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日記
満員電車がひどすぎた。ひどすぎた、という言葉では足りない。あれは移動ではなく、圧縮である。人間が目的地へ向かうために電車に乗っているのではなく、都市という巨大な機械に、人間の身体が一時的に詰め込まれているような感覚であった。足の置き場がない。腕の逃げ場もない。背中に誰かの荷物が当たり、前からは別の誰かの肩が押し寄せ、横からは知らない体温が密着してくる。息を吸うことさえ、どこか他人に許可を求めているような気分になる。毎日つぶされている、という表現は決して比喩ではない。実際に身体はつぶされている。肋骨のあたり、肩のあたり、腰のあたり、そしてもっと深いところにある気力のようなものまで、少しずつ押し込まれていく。
だが今日は、つぶされながらも精神はつぶされなかった。そこが今日の記録すべき一点である。身体は満員電車に負けていた。だが精神は、ヒルティ『幸福論』にしがみついていた。あるいは、しがみついていたというより、つぶされている身体の内側で、何か別の筋肉が動いていた。人間は身体だけではない。もちろん身体が苦しめば精神も削られる。だが、身体が圧迫されているその最中にも、精神が別の方向へ伸びることがある。満員電車のなかで本を読むというのは、優雅な読書ではない。椅子に座ってコーヒーを飲みながらページをめくるような読書ではない。片手でつり革か手すりを確保し、もう片方の手で本を開き、揺れに耐え、他人の肘や鞄を避けながら、わずかな視線の隙間に文字を拾っていく読書である。だが、そういう読書だからこそ、本の言葉が妙に身体に刺さることがある。
ヒルティ『幸福論』には、非常に重要なことが書かれていた。現代人は『幸福論』など理解できないのではないか。いや、もっと正確に言えば、理解したくないのではないか。なぜなら、ヒルティの幸福論は、安楽のすすめではないからである。気持ちよく生きましょう、無理をせず自分らしくいましょう、ストレスを減らしましょう、好きなことだけして生きましょう、という種類の幸福論ではない。そういう意味での幸福を求めている人間にとって、ヒルティは不愉快である。耳が痛い。やさしくない。慰めてくれない。むしろ、こちらが「つらい」「しんどい」「もっと楽になりたい」と言った瞬間に、静かにこちらの甘さを見てくるようなところがある。
私なりに意訳すれば、ヒルティはこう言っている。「安楽を求める限り、君にはゴミみたいな人生が待っている」。もちろんこれは私の乱暴な意訳である。しかし、今日の満員電車のなかで読んだヒルティは、私にはそのように響いた。幸福とは、安楽の別名ではない。幸福とは、苦痛がない状態でもない。幸福とは、何もしなくても快適でいられる環境を手に入れることでもない。むしろ、安楽だけを人生の目的にした瞬間、人間は腐る。腐るという言葉が強すぎるなら、鈍ると言ってもよい。だが本質は同じである。困難を避け、責任を避け、努力を避け、葛藤を避け、自分を鍛えることを避け、ただ楽な状態だけを求めるなら、人間の内部には何も残らない。残るのは、不満だけである。なぜなら、安楽を人生の中心に置いた人間は、少しでも安楽が壊されると、すぐに世界を恨むようになるからである。
満員電車に押しつぶされながら、私はそのことを考えていた。もちろん、満員電車そのものを美化するつもりはない。あれはひどい。あれは人間の尊厳を削る仕組みである。都市の労働構造、通勤制度、時間の集中、人口密度、働き方の硬直性、そうしたものが折り重なって、人間を毎朝つぶしている。だから「満員電車も修行だ」などと簡単に言うつもりはない。それは労働環境や社会構造の問題を個人の精神論にすり替える危険がある。満員電車は改善されるべきである。人間を毎日物理的に圧迫しなければ回らない社会は、やはりどこか間違っている。
しかし、そうであってもなお、その環境のなかで自分の精神まで簡単に差し出す必要はない。ここが今日の大事なところである。社会がひどいことと、自分の内側までひどくすることは別である。満員電車が私をつぶしてくることと、私が自分の精神までつぶされることを許すことは、同じではない。身体は逃げ場を失う。だが、精神は最後のところで向きを変えることができる。今日、その向きを変えさせたのがヒルティであった。
