
つづきを展開
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日記
藤沢数希『損する結婚 儲かる離婚』を読み終えた。読み終えた、というより、ひとつの時代の気分を確認した、というほうが近い。これは単に結婚制度を金銭面から分析した本ではない。もちろん表面上は、結婚、離婚、財産分与、慰謝料、養育費、男女の経済合理性といった話が並んでいる。だが、私がこの本を読んで感じたのは、制度をめぐる知識の整理ではなく、人間関係を損得に還元していく時代の空気であった。結婚という、少なくとも建前としては愛、信頼、共同生活、責任、相互扶助、未来への約束といった言葉を呼び込んできたものが、ここではほとんど投資案件のように扱われている。結婚することで何を失うのか。離婚することで何を守れるのか。どちらが得で、どちらが損か。そういう言葉だけで構成された世界を読み進めていると、私はだんだん息苦しくなった。
誤解のないように書いておくと、結婚を経済的に分析すること自体が悪いわけではない。結婚は制度であり、法律であり、生活であり、当然ながらお金の問題を避けて通ることはできない。愛だけで家賃は払えないし、信頼だけで老後資金は増えない。離婚時にどのような権利義務が発生するのかを知っておくことも、むしろ現実を生きるうえでは必要である。現実を見ないロマン主義は、ときに人を破滅させる。だから、結婚をきれいごとだけで語ることには私も反対である。だが、この本を読んでいて引っかかったのは、現実を見ることと、現実を損得だけに縮減することとの区別が、ほとんど失われているように見えた点である。
人間は損得を考える。これは事実である。だが、人間は損得だけで生きているわけではない。ここを取り違えた瞬間、人間理解は一気に貧しくなる。宮台真司教授の言葉を借りれば、そこに浮かび上がるのは「損得マシーン」としての人間である。損を避け、得を拾い、リスクを計算し、相手を評価し、制度を利用し、出口戦略を考える。こう書けば、たしかに賢そうに見える。だが、その賢さは本当に人間を豊かにしているのか。私はそこに疑問を抱いた。
藤沢氏は『僕は愛を証明しようと思う』も書いている。私はそれを二十歳のころに読んだ。恋愛工学というものをもとに、女性に声をかけ、口説き、関係を持ち、恋愛や性愛をある種の技術体系として攻略していく小説である。当時の私は、若さもあって、そこにある種の刺激を感じたのだと思う。だが、いま振り返ると、あの本に漂っていたものは、恋愛の知恵というより、他者を対象化する言語の異様な軽さであった。女性が一人の生活史を持った存在ではなく、攻略対象、スコア、経験値、消費される記号のように見えてくる。その世界では、出会いは事件ではなく入力であり、恋愛は関係ではなく操作であり、身体は応答する他者ではなく、処理される対象になっていく。
もちろん、こうした読み方にも反論はあるだろう。恋愛工学は単なるフィクションであり、男性向けの自己啓発的な娯楽であり、現実の恋愛弱者に実践的なヒントを与えるものだ、という見方もできる。弱い立場にいる人間が、ただ傷つくだけでなく、少しでも自分の振る舞いを改善しようとすることは悪ではない。恋愛市場という言葉がある以上、そこに市場的な力学があることも否定できない。だが、それでもなお、私は違和感を消せない。問題は、恋愛に技術があるかどうかではない。問題は、技術が人間をどういう目で見るようにさせるかである。
技術は、対象を扱いやすくする。扱いやすくするためには、対象から余分なものを削る。揺らぎ、痛み、過去、羞恥、沈黙、迷い、誠実さ、取り返しのつかなさ。そうしたものは、技術の言語にとって邪魔である。だから、技術の言語は人間を平面化する。恋愛工学の危うさは、恋愛に戦略を持ち込むことそのものではない。戦略を持ち込んだ結果、相手を複雑な人間として見る能力が摩耗していくところにある。相手が泣くこと、迷うこと、傷つくこと、失望すること、自分と同じように世界を抱えていることが、だんだん見えなくなる。そこに残るのは、成果の数字と手応えの記憶だけである。
