
つづきを展開
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日記
今日の新規性は、仕事と勉強と読書だけで日を組み立てる生活が、もはや「努力」ではなく、一つの生活形式になりつつあることを確認した点にある。
残業であった。そう書くと、ただの一日である。ありふれた社会人の記録である。朝起きて、仕事へ行き、働き、残業し、帰って、疲れて、寝る。そこには特別な事件もない。劇的な転機もない。誰かに誇れるような派手な成果もない。しかし、私にとって今日という日は、むしろその「何もなさ」のなかに、かなり濃いものが詰まっていた。なぜなら、残業の日でありながら、朝の時間と隙間時間を使って、三時間強、資格の勉強を積み上げたからである。
三時間強という数字だけを取り出せば、世の中にはもっと勉強している人がいるだろう。十時間、十二時間と机に向かう受験生もいる。専業で勉強できる人もいる。環境に恵まれ、まとまった時間を確保できる人もいる。だが、今日の私にとって重要なのは、時間の絶対量ではない。残業のある一日のなかで、仕事に生活を丸ごと呑み込ませず、勉強の時間を奪還したという事実である。朝の時間を使い、隙間時間を使い、日中の細切れをかき集め、そこで三時間強を確保した。その三時間は、ただの三時間ではない。仕事に支配される一日から、かろうじて自分の未来を取り戻した三時間である。
私は最近、仕事と勉強と読書のみの人生を貫き通している。こう書くと、どこか禁欲的に聞こえるかもしれない。あるいは、つまらない生活だと思われるかもしれない。娯楽がなく、遊びがなく、華やかな予定もなく、ただ働き、ただ学び、ただ読む。だが、私の実感は少し違う。これは貧しい生活ではない。むしろ、生活の芯をどこに置くかを選び直している感覚に近い。何かを減らしているのではなく、何かを濃くしているのである。あれもこれもと手を広げるのではなく、自分が本当に生き延びるために必要なものだけを残している。
仕事、勉強、読書。この三つだけで一日が構成されていく。仕事は生活を支える現実である。勉強は未来を切り開く実践である。読書は現在の私がただ消耗品にならないための内的抵抗である。この三つのどれか一つが欠けても、今の私は持たない。仕事だけでは、人生が労働に吸い取られてしまう。勉強だけでは、現実の足場を失う。読書だけでは、観念のなかに逃げ込んでしまう。だから、この三つが同時にあることに意味がある。働きながら、学びながら、読む。現実に足を置きつつ、未来に手を伸ばし、内面を空洞化させない。この三点支持によって、私はどうにか倒れずに立っている。
休憩時間には、オフィスビルの近くの中華料理屋へ行った。平日である。普通に考えれば、昼休みを過ぎれば人は減り、街は仕事のリズムに吸い込まれていくはずである。ところが、そこには人がわんさかいた。平日にもかかわらず、人が溢れていた。会社員らしき人、近所の人、何をしているのか分からない人、ゆっくり食事をしている人、談笑している人。私はその光景を見ながら、意外と人間というのは、平日でもゆとりある人が沢山いるものなのだなと思った。
もちろん、それは一瞬の印象にすぎない。実際には、その人たちも忙しいのかもしれない。たまたま休みだったのかもしれない。シフト勤務かもしれない。営業の合間かもしれない。夜に働く人かもしれない。あるいは、私が勝手に「ゆとりがある」と見ただけで、彼らの内側にはそれぞれの焦りや苦労があるのかもしれない。人の生活は外から見ただけでは分からない。平日の昼に中華料理屋にいるからといって、余裕があるとは限らない。だが、それでも私は、その場の空気に少し驚いた。自分が仕事と勉強と読書だけに生活を絞り込み、朝も隙間時間も必死に資格勉強へ投じているせいか、平日の昼に人がゆっくり存在しているという事実が、妙にまぶしく見えたのである。
この「まぶしさ」は、羨望とは少し違う。妬みとも違う。むしろ、自分がかなり極端な生活に入っていることを、外側の風景によって知らされる感じである。世の中には、平日の昼に中華料理を食べ、誰かと話し、湯気の立つ皿を前にして、一定のゆるやかさを保っているように見える人々がいる。その一方で、私は、今日の残り時間をどうやって勉強に変換するかを考えている。休憩していても、頭の片隅には科目がある。問題集がある。過去問がある。社労士試験がある。食事をしていても、私は完全には食事のなかにいない。どこかで、次の勉強時間のことを考えている。ここに、今の私の生活の厳しさがある。
