
つづきを展開
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日記
今日は、制度の言葉に長く触れていた一日であった。労働基準法を読んでいると、人間の生活というものが、いかに細かく形式化されているかを思い知らされる。労働時間、休憩、休日、賃金、解雇、年少者、妊産婦、就業規則。そこには、人間の生を直接救う言葉というより、人間の生が壊れすぎないように、最低限の線を引くための言葉が並んでいる。法律の言葉は、あたたかくはない。しかし、あたたかくないからこそ、一定の力を持つ。誰かの善意にすがるのではなく、形式として人間を守る。その冷たさのなかに、かろうじて公共性がある。
そのあとで、執行草舟『脱人間論』を読んだ。制度の言葉から、文明の終末を見つめる言葉へ移動したことになる。『脱人間論』は、ただの文明批判の本ではない。現代文明が、もはや人間の手に余る還元不能なものを生み出してしまったという認識がある。放射性物質、高分子化合物、人工的に作り出されたさまざまな物質。人間はそれらを生み出したが、元に戻すことはできない。つくることはできる。しかし、引き受けることはできない。便利さの名のもとに世界へ放たれたものが、やがて人間自身の生存条件を侵食していく。そのとき問題になるのは、いまさら文明を否定することではない。すでに始まってしまった文明のなかで、人間としてどう生きるのかという問いである。
ここで私が考えたのは、AIのことである。『脱人間論』の後半がAIとの共存に向かっていくのは、当然の流れのようにも思える。AIもまた、人間が生み出したが、人間が完全には回収できないものだからである。放射性物質や高分子化合物とAIを同じものとして扱うことは乱暴である。しかし、ある一点では似ている。どちらも、人間の能力の延長として生み出されながら、人間の手元だけには留まらない。AIは道具である。だが、ただの道具ではない。道具でありながら、人間の思考、判断、言葉、欲望、怠惰、焦り、承認欲求、権力意志までを映し出してしまう。AIが恐ろしいのは、AIそのものが悪魔だからではない。人間が自分の中にある空白を、AIによって増幅してしまうからである。
では、人間は何によって踏みとどまることができるのか。私は、やはりロゴスだと思う。論理である。
もちろん、論理は「べき」については語らない。ここは誤魔化してはいけない。論理は、人間がどう生きるべきかを直接教えてくれない。三段論法をどれだけ積み重ねても、そこから善が自然に生まれるわけではない。前提に価値判断が入っていなければ、結論にも価値判断は出てこない。論理は、価値を創造しない。論理は、愛を命じない。論理は、勇気を与えない。論理は、死を前にして人間を慰めるものでもない。だから、論理だけで生きようとする人間は、どこかで乾いてしまう。
しかし、それでもなお、論理には救いがある。なぜなら、価値判断が崩壊しつつある時代において、論理だけは、まだ人間が自分で立てることができるからである。
神なき時代、という言い方がある。かつて人間の生を支えていた大きな価値の体系が、もはや自明ではなくなった時代である。何を善とするか。何を美しいとするか。何を尊いとするか。そこにはもはや、万人を黙らせるだけの共通基盤はない。ある人にとっての善は、別の人にとっての抑圧である。ある人にとっての自由は、別の人にとっての無責任である。ある人にとっての合理性は、別の人にとっての貧しさである。価値は多元化した。多元化したというより、散乱した。人間はそれぞれ、自分の小さな価値圏のなかで生きるようになった。
このとき、対話は難しくなる。なぜなら、価値が共有されていないからである。何が大切かについて一致していない者同士が話すとき、言葉はすぐに空転する。片方は効率を語り、片方は尊厳を語る。片方は利益を語り、片方は誠実を語る。片方は成長を語り、片方は疲労を語る。それぞれの言葉は間違っていない。間違っていないからこそ、かみ合わない。現代の苦しさは、単に人々が不寛容になったことではない。むしろ、互いに違う前提から正しいことを言い合っていることにある。