『損する結婚 儲かる離婚』にも同じ匂いがある。こちらは性愛の攻略ではなく、結婚制度の損得分析である。しかし、根底にある人間観はどこかつながっている。恋愛では相手を攻略対象として見る。結婚では相手を財務リスクとして見る。性愛はゲーム化され、結婚は投資判断化される。こうして人生の重大な局面が、次々と資本主義の計算用紙の上に載せられていく。私はそれを読んで、うんざりした。
ただし、ここで私自身にも注意が必要である。私はこの本を単に「不快な本」として片づけてしまいたくなる。だが、それだけでは読書日記としては弱い。この本が不快なのは、著者だけの問題ではない。この本が成立し、読まれ、一定の説得力を持ってしまう社会のほうに、より大きな問題がある。むしろこの本は、時代の病巣を露出させるレントゲン写真のようなものかもしれない。写真そのものに怒っても、骨折は治らない。怒るべきは、なぜここまで人間関係が損得の言葉に吸収されてしまったのか、という点である。
宮台教授が語る「感情の劣化」という問題意識が、ここで強く響いてくる。感情の劣化とは、単に人々が冷たくなったとか、優しさを失ったとかいう道徳的な嘆きではないと思う。もっと構造的な問題である。感じる力が痩せる。関係の厚みを受け取れなくなる。他者に対して、面倒くささを引き受ける耐性がなくなる。意味のわからないもの、すぐに利益に変換できないもの、効率化できないもの、説明しきれないものに耐えられなくなる。すると人間は、世界を損得の表に変換し始める。表にできるものだけが現実になり、表にできないものはノイズとして捨てられる。
この本を読みながら、私は少子化のことを考えた。少子化については、経済的負担、雇用不安、住宅費、教育費、女性のキャリア、地域社会の崩壊、家族観の変化など、さまざまな要因が語られる。それらはどれも重要である。だから、単純に「恋愛工学的な価値観が広がったから少子化した」と言うつもりはない。そんな雑な因果関係は、こちらが批判している薄っぺらさと同じ穴に落ちることになる。だが、それでも、損得だけで人間関係を見る感性が広がれば、結婚や出産が魅力を失っていくのは当然ではないか、と私は思う。
子どもを持つことは、損得だけで見れば割に合わない。時間は奪われる。お金はかかる。自由は減る。責任は増える。計算だけすれば、子どもを持たないほうが合理的に見える場面はいくらでもある。結婚も同じである。他人と生活を共にすることは面倒である。相手の機嫌、親族関係、家事、介護、将来設計、価値観のズレ。どれもコストである。だから、損得マシーンにとって、結婚や出産は本質的に不利な取引になりやすい。にもかかわらず人間がそれを選んできたのは、損得では測れないものがそこにあったからである。信念、祈り、欲望、寂しさ、責任、愛着、共同性、あるいは人生を自分一人で閉じたくないという感覚。そうした曖昧で濃いものが、人間を制度の中へ押し出してきた。
ところが、いまはその曖昧で濃いものが、どんどん薄くなっている。薄くなった感情を補うように、制度の説明、リスク管理、経済合理性、心理テクニック、進化心理学、マーケティング用語が入り込んでくる。人は愛せなくなったぶん、分析する。引き受けられなくなったぶん、計算する。怖くなったぶん、攻略法を求める。そして攻略法を手にした瞬間、自分が恐れていたはずの冷たい世界を、自分の側からも再生産してしまう。
藤沢氏の本にしばしば見られる、進化心理学的な説明にも私は強い違和感を覚える。もちろん、進化心理学そのものを全否定するつもりはない。人間の行動に生物学的な基盤があることは否定できないし、性選択や繁殖戦略という観点から人間の行動を見ることには一定の有効性がある。だが、それが恋愛や結婚のすべてを説明する万能の鍵であるかのように使われるとき、私は一気に胡散臭さを感じる。人間の複雑な行為を、後から「オスはこういう戦略をとる」「メスはこういう選好を持つ」と説明する。すると一見、科学的に見える。だが、それは本当に説明なのか。