しかし、それを不幸だとは思わない。むしろ、私はいま、かなりはっきりした道の上にいる。仕事と勉強と読書のみの人生を貫き通している、と自分で書けることは、ある意味で幸福なことでもある。なぜなら、人は多くの場合、自分が何をしているのか分からないまま消耗していくからである。何となく働き、何となく疲れ、何となくスマホを見て、何となく眠り、何となく明日になる。もちろん、そういう日々にも生活の真実はある。誰もが常に目的意識を燃やして生きられるわけではない。だが、今の私は、少なくとも自分が何に時間を投じているかを知っている。自分の時間がどこへ流れているかを見ている。そこに救いがある。
社労士試験は甘くない。十科目ある。範囲は広い。似たような用語、細かな数字、期限、届出先、主体、要件、例外、横断整理。少し分かった気になった瞬間に、別の論点で崩される。理解したつもりの知識が、問題文のひっかけによって簡単に裏返される。労働基準法、労災、雇用、徴収、健保、国年、厚年、一般常識。どれもそれぞれの重さをもっている。単に読んだだけでは足りない。問題を解き、間違え、潰し、カード化し、反射句にし、また解く。知っていることと、本試験で肢を切れることは違う。私はその違いを、日に日に痛感している。
十科目中三科目が十年分終わろうとしている。これは大きい。もちろん、まだ三科目である。十科目のうち三科目。割合でいえば、まだ半分にも満たない。ここで浮かれてはいけない。三科目が終わりそうだからといって、合格に近づいたと油断するのは危険である。社労士試験は、積み上げたつもりの知識が時間の経過で抜け落ちる試験でもある。終えた科目は、放置すれば終えていない科目に戻る。過去問十年分を一周したとしても、それは「一度通過した」にすぎない。「保持している」「再現できる」「本試験で切れる」とは別である。ここを勘違いしてはいけない。
だが、それでも三科目が十年分終わろうとしているという事実は、軽く扱ってよいものではない。残業しながら、仕事をしながら、朝の時間と隙間時間を使いながら、ここまで来ている。これは、生活のなかに勉強が根を張りはじめている証拠である。やる気がある日だけ勉強する段階は、もう過ぎつつある。気分ではなく、構造で勉強する段階に入っている。朝起きる。時間を確保する。隙間で潰す。疲れても最低限やる。できなかった理由を探すのではなく、できる形に生活を削る。この反復が、少しずつ私の生活の骨格になっている。
残業のあとは、当然ながら疲れていた。疲労はきれいごとではない。精神論で消えるものではない。身体は重い。頭は鈍い。目も疲れる。集中力は底をつきかけている。帰宅した時点で、もう一日の大部分は使い果たされている。そこでさらに勉強するというのは、なかなかに無理がある。無理があるのだが、それでもやるしかない。なぜなら、試験日は待ってくれないからである。仕事が忙しかったこと、残業があったこと、疲れていたこと、眠かったこと。これらは全部、もっともらしい理由である。しかし、本試験の点数にはならない。試験会場で「残業が多かったので配慮してください」とは言えない。人生には事情があるが、試験には点数しかない。この冷たさを、私は受け入れなければならない。
帰宅後、最後の集中力を絞り出した。まるで雑巾で絞った水のように、脳を絞って集中力を抽出した。これは比喩であるが、実感としてはかなり正確である。もう残っていないと思っていたところから、まだ少しだけ出る。乾ききったと思った布から、力を込めると一滴だけ水が落ちる。その一滴を燃料として燃やす。脳を絞り、集中力を抽出し、それを燃やす。勉強とは、きれいな知的営みである以前に、こういう泥臭い消耗の営みでもある。机に向かい、問題文を読み、選択肢を切り、解説を確認し、間違いを認める。そのひとつひとつが、残った体力を削っていく。
だが、削られるだけではない。ここが重要である。たしかに私は燃え尽きた。だが、ただ燃え尽きたのではない。燃やすべきものに燃料を使ったのである。何となくスマホを見て溶けた疲労ではない。意味のない夜更かしで失われた集中力ではない。未来に向けて投じた燃焼である。ここには、疲労の質の違いがある。同じ疲れるにしても、何に疲れるかは重要である。仕事だけで疲れ切る日と、仕事のあとに勉強でさらに燃え尽きる日では、翌日に残る手触りが違う。前者は奪われた疲労であり、後者は少なくとも一部、自分で選び取った疲労である。