だが、そのようなバラバラの人間たちであっても、完全に断絶しているわけではない。なぜなら、人間は少なくとも、何かを認識し、区別し、関係づけ、推論するという仕方において、共通の方法を持っているからである。ここに論理学の意味がある。論理学は、私たちが同じ価値を持っていることを証明するものではない。そうではなく、価値が異なっていても、なお共通に使いうる認識の形式があることを示すものである。
AであるならばBである。Aである。ゆえにBである。この構造は、誰か一人の趣味ではない。矛盾律、同一律、排中律。これらをどこまで絶対視するかには議論があるとしても、少なくとも人間が考えるとき、何かを何かとして立て、別のものと区別し、その関係をたどるという営みから完全に逃れることはできない。ここに、価値以前の共通地盤がある。いや、価値を語るための最低限の足場がある。
だから私は、ロゴスに救いを見るのである。論理が人間を救うのではない。論理そのものが善なのでもない。しかし、論理は、人間が崩壊しないための骨格にはなる。価値判断が揺らぐとき、人間はすぐに気分へ流れる。怒り、恐れ、嫉妬、承認欲求、集団の空気。そのとき論理は、気分と判断のあいだに一本の杭を打つ。私はなぜそう思うのか。その前提は何か。その結論は本当にそこから出るのか。別の前提を置けばどうなるのか。自分は事実を述べているのか、評価を述べているのか。相手を批判しているのか、それとも自分の不快感を正当化しているだけなのか。論理は、こうした問いを強制する。
この強制性が重要である。現代において、価値はしばしば「私にとっては」という言葉に逃げ込む。もちろん、私にとっての価値は大切である。しかし、「私にとっては」だけで終わる言葉は、他者とのあいだに橋を架けない。私はそう感じた。私はそう思った。私は傷ついた。私は正しいと思う。それらは出発点としては尊重されるべきである。しかし、出発点をそのまま結論にしてしまえば、世界は感情の私有地になる。そこで必要になるのが、論理である。論理は、私の感情を否定しない。だが、私の感情をそのまま世界の法にすることも許さない。
AIの時代において、この問題はさらに鋭くなる。AIは、人間の言葉を整えてくれる。曖昧な考えを文章にしてくれる。感情を穏やかに言い換えてくれる。知識を補い、構成を与え、論点を整理してくれる。それは非常に便利である。だが、便利であるからこそ危うい。なぜなら、AIは、論理の外観を簡単に作れてしまうからである。筋が通っているように見える文章。賢そうに見える説明。公平そうに見える整理。深そうに見える比喩。そうしたものは、AIによっていくらでも生成される。だが、外観としての論理と、内側から立てられた論理は違う。
ここで問題になるのは、AIを使うか使わないかではない。そんな単純な話ではない。問題は、AIによって出てきた言葉を、自分が本当に引き受けられるかどうかである。AIが出した文章に、自分のロゴスが通っているかどうかである。言葉がきれいに整っていても、自分のなかで前提と結論がつながっていなければ、それは借り物である。借り物の言葉は、危機のときに折れる。批判されたときに守れない。時間が経ったときに残らない。自分の生を支える骨にならない。
だから、AI時代に必要なのは、AIを拒絶することではなく、むしろロゴスを自分で立てる訓練である。AIを使うなら、なおさら自分で考えなければならない。AIが答えを出すから考えなくていいのではない。AIが答えを出してしまうからこそ、その答えを自分の論理で点検しなければならない。前提は何か。飛躍はないか。価値判断が事実判断に偽装されていないか。反対側の論理はどうか。自分に都合のよい結論を、AIにきれいに言わせているだけではないか。ここを問わなければ、AIは思考の補助ではなく、自己欺瞞の装置になる。
『脱人間論』が突きつけているのも、おそらくこの問題である。人間は、人間を超えるものを生み出してしまった。文明も、物質も、AIも、すでに人間の手を離れつつある。では、人間はどうすればよいのか。私は、ここで「人間らしさ」という曖昧な言葉に逃げたくない。人間らしさとは何かと言い出すと、すぐに情緒の話になる。あたたかさ、共感、やさしさ、魂、愛。もちろん、それらは大切である。だが、それらだけでは足りない。なぜなら、やさしさもまた暴走するからである。共感もまた排除を生むからである。愛もまた支配に変わるからである。人間的なものは、それだけでは人間を救わない。