火が燃えているときに「そこは熱い」と言うことは、間違いではない。だが、それは火事の原因を説明したことにはならない。なぜ燃えたのか。誰が火をつけたのか。建物の構造に問題はなかったのか。消火設備はどうだったのか。そもそもそこに燃えやすいものが積み上がっていたのはなぜか。そうした問いを飛ばして、「火は熱い」と言っても、事実をなぞっているだけである。進化心理学的な説明が、恋愛や結婚の領域で安易に使われるとき、私はこれに近いものを感じる。人間が欲望する。人間が選ぶ。人間が裏切る。人間が嫉妬する。そこに生物学的な傾向がある。それはそうだろう。だが、それだけで何がわかったことになるのか。
人間は生物である。だが、生物であるだけではない。言葉を持ち、制度を作り、恥を感じ、物語を生き、倫理を発明し、自分の欲望に対して距離を取ることができる。ここをすべて「進化的にそうなっている」で片づけると、人間の自由も責任も消えてしまう。いや、消えるというより、都合よく免責される。「男はそういうものだ」「女はそういうものだ」「市場はそういうものだ」「本能はそういうものだ」。このような言い方は、説明の顔をした諦念である。そして諦念は、しばしば欲望の正当化に使われる。
私はそこに、スペンサー的な拡大解釈の頓馬性を感じる。ダーウィン的な生物学の知見を、社会にそのまま持ち込み、競争や淘汰を社会原理として正当化していく。その愚かしさは、単に古い思想史上の問題ではない。現代にも形を変えて生き残っている。生物学、経済学、心理学、統計、AI、マーケティング。どれも本来は有用な知である。だが、それが人間を単純化し、強者の都合を正当化し、弱者の痛みを「戦略不足」として処理し始めるとき、知は知でなくなる。それは支配の道具になる。
恋愛工学の致命的な欠点もここにある。人間の一部を説明する言葉を、人間全体を説明する言葉へと拡大してしまう。たしかに、恋愛には外見、会話、タイミング、駆け引き、社会的地位、性的魅力といった要素がある。だが、それらがあることと、それらだけで恋愛を語れることとはまったく違う。人間は、相手の言葉にならない弱さに惹かれることがある。損をするとわかっていても、誰かを選ぶことがある。説明できない記憶に縛られることがある。合理的には間違っている選択を、人生の核として引き受けることがある。そういうものを切り捨てた恋愛論は、いくら実践的に見えても、どこかで人間を見失っている。
そして、その見失い方が、いまの社会の薄っぺらさと連動している。すべてが商品になる。出会いも商品になる。結婚も商品になる。自分磨きも商品になる。孤独も商品になる。コンプレックスも商品になる。読書さえ商品になる。何冊読んだか、何を語れるか、どんな知的ブランドを身につけたか。そういう形で、本来は人間を深くするはずのものまで、自己演出の道具に変わっていく。私はそれに吐き気を覚える。
この本を読みながら、何度も「資本主義的な家畜」という言葉が頭に浮かんだ。少し乱暴な言葉であることはわかっている。公開する文章としては、抑制しなければならない言葉でもある。だが、感覚としてはそうなのである。自由に選んでいるようで、実は市場の言語に飼い慣らされている。合理的に判断しているようで、実は損得の柵の中を歩かされている。欲望を解放しているようで、実は欲望の形式そのものを資本主義に調教されている。そこには鬼畜性と家畜性が同居している。他者を消費する側に立つとき、人は鬼畜になる。だが、その消費の論理に自分自身も飼われているという点では、同時に家畜でもある。
この二重性が怖い。自分は賢く立ち回っている、自分は騙されない、自分は制度を利用する側だ、と思っている人間ほど、実はより深く制度に取り込まれていることがある。損をしないための知識が、いつのまにか損得でしか世界を見られない貧しさに変わる。恋愛で傷つかないための技術が、いつのまにか誰かを傷つけても感じなくなる鈍さに変わる。自由になるための合理性が、いつのまにか合理性の奴隷になる。ここに現代の悲惨さがある。
私はこの本を「時代の糞」のようなものだと感じた。これもまた乱暴な言葉である。だが、糞という比喩は、単なる罵倒ではない。糞は身体から出る。つまり、それは身体の内部を通過してきたものの残滓である。社会にも糞がある。社会が食べ、消化し、吸収し、残したものが、思想や言説として排出されることがある。この本は、その意味で時代の排泄物のように見えた。汚いから目を背けたい。しかし、そこには社会が何を食べてきたのかが出ている。効率、攻略、損得、自己責任、市場価値、リスク管理、性的成功、財務防衛。そうしたものを大量に摂取してきた社会の排泄物として、この本は存在している。