なぜ今ヒルティを読んでいるのか。そもそものきっかけは、神谷美恵子『人間を見つめて』である。神谷美恵子の文章のなかでヒルティについて触れられていた。それを読んで、私はヒルティへ向かった。これはいわば感染である。本から本へ移る。ある精神が別の精神を呼び、別の書物へと手を伸ばさせる。読書とは、知識を集めることだけではない。感染することである。神谷美恵子の眼差しに触れて、その眼差しが見ていた先にヒルティがいることを知り、私はそこへ向かった。すると今度はヒルティが、満員電車のなかの私を見返してくる。こういう連鎖があるから、読書はやめられないのである。
神谷美恵子を読むと、人間の苦しみを見つめる態度が、単なる同情や慰めではないことが分かる。人間を見つめるとは、人間を甘やかすことではない。もちろん、冷酷に突き放すことでもない。むしろ、人間の苦しみを、その人間の深さにおいて見ることである。苦しんでいる人を、かわいそうな存在として小さく扱うのではなく、その苦しみのなかにある尊厳や、問いや、可能性を見ることである。神谷美恵子の文章には、そのような厳しさがある。だからこそ、神谷美恵子のなかにヒルティが出てくることにも納得がいく。ヒルティもまた、人間をただ慰めるのではない。人間に、もっと強くあれと言う。もっと深く生きよと言う。もっと本当に幸福になれと言う。その幸福は、安楽のことではない。
現代人は幸福という言葉を、あまりにも安く使いすぎているのではないか。幸福とは、嫌なことがない状態。幸福とは、好きなものに囲まれている状態。幸福とは、自由な時間が多い状態。幸福とは、他人から認められ、承認され、傷つかず、快適に暮らせる状態。もちろん、それらを否定する必要はない。人間には休息も必要である。安心できる場所も必要である。無用な苦痛は減らされるべきである。だが、それだけを幸福と呼んでしまうと、人間はどんどん弱くなる。少しでも不快なものが来ると、それをすべて不幸と呼ぶようになる。少しでも自分の思い通りにならないことがあると、それを人生の失敗のように感じるようになる。こうして人間は、幸福を求めているつもりで、不幸に対する耐性を失っていく。
ヒルティの怖さは、そこを突いてくるところにある。幸福になりたいなら、安楽を追うな。楽になることばかり考えるな。自分の欲望を満たすことだけを人生にするな。人間には、担うべきものがある。果たすべき仕事がある。引き受けるべき苦労がある。そこから逃げ続ける限り、幸福は来ない。むしろ、幸福とは、何かに耐え、何かを担い、何かを成し遂げようとする過程のなかで、ふと見えてくるものなのだろう。満員電車のなかで読むには、あまりにも直球すぎる言葉である。だが、だからよかったのだと思う。快適な部屋でヒルティを読んでいたら、ここまで刺さらなかったかもしれない。身体が押しつぶされていたからこそ、安楽ではない幸福という言葉が、身体ごと分かった気がした。
社労士試験の勉強についても、今日は少し見え方が変わった。私は社労士試験に合格したい。絶対に一発合格したい。その気持ちは強い。だが、それは単なる欲望なのか。資格がほしい、評価されたい、収入を上げたい、職場で認められたい、そういう欲望だけなのか。もちろん、そういう現実的な欲望はある。人間である以上、ないと言えば嘘になる。だが、それだけではない。私には力をつける必要がある。これは今日、かなりはっきり感じた。社労士試験の勉強は、ただの試験対策ではない。私が自分の人生を、もう少し自分の手で動かせるようになるための道である。労働、制度、社会保険、年金、雇用、手続き、行政、権利、義務。そうしたものを理解することは、単に資格試験の知識を増やすことではない。社会のなかで人がどのように守られ、どのように働かされ、どのように制度に接続され、どのようにこぼれ落ちるのかを知ることである。
力をつけるとは、他人を支配する力を持つことではない。少なくとも、私が今必要としている力はそういうものではない。むしろ、自分が押し流されないための力である。制度を知らないまま制度に押されるのではなく、制度を読み、仕組みを理解し、必要なところで言葉にできる力である。労務の現場にいる以上、感覚だけでは足りない。善意だけでも足りない。怒りだけでも足りない。そこには条文があり、手続きがあり、期限があり、主語があり、要件があり、例外がある。それらを正確に押さえなければ、人を助けることも、自分を守ることも、組織を動かすこともできない。だから私は勉強している。欲望ではない、と言い切るつもりはない。しかし、欲望だけではない。これは必要である。私が今後、潰される側で終わらないために必要な道である。