むしろ必要なのは、人間的なものを支える形式である。ここで再び、ロゴスが出てくる。論理は冷たい。しかし、冷たいからこそ、熱狂から人間を守る。論理は価値を生まない。しかし、価値が自分勝手に肥大化するのを抑える。論理は生きる意味を与えない。しかし、生きる意味を語る言葉が嘘になっていないかを点検する。論理は神ではない。だが、神なき時代に、人間が自分の足で立つための杖にはなる。
そして、論理は「立てる」ものである。ここが大事だと思う。論理は、どこかに完成品として落ちているものではない。自分で前提を置き、自分で関係をたどり、自分で矛盾に気づき、自分で修正し、自分で結論を引き受ける。その一連の営みが、論理を立てるということである。論理を立てるとは、単に正しいことを言うことではない。自分の言葉に責任を持つことである。自分の置いた前提が、自分の生を縛ることを受け入れることである。
そして、立てた論理は「貫徹」しなければならない。ここでいう貫徹とは、頑固になることではない。間違った前提にしがみつくことでもない。むしろ、論理を貫徹するとは、間違いが見えたときに修正することまで含む。自分の結論が崩れたなら、崩れたことを認める。自分の前提が甘かったなら、甘かったと認める。都合の悪い反例が出たなら、それを排除せずに組み込む。貫徹とは、同じ意見を変えないことではない。思考の誠実さを変えないことである。
これは、読書日記にも関わってくる。読書日記とは、本の内容を要約するだけの営みではない。本を読んで、自分の中に一本の論理を立てることである。著者の言葉を受け取り、自分の経験とぶつけ、違和感を拾い、納得できる部分とできない部分を分ける。そして、いまの自分がどこに立っているのかを言葉にする。読書日記は、感想文ではない。少なくとも私にとってはそうではない。読書日記は、混乱した世界のなかで、自分のロゴスを鍛える場所である。
その意味で、AIと読書日記は矛盾しない。むしろ、緊張関係において共存しうる。AIは言葉を出す。だが、その言葉を採用するかどうかは私が決める。AIは構成を整える。だが、その構成に私の切実さがあるかどうかは私が見極める。AIは反論を示す。だが、その反論に耐えてなお残るものを、私が選び取る。AIを使うことが問題なのではない。AIに自分の論理を明け渡すことが問題なのである。
ここで、労働基準法の勉強に戻る。法律の勉強もまた、ロゴスの訓練である。条文は感情で読めない。制度趣旨は大切だが、趣旨だけでも解けない。要件、効果、原則、例外、主体、期限、手続。どれか一つを取り違えれば、結論が変わる。そこには、厳しい形式がある。だが、その形式をたどることによって、かえって人間の生活が見えてくる。労働基準法は、人間の尊厳を詩的に語らない。しかし、人間が壊されないための最低条件を、論理の形で置いている。ここにもまた、冷たい救いがある。
文明が終わるかどうかは、私にはわからない。現代文明がどこまで持続するのか、AIがどこまで進むのか、人間が自分の作ったものにどこまで耐えられるのか、それは簡単には見通せない。ただ、ひとつだけ言えることがある。世界がどれだけ不安定になっても、自分の論理を立てることだけは放棄してはいけない。価値が揺らいでも、言葉が氾濫しても、AIが答えを量産しても、文明が人間の手を離れていくように見えても、自分が何を前提にし、何を結論し、何を引き受けるのかを考えることだけは、最後まで人間の側に残る。
ロゴスは、救済ではない。だが、崩壊のなかで姿勢を保つための骨である。論理は「べき」を語らない。だが、「べき」を語る言葉が嘘になっていないかを問うことはできる。論理は神ではない。だが、神なき時代に、神の代用品ではなく、人間の足場として働くことはできる。私はそこに、まだ賭けたいと思う。
『脱人間論』を読みながら、私は、人間を超えることよりも、まず人間として踏みとどまることの難しさを考えていた。AIと共存するとは、AIを便利に使いこなすことではない。AIを前にして、自分のロゴスを失わないことである。文明の終わりを嘆くことよりも、終わりゆく文明のなかで、自分の論理を立て、それを貫徹すること。そのほうが、ずっと難しく、ずっと人間的である。
では私は、明日もまた、借り物ではない論理を、どこまで自分の言葉として立てることができるだろうか。