だから、ただ捨てればよいというものでもない。掃除しなければならない。掃除とは、単に否定することではない。なぜこのような考え方がここまで力を持ったのかを考えることである。なぜ多くの人が、愛や信念や自己犠牲を語ることを恥ずかしがるようになったのか。なぜ誠実さが、しばしば負け犬の言葉のように扱われるようになったのか。なぜ人間は、損をするかもしれない関係に身を投じる勇気を失ったのか。なぜ「傷つきたくない」という感情が、いつのまにか他者を操作する技術へと変換されてしまうのか。
自己犠牲という言葉も、いまは難しい。自己犠牲を美化しすぎれば、搾取を正当化する危険がある。家族のため、会社のため、国家のため、愛する人のため、という言葉で、どれだけ多くの人が自分をすり減らしてきたかを考えれば、自己犠牲を無邪気に称えることはできない。信念も同じである。信念は人を支えるが、同時に人を硬直させる。信念の名のもとに他人を踏みにじる人間もいる。だから、自己犠牲や信念を簡単に持ち上げるのも危うい。
しかし、それでもなお、自己犠牲や信念という言葉が完全に消えた世界は、もっと恐ろしい。誰も損を引き受けない。誰も割に合わないことをしない。誰も自分の利益を超えたものに賭けない。誰も他者のために時間を失わない。そういう世界で、人間関係は成立するのか。共同体は成立するのか。家族は成立するのか。文学は成立するのか。そもそも人間は、人間でいられるのか。
私がこの本を読んで苛立ったのは、そこに「割に合わなさ」の美学がほとんど感じられなかったからである。人生には、割に合わないが、それでもやるしかないことがある。割に合わないが、引き受けた瞬間に自分が変わることがある。割に合わないが、その割に合わなさによってしか開かれない世界がある。読書もそうである。読書ほど、短期的には割に合わない営みもない。すぐに金にならない。すぐに役に立たない。読んだからといって人生が改善する保証もない。むしろ、余計な疑問が増え、社会に適応しにくくなることもある。それでも読む。なぜなら、読まなければ自分の感情が腐るからである。
今日、ジュンク堂でレオパルディ『断想集』を買い戻した。買い戻した、というところに自分でも少し笑ってしまう。一度手放したものを、また買う。合理的ではない。最初から持っておけばよかったではないか、という話である。だが、本との関係はそういうものではない。ある時期には受け止めきれなかった本が、別の時期に必要になることがある。手放したことで、逆にその本が自分にとって何だったのかがわかることもある。再購入とは、単なる所有の回復ではない。自分の問題意識が、その本に追いついたということでもある。
レオパルディをいま買い戻したのは、文明への嫌悪をぶつけるためである。いや、ぶつけるというより、文明への嫌悪を孤独なまま腐らせないためである。レオパルディには、世界への冷めた視線がある。人間の幸福への疑いがある。進歩や文明に対する深い不信がある。だが、その不信は単なる冷笑ではない。絶望の中に、奇妙な格調がある。私はいま、その格調を必要としているのだと思う。損得で薄く延ばされた現代の言葉に疲れたとき、レオパルディのような暗さは、むしろ薬になる。暗いが、薄くない。絶望しているが、軽くない。人間を信じていないようでいて、人間の苦しみを安く扱わない。
宮台教授が推している『ブラジルのホモ・ルーデンス』も買った。これも少しずつ読むつもりである。ホモ・ルーデンス、遊ぶ人間。損得マシーンとは正反対の人間像である。遊びとは、直接的な利益に回収されない行為である。勝ち負けがある場合でも、その勝ち負けは生活上の利害とは別の次元に置かれる。遊びには余白がある。無駄がある。身体がある。リズムがある。共同性がある。たぶん、いまの社会に足りないのは、この遊びの厚みなのだと思う。
現代人は遊んでいるようで、実はあまり遊んでいない。娯楽は大量にある。スマホを見れば動画もゲームもSNSもある。だが、それらはしばしば遊びというより消費である。