今日の満員電車は、社労士試験の勉強ともつながっていた。電車のなかで人間がつぶされている。朝から疲弊し、会社に着く前にすでに一日の何割かを失っている。これも労働の問題である。通勤は労働時間ではないことが多い。しかし、人間の生活全体から見れば、通勤は明らかに労働に接続された負荷である。働くために消耗する時間であり、働く前に削られる体力である。制度上どう扱われるかという問題と、人間の実感としてどう苦しいかという問題は、必ずしも一致しない。ここにこそ、私の関心がある。制度の言葉と生活の実感のズレ。形式と内容のズレ。労働時間ではないが、労働に食われている時間。自己責任ではないが、個人が耐えるしかない圧力。こうしたズレを見逃さないためにも、私は知識をつけなければならない。
しかし同時に、知識をつけるだけでも足りない。ヒルティが言うように、安楽を求めるだけでは駄目である。制度を知れば楽になる、資格を取れば安心できる、力をつければ苦しみが消える、そういう単純な話ではない。力をつけるということは、むしろ背負うものが増えることでもある。知らなかった頃には見えなかった問題が、知れば知るほど見えてくる。制度の欠陥も、運用のまずさも、人間の弱さも、組織の不条理も、逃げられないものとして見えてくる。だから、勉強は安楽のためだけにあるのではない。勉強は、よりよく苦しむためにもある。雑に苦しむのではなく、何に苦しんでいるのかを見極めるためにある。自分の苦しみを、単なる気分で終わらせないためにある。
満員電車でヒルティを読むという行為は、少し滑稽でもある。人間がぎゅうぎゅうに詰め込まれた空間で、幸福について読む。幸福どころではない。まず降ろしてくれ、と思う。だが、その滑稽さがよい。幸福とは、静かで整った場所にだけ現れるものではないのだろう。むしろ、幸福を本気で考えるべきなのは、幸福とはほど遠い場所である。つぶされている場所。疲れている場所。腹が立っている場所。逃げ出したい場所。そこでなお、自分は何を捨てずにいられるのか。そこでなお、自分は何を読むのか。そこでなお、自分は何を考えるのか。幸福論とは、余裕のある人間の趣味ではない。本来は、つぶされそうな人間のための武器である。
現代の幸福論の多くは、どうにも軽い。軽いというより、消費しやすい。すぐに気分がよくなる。すぐに自分を肯定できる。すぐに「そのままでいい」と言ってくれる。もちろん、その言葉が必要なときもある。人間はいつも強くいられるわけではない。弱っている人間に「もっと苦しめ」と言うのは暴力である。しかし、いつまでも「そのままでいい」だけを聞いていると、人間は本当にそのままになってしまう。しかも、その「そのまま」は自然な自分ではなく、安楽に慣れた自分である。面倒なことを避ける自分。できない理由を探す自分。疲れたから仕方ないと言いながら、何も積み上げない自分。そういう自分を肯定し続けることは、優しさではない。緩やかな放置である。
ヒルティは、その放置を許さない。神谷美恵子も、おそらく許さない。人間を見つめるとは、人間の可能性も見つめることである。苦しんでいるから何もしなくてよい、とはならない。むしろ苦しんでいるからこそ、その苦しみをどの方向へ変えるかが問われる。満員電車でつぶされた。では、その一日をただ「最悪だった」で終わらせるのか。それとも、つぶされながらヒルティを読んだ一日として記録するのか。この差は大きい。外から見れば同じ一日である。満員電車に乗り、仕事に向かい、疲れた一日である。しかし内側では違う。つぶされただけの日と、つぶされながらも精神をつぶさせなかった日は、まったく違う。
今日の読書は、私にとって小さな抵抗であった。満員電車への抵抗であり、安楽だけを求める自分への抵抗であり、疲れたから何もできないという言い訳への抵抗である。もちろん、毎日こんなふうに強くいられるわけではない。明日は普通につぶされるかもしれない。電車のなかで本を開く余裕すらないかもしれない。帰宅して勉強する気力が残っていないかもしれない。だが、それでも今日、私は一度だけ分かった。身体がつぶされても、精神までつぶされるかどうかは、まだ決まっていない。そこにはわずかな自由がある。その自由は大きくない。満員電車を消すほどの自由ではない。社会を変えるほどの自由でもない。だが、自分の内側で何を読むか、何を考えるか、何を人生の中心に置くか、そのくらいの自由はまだ残っている。