もちろん、これも美化しすぎてはいけない。睡眠を削りすぎれば壊れる。無理を重ねすぎれば、勉強効率は落ちる。燃え尽きる感覚を快感にしてしまうと、危険な方向へ進むこともある。努力は麻薬になる。苦しんでいる自分に酔うこともできる。だから、ただ消耗すればよいわけではない。鬼のようにやることと、無計画に壊れることは違う。社労士試験に合格するためには、根性だけでなく、保持と回転と復習の設計が必要である。疲労のなかで勉強したことは抜けやすい。だから、翌朝に再確認しなければならない。今日絞り出した一滴を、本当に知識として定着させるには、明日の反復が必要である。
それでも、今日の自分を完全に否定する必要はない。私はやった。残業の日に三時間強やった。朝と隙間時間で積み上げた。帰宅後、最後の集中力まで使った。これは事実である。自分を甘やかすためではなく、次へ進むために、この事実は認めてよい。勉強において厳しさは必要だが、事実を事実として見ることも必要である。できていない部分を潰すことと、できた部分を確認することは矛盾しない。むしろ、両方が必要である。できたことを確認しなければ、継続の足場が消える。できていないことを見なければ、合格の精度が上がらない。
平日の中華料理屋で見た人々のゆとりと、残業後に脳を雑巾のように絞る自分。その対比は、今日の記憶として残りそうである。世の中にはいろいろな時間が流れている。同じ平日でも、誰かにとっては談笑の昼であり、誰かにとっては外回りの合間であり、誰かにとっては休日であり、私にとっては勉強時間をどう確保するかの戦場である。時間は均等に配られているように見えて、実際にはまったく違う密度をもっている。三十分をただの休憩として使う人もいれば、三十分で過去問を十問潰す人もいる。昼食を完全な休息にする人もいれば、食べながら次の勉強の段取りを考える人もいる。どちらが正しいという話ではない。だが、今の私は後者を選んでいる。
そして、この選択は孤独である。仕事と勉強と読書のみの人生を貫くというのは、聞こえは強いが、実際にはかなり孤独な生活である。誰かと遊ぶ時間は減る。余白は減る。雑談的な娯楽も減る。気晴らしのための時間も、どこかで勉強に置き換わる。生活は単調になる。だが、この単調さは、私にとっては必要な単調さである。大きな成果は、派手な日々からではなく、単調な反復から生まれる。問題を解く。間違える。覚える。忘れる。戻る。また解く。この地味な循環こそが、試験勉強の本体である。そこにはドラマがない。だが、ドラマがないからこそ強い。
読書もまた、この生活のなかでただの趣味ではなくなっている。資格勉強だけをしていると、思考が試験の形式に細っていく。正誤、要件、期限、数字、条文、制度趣旨。もちろん、それらは必要である。今の私にとっては、むしろ最優先である。しかし、人間の思考がすべて試験問題の形式に回収されると、どこかで息苦しくなる。読書は、その息苦しさに風穴を開ける。読書は、直接点数にはならないかもしれない。だが、私が私であり続けるためには必要である。仕事で現実に接続し、勉強で未来を切り開き、読書で内面の可逆性を保つ。この三つがあるから、私は単なる受験機械にならずに済んでいる。
とはいえ、今は試験である。読書に逃げてはいけない。読書を言い訳にして勉強を削ってはいけない。私にとって読書は大切だが、いま合格のために必要なのは、過去問を回し、論点を潰し、知識を保持することである。読書日記を書くことも大切である。だが、それも勉強から逃げるためではなく、生活の記録として、思考の整理として、次の一日を戦うための足場として書くべきである。今日の読書日記は、文学的な装飾のためにあるのではない。残業の日に三時間強勉強した自分を、明日の五時起きへ接続するためにある。
明日も五時に起きる決意である。ここで重要なのは、「起きられたら起きる」ではない。「五時に起きる」である。決意は、曖昧な願望ではなく、具体的な時刻をもつ必要がある。五時に起きて、ひたすら勉強する。朝の時間は、誰にも奪われにくい。仕事が始まる前の時間は、まだ一日が社会に接収されていない。朝は、自分の未来を先に確保する時間である。夜に残った力で勉強するのも大事だが、夜はどうしても仕事の影響を受ける。残業、疲労、突発的な用事、気力の低下。だからこそ、朝にやる。朝に最重要の勉強を置く。朝の自分が、その日の勝敗をかなり決める。
明日の五時起きは、今日の延長である。今日、残業後に燃え尽きたからこそ、明日の朝が試される。燃え尽きた翌朝に起きられるか。ここで生活形式の強度が問われる。気分がいい日だけ勉強できる人は多い。疲れていない日だけ頑張れる人も多い。だが、試験に受かるためには、疲れた翌日にも最低限起きる必要がある。もちろん、体調を完全に壊してはいけない。しかし、単なる眠さ、だるさ、昨日頑張ったからという甘えで止まるわけにはいかない。昨日やったことは、今日休むための免罪符ではない。昨日やったことは、今日もやるための証拠である。
社労士試験の怖さは、量だけではない。継続を要求してくる点にある。三科目が進んでも、残り七科目が待っている。しかも終わった三科目も、復習しなければ崩れる。進むほどに、復習すべきものが増える。新しい科目をやりながら、古い科目を忘れないようにしなければならない。これは、単なる直線ではなく、螺旋である。前へ進みながら、戻る。戻りながら、前へ進む。過去問十年分を終えるということは、終点ではなく、再回転の起点である。ここを冷静に見なければならない。
今日の自分に言うべきことは、二つある。一つは、よくやった、である。残業の日に三時間強は、口で言うほど簡単ではない。朝と隙間時間を使ったのは正しい。帰宅後に最後の集中力を燃やしたのも、合格に向けた行動である。もう一つは、まだ足りない、である。三科目が終わりそうでも、まだ七科目ある。終わった科目も保持しなければならない。燃え尽きたという感覚だけで満足してはいけない。大事なのは、明日、何をどれだけ潰すかである。感動ではなく、回転である。達成感ではなく、定着である。努力した気分ではなく、本試験で正誤を切れる知識である。
私は、自分の生活を少しずつ試験仕様に変えている。朝の時間を確保する。隙間時間を捨てない。残業の日でもゼロにしない。読書日記で一日を言語化する。読書で内面を保つ。仕事で現実から逃げない。この構造は、まだ完成していない。疲労もある。焦りもある。孤独もある。平日の中華料理屋に溢れる人々を見て、自分とは違う時間の流れを感じることもある。だが、それでも私は、今の道を進むしかない。なぜなら、私は前例を自分でつくると決めているからである。働きながら、読みながら、学びながら、合格する。その道を、自分の生活で実証するしかない。
帰宅後に脳を雑巾のように絞り、最後の一滴を燃やした夜。その疲労は、明日の朝に無駄だったかどうかを問われる。今日の燃焼が、明日の惰眠で終わるなら、ただの消耗である。今日の燃焼が、明日の五時起きにつながるなら、それは鍛錬である。違いは、明日の行動にしか現れない。だから、今日はもう余計なことを考えすぎなくてよい。やった事実を確認し、足りない事実も確認し、眠る。そして明日、五時に起きる。机に向かう。昨日の自分が絞り出した一滴を、今日の自分が受け取る。
仕事と勉強と読書のみの人生。それは狭い人生ではない。むしろ、余計なものを削ぎ落とした結果、ようやく輪郭を持ちはじめた人生である。平日の中華料理屋に人が溢れているように、世の中にはさまざまな生き方がある。ゆとりあるように見える人もいる。忙しさを隠している人もいる。何も考えていないようで、深い事情を抱えている人もいる。私もまた、その一人である。外から見れば、ただの会社員であり、ただの受験生であり、ただの読書家である。しかし、内側では、毎日かなり熾烈な配分が行われている。どの時間を仕事に渡し、どの時間を勉強に奪還し、どの時間を読書によって守るか。その配分こそが、今の私の人生そのものである。
明日も五時に起きる。ひたすら勉強する。十科目中三科目が終わろうとしている今こそ、浮かれるのではなく、締め直す。三科目を終えた自分を褒めるのではなく、三科目を忘れない仕組みに入れる。残り七科目に怯えるのではなく、一科目ずつ潰す。問題を解き、間違いを潰し、カードにし、反射句にし、本試験で切れる形にする。今日の残業も、今日の中華料理屋も、今日の疲労も、今日の燃え尽きも、すべて明日の五時へつなげる。生活はまだ苦しい。だが、苦しいだけではない。苦しさのなかに、確かに前進がある。
では、私はこの単調で苛烈な日々を、単なる我慢としてではなく、自分の未来をつくる形式として、どこまで貫き通せるだろうか。
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