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日記
今日考えたのは、人格はどこから来るのか、という問題である。もっと正確に言えば、人格は脳から来るのか、腸から来るのか、菌から来るのか、それともそれらを含む身体全体と、経験と、価値判断と、物語の絡み合いから来るのか、という問題である。きっかけは、執行草舟が「人格は菌が決める」というようなことを言っている、という話であった。最初は少し極端な言い方にも聞こえる。しかし、腸内細菌が脳細胞よりも多い、あるいは少なくとも人体が膨大な細菌との共生系であることを考えると、人間を脳だけで説明することのほうが、むしろ粗いのではないかという疑問が出てくる。
もちろん、現代科学の水準からすれば、「人格は菌が決める」と断定するのは言いすぎである。腸脳相関はすでに重要な研究領域ではあるが、まだ発展途上であり、腸内細菌が不安、抑うつ、ストレス反応、認知、免疫、代謝などに関わる可能性が示されているとしても、それをただちに「この菌がこの人格を作る」といった単純な因果関係に置き換えることはできない。菌が人格を単独で決定するわけではない。人格は遺伝、発達、家庭環境、食事、睡眠、記憶、社会関係、教育、言語、文化、トラウマ、読書、偶然の出会いなど、無数の要素の総合として形成される。だが、それでもなお、「人格は菌が決める」という言葉には、単なる疑似科学的な断言として片づけられない鋭さがある。
その鋭さは、人間を脳中心に見てきた近代的な人間観への挑発にある。私たちは長いあいだ、人間の精神や人格や意思決定を、脳の中にあるものとして考えてきた。脳科学が発展し、MRIやfMRIや神経伝達物質や脳部位の研究が進むにつれ、人格、感情、不安、依存、記憶、意思決定は、ますます脳の問題として語られるようになった。しかしそれは、脳が本質的にすべての中心だからそうなったというより、脳が先に観測可能になり、研究対象として扱いやすかったから、人間観が脳中心に傾いたのではないか。研究史の順序が、人間の本質理解を決めてしまった可能性がある。
脳科学が先に発展したから、人間は脳で説明されるようになった。腸内細菌叢は複雑すぎた。菌種は膨大であり、個人差も大きく、食事、睡眠、ストレス、抗生物質、年齢、生活環境によって変化する。しかも、単独の菌が単独の作用を持つというより、生態系として振る舞う。そうした複雑すぎる対象は、近代科学の道具立てでは長らく十分に扱えなかった。だから研究が遅れた。だが、研究が遅れたことは、重要でないことを意味しない。むしろ、対象が複雑すぎて、科学の測定技術がようやく追いつき始めたと見るべきなのかもしれない。
この点で、「人格は菌が決める」という言葉は、科学的な命題というより、人間観の転換を促す比喩として受け取ると強い。人間は自分が思っているほど、自我だけで人格を作っていない。私は私の意志で考え、私の脳で判断し、私の理性で生きている、という近代的な自画像は、かなり危うい。人間は、食べたもの、眠れたかどうか、腸の状態、炎症、代謝、ホルモン、血糖、身体のこわばり、気温、疲労、菌の生態系まで含めて、ようやく一つの人格として現れている。同じ思想を持っていても、眠れている日と眠れていない日では、出てくる人格が違う。同じ倫理観を持っていても、便秘で身体が重い日と、身体が軽く腹の調子がよい日とでは、他者への反応が違う。ある日には寛容だった人が、別の日には攻撃的になる。ある日には耐えられた言葉が、別の日には致命的に刺さる。これは思想の変化だけでは説明できない。身体の下部構造が、人格の現れ方を変えている。
だから、人格は脳内にだけあるのではない。人格は、身体という生態系から立ち上がる。脳はたしかに重要である。記憶、言語、運動、意思決定、情動の統合に関わる中心的な器官であることは疑いない。しかし、脳を人格の唯一の司令塔と見るよりも、身体全体の生態系から上がってくる情報を統合する結節点と見るほうがよいのではないか。腸、菌、免疫、内分泌、神経、代謝、睡眠、環境、他者との関係。そうしたものが絡み合い、最終的に「私の感じ方」「私の怒り方」「私の不安」「私の読書の仕方」として現れる。すると、人格とは脳内現象というより、身体内生態系の表現であると言いたくなる。
ただし、ここで重要なのは、物質的な決定論に落ちないことである。「人格は菌が決める」と言った瞬間、それを浅く読めば、菌決定論になる。「あなたの性格は腸内細菌のせいです」「このサプリで人格が変わります」「この菌を増やせば前向きになります」といった話になる。これは危険である。腸脳相関の研究が進んでいることと、人格を商品化された腸活の物語に回収することはまったく違う。菌は人格に関わる。しかし、菌だけで人格が閉じるわけではない。脳も、ホルモンも、神経伝達物質も、人格の土台に関わる。しかし、それだけで人格の全体が説明されるわけではない。
ここで問題になるのが、howとwhyの区別である。科学は、ある現象がどのように起こるかを説明することに強い。ホルモンで言えば、ストレス刺激が入ると視床下部が反応し、下垂体を経由して副腎皮質からコルチゾールが分泌される。その結果、血糖が上がり、身体が覚醒し、危機への準備が整う。これは「どのように分泌されるか」の説明である。つまりhowである。しかし、「なぜ私はこの場面で不安になるのか」「なぜこの人の言葉にだけ過剰に反応するのか」「なぜ私の身体はこの状況を危機として読んだのか」「なぜこの反応が私の人生においてこういう意味を持つのか」という問いは、単なる機構説明では尽くせない。
ホルモンは反応の媒体であって、意味そのものではない。コルチゾールが分泌されることは説明できる。アドレナリンが出ることも説明できる。オキシトシンが愛着や社会的結合に関わることも説明できる。しかし、「なぜその人にとってこの関係が救いなのか」「なぜその人にとってこの裏切りが許せないのか」「なぜその人にとってこの経験が人生の核になったのか」は、ホルモンだけでは説明できない。物質的過程はたしかに意味の条件である。しかし、意味そのものではない。
人格形成についても同じである。脳科学は、人格の形成に関わる多くのことを示してくれる。恐怖記憶に扁桃体が関わる。報酬系が依存や動機づけに関わる。前頭前野が抑制や判断に関わる。海馬が記憶に関わる。ホルモンや神経伝達物質が感情や行動傾向に関わる。トラウマやストレスが脳の反応様式を変えることも説明できる。これらは非常に重要である。人格は根性だけではない。人格は道徳だけではない。人格は脳と身体の条件に深く制約されている。これは科学が教えてくれる大きな真理である。
しかし、それはなおhowである。どのような神経機構で、その人の反応傾向が形成されたか。どのようなホルモン環境で、その感情が出やすくなったか。どのような発達条件で、その防衛反応が作られたか。科学はここを説明できる。しかし、人格にはwhy的な要素が多すぎる。なぜその経験がその人にとって屈辱になったのか。なぜ別の人には同じ出来事が試練になったのか。なぜある人は怒りに向かい、ある人は沈黙に向かい、ある人は読書に向かうのか。なぜその一文が、その人の生き方を変えたのか。なぜその人は誠実であることを譲れない価値としたのか。これは脳内の発火だけでは説明しきれない。
人格は、原因だけでできているのではない。意味でできている。もちろん、原因はある。家庭環境、遺伝、発達、身体状態、社会的経験、読んだ本、出会った人、受けた傷、与えられた承認。だが、それらは出来事としてそのまま人格になるわけではない。その出来事がどのように意味づけられたかが重要である。「あのとき私は見捨てられた」「あの言葉で私は救われた」「あの失敗で私は二度と油断しないと決めた」「あの本で私は世界の見方を変えた」。こうした自己物語が、人格を形成する。神経回路の変化として記述することはできるかもしれない。しかし、それだけでは足りない。本人にとって、それは単なる刺激ではなく、人生上の出来事だからである。
この問題は、価値判断においてさらに明確になる。科学は、価値判断がどのような身体的・脳神経的・環境的条件のもとで発生するかを説明できる。ある人が怒りを感じるとき、扁桃体が反応する。報酬を予測するとき、ドーパミン系が関わる。共感や社会的判断に前頭前野や島皮質が関わる。空腹、睡眠不足、腸内環境、ホルモン、ストレス、トラウマが判断を歪めたり変えたりすることも示せる。つまり、科学は価値判断の発生条件を説明できる。
しかし、それは価値判断の妥当性そのものの説明ではない。なぜ誠実であるべきなのか。なぜ裏切りは悪いのか。なぜ尊厳を守るべきなのか。なぜ弱い者を踏みつけてはいけないのか。なぜ美しいものを美しいと感じるのか。なぜその犠牲に意味があると判断するのか。こうした問いは、脳科学だけでは答えられない。脳がそう反応したから善い、とは言えない。ホルモンがそう分泌されたから正しい、とは言えない。腸内細菌がそういう状態だから、その価値が妥当である、とは言えない。ここには、ヒューム以来の問題がある。「である」から「べき」は直接には出てこない。
したがって、「人格の形成に関わることを科学が示してくれる」という言い方は正しい。しかし、それは人格形成のhowを説明しているのであって、whyを根源的に説明しているわけではない。科学は「なぜそう感じたか」の条件を語ることができる。だが、「なぜそう感じるべきか」は語れない。ここを混同すると、人間理解は一気に浅くなる。ある人が不安を感じるメカニズムを説明することと、その不安がその人の人生において何を意味するのかを説明することは違う。ある人が誠実さを重んじる脳内反応を測ることと、誠実さがなぜ価値あるものなのかを説明することは違う。
価値判断には三層あると考えられる。第一層は発生条件である。脳、ホルモン、腸内細菌、遺伝、発達、睡眠、食事、身体状態、環境刺激。ここは科学が強い。第二層は形成史である。家庭、学校、職場、屈辱、承認、失敗、救済経験、人間関係、読書。ここは心理学、社会学、歴史、教育、臨床の領域である。第三層は妥当性である。それは善いのか、正しいのか、美しいのか、守るべきなのか、尊厳があるのか。ここは哲学、倫理、文学、宗教、対話の領域である。人格はこの三層すべてが絡み合ってできる。脳科学は第一層に強い。しかし、第三層を単独では担えない。
だから、人格を科学だけで根源的に説明することは、現時点では不可能である。いや、現時点というより、原理的にもかなり難しいのではないか。なぜなら人格には、単なる事実記述ではなく価値判断が含まれるからである。人格とは、怒りやすい、不安になりやすい、粘り強い、慎重である、衝動的である、といった性格傾向だけではない。何を大切にするか、何を恥じるか、何に耐えるか、何を許さないか、何を美しいと感じるか、何のために生きるかを含む。ここまで来ると、人格は神経回路の問題にとどまらない。人格は、身体と経験と価値が自己物語として編成されたものである。
ただし、科学の限界を言うことは、科学を否定することではない。むしろ逆である。科学は、人間の価値判断がどれほど身体に左右されているかを教えてくれる。疲れていると正義感が攻撃性に変わる。空腹だと寛容さが失われる。睡眠不足だと不安が増える。腸内環境や炎症やホルモン状態が、気分や判断や対人反応に影響する。これは、人間を道徳だけで裁かないために重要である。人格を「本人の意志の弱さ」や「性格の悪さ」だけに還元しないために、科学は必要である。科学は、人間の自由意志を過信する道徳主義を壊してくれる。
しかし同時に、科学は価値を決めてくれない。身体状態が価値判断に影響することを示せても、どの価値を選ぶべきかまでは決められない。脳が快を感じるものが善であるとは限らない。ストレス反応が出るものが悪であるとも限らない。人間は、ときに不快で苦しいものに価値を見出す。読書もそうである。難しい本を読むことは快楽だけではない。むしろ苦しさ、分からなさ、抵抗、屈辱、停滞を含む。しかし、その苦しさが思考を深めることがある。脳が快適に反応するものだけを善とするなら、そうした読書の価値は説明できない。
ここで、読書日記アプローチが重要になる。読書とは脳だけの営みではない。身体全体で文字に反応する出来事である。眠れているか、腹が重いか、腸が荒れていないか、仕事で疲れているか、怒りが残っているか、不安があるか、そうした身体状態が、読む文体、受け取り方、解釈の粘りを変える。だが同時に、読書は単なる身体反応ではない。ある一文がなぜ私に刺さったのか。なぜその本を読んで、私の世界の見方が変わったのか。なぜその著者の言葉に、救いではなく違和感を覚えたのか。これは身体的条件だけでは説明しきれない。そこには、私の経験史と価値判断と自己物語が入ってくる。
つまり、人格とは、菌を含む身体が世界に反応し、その反応を脳が統合し、その経験を言葉と記憶が物語化することで形成される。菌は人格のhowに関わる。脳も人格のhowに関わる。ホルモンも、免疫も、代謝も、睡眠も、howに関わる。しかし、人格のwhy、つまりなぜその経験がその人にとって意味を持ち、なぜその価値を選び、なぜその生き方を引き受けるのかは、それだけでは説明できない。そこには、哲学が必要であり、文学が必要であり、倫理が必要であり、対話が必要であり、読書が必要である。
執行草舟の「人格は菌が決める」という言葉は、科学的に厳密な命題としては過剰である。しかし、人間を脳だけの存在として見る近代的な偏りを壊す言葉としては鋭い。脳科学の「人格は脳が作る」も一面の真理である。腸内細菌論の「人格は菌が作る」も一面の真理である。しかし、どちらも単独では狭い。人格は脳でもあり、菌でもあり、身体でもあり、経験でもあり、言葉でもあり、価値でもある。人格は、一つの器官に閉じ込められるものではない。人格とは、身体が世界を受け、世界との関係を意味に変換し続ける履歴である。
今日の結論を一文にすれば、こうなる。科学は人格の発生条件を説明するが、人格の価値的妥当性を根源的には説明しない。あるいは、科学は「私はなぜそう感じたのか」の条件を語るが、「私はなぜそう生きるべきなのか」までは語らない。ここに、脳科学の限界があり、腸脳相関の可能性があり、哲学の出番がある。人間は、脳だけでできていない。菌だけでもできていない。身体だけでも、社会だけでも、言葉だけでもできていない。それらが絡み合い、ある経験を価値として引き受けるところに、人格が立ち上がる。
だとすれば、人格を問うことは、脳を見ることでも、腸を見ることでも、生活を見ることでも、読んできた本を見ることでもある。そして最後には、何を善いとし、何を恥じ、何を守り、何に耐えるのかを問うことである。私の腹の中には菌がいる。私の頭の中には記憶がある。私の身体には疲労と反応の履歴がある。私の言葉には読んできた本の残響がある。その全体が、今日の私の人格として現れている。では、私はこの身体内生態系と経験の履歴を抱えながら、どの価値を選び、どのような人格として立ち上がろうとしているのだろうか。