形式なのかもしれない。心が世界を規定するのではない。心もまた世界に規定されている。だが、規定された心が、なお世界を読み返すことはできる。物質に左右される身体が、なお一文に打たれることはある。菌に生かされる存在が、なお言葉によって自分の経験を組み替えることはある。主体性とは、その程度のものかもしれない。壮大な自由ではない。世界の中心に立つ意志でもない。物質と環境のなかで揺れる一点が、ほんの少しだけ条件を整え、ほんの少しだけ線に触れようとすること。それくらいのものかもしれない。

しかし、いまの私には、その「それくらい」がむしろ信頼できる。

大きな精神より、小さな調整のほうが信頼できる。世界を支配する心より、薬で変わる心のほうが信頼できる。歴史を回収する絶対精神より、混沌のなかで一瞬だけ立つロゴスの線のほうが信頼できる。人間を中心に置く思想より、人間を点として扱う思想のほうが、いまの私には誠実に思える。

5月に背負いすぎた私は、世界を支えようとしていたのかもしれない。少なくとも、自分の生活と未来と責任を、意志の力で何とか支えようとしていた。しかし、その支え方は長く続かなかった。身体が先に知らせてくれた。薬を少し増やしただけで世界が変わるという経験が、私に教えてくれた。お前は中心ではない。お前は点である。点であるなら、点として生きよ。点を壊すな。点を整えよ。そして、線が通る瞬間を待て。

このことを、私は敗北とは呼びたくない。

むしろ、これは読書日記に戻ってくるための、新しい前提である。以前のように、心の力だけで読もうとは思わない。精神の強度だけで書こうとも思わない。私は物質に左右される。身体に左右される。薬に左右される。菌に左右される。仕事に左右される。制度に左右される。それでも、そのすべてに左右されながら、言葉を書く。左右されることを恥じるのではなく、左右される存在として、なお線を探す。

世界は意味不明である。

だが、線はギリギリ成立し得る。

この一文を、いまの私はかなり本気で信じている。意味不明な世界に、完全な説明を与えることはできない。心が世界をすべて規定するわけでもない。精神が歴史を完全に回収するわけでもない。人間が中心にいるわけでもない。むしろ、人間は点である。だが、その点に垂直のロゴスが通ることがある。読書とは、その線に触れることであり、読書日記とは、その触れた跡を残すことである。

では、心が世界を規定するのではなく、心もまた世界に規定されているのだとしたら、点でしかない人間は、どのようにして垂直のロゴスに触れることができるのだろうか。