そして、その自由を使うためには、力がいる。読書する力。考える力。勉強する力。耐える力。言葉にする力。制度を読む力。自分の欲望を点検する力。安楽と幸福を取り違えない力。私はその力をつけなければならない。社労士試験も、その道の途中にある。単なる合格ではない。もちろん合格は必要である。落ちてよい試験ではない。だが、合格だけを見ていると、勉強は苦役になる。逆に、合格の先にある「力をつける」という目的を見れば、勉強は自分を鍛える過程になる。安楽ではない。楽しくもない。焦る。苦しい。覚えられない。忘れる。問題を間違える。自分の弱さが見える。だが、それでよいのだと思う。弱さが見えるから、鍛えることができる。何も見えない安楽より、弱さが見える苦労のほうが、まだ幸福に近いのではないか。
満員電車でヒルティを読む。神谷美恵子から感染して、ヒルティへ行く。ヒルティから、安楽ではない幸福を突きつけられる。そこから、社労士試験の勉強が、単なる欲望ではなく、力をつけるための必要な道として見え直す。この一連の流れは、いかにも読書日記らしい。読書とは、生活の外にあるものではない。生活のなかに突き刺さるものである。電車の圧迫、仕事の疲労、試験の焦り、将来への不安、自分の弱さ、そうしたもののなかに本が入り込んでくる。そして本は、現実を消してくれるわけではない。満員電車は満員電車のままである。試験の範囲は減らない。疲労も消えない。だが、本は現実の意味を変える。つぶされるだけだった時間を、つぶされながらも考える時間に変える。苦しみを、ただの苦しみで終わらせず、問いに変える。
今日、私が感じたのは、幸福とは快適な人生のことではなく、意味を失わない人生のことではないか、ということである。快適でなくても、意味があれば人間は折れないことがある。逆に、快適でも意味がなければ、人間は腐ることがある。ヒルティが言っているのは、おそらくそのことである。安楽を求めるな、というのは、苦痛を愛せという意味ではない。意味のない快適さに魂を売るな、ということではないか。苦労があっても、そこに自分を鍛える道があるなら、その苦労はただの不幸ではない。満員電車は嫌である。毎日つぶされるのは嫌である。だが、そのなかでヒルティを読み、神谷美恵子を思い出し、社労士試験を自分の力への道として捉え直した今日を、ただ不幸な一日だったとは言いたくない。
もちろん、こう書いたからといって、明日から満員電車が好きになるわけではない。むしろ嫌いである。できることなら避けたい。人間をあんなふうに詰め込む社会は、やはりおかしい。だが、それでも、あの電車のなかで私はヒルティを読んだ。この事実だけは残る。誰かに押され、肘を受け、身体の自由を失いながら、それでも文字を追った。そこには、安楽ではない幸福の入口があった。楽だから読むのではない。余裕があるから読むのではない。むしろ余裕がないから読む。つぶされそうだから読む。自分がゴミみたいな人生に流されないために読む。安楽だけを求める人間にならないために読む。
読書日記とは、今日の自分が何を読んだかの記録であると同時に、今日の自分が何につぶされずに済んだかの記録でもある。今日は満員電車に身体をつぶされた。しかし精神は、ヒルティによって、神谷美恵子によって、そして社労士試験へ向かう自分の必要によって、かろうじて立っていた。幸福とは、たぶんその「かろうじて立つ」ことのなかにもある。安楽な椅子に座っていることではなく、押されながらも倒れないこと。倒れないだけでなく、その状態を言葉に変えること。言葉に変えるだけでなく、明日の勉強へつなげること。そう考えると、今日の満員電車は最悪でありながら、無駄ではなかった。
私は楽になりたい。これは本音である。だが、楽になることだけを望む自分にはなりたくない。私は合格したい。これも本音である。だが、合格だけを欲望する自分にもなりたくない。私は力をつけたい。制度を読み、人間を見つめ、社会の圧力にただ押し流されないための力をつけたい。そのために、今日も読む。今日も覚える。今日も間違える。今日も修正する。今日もつぶされながら、つぶされなかった部分を記録する。ヒルティの言葉が本当に厳しいのは、幸福を甘いものとしてではなく、人間の鍛錬として差し出してくるからである。ならば私も、幸福を消費するのではなく、幸福に耐えられる人間にならなければならないのではないか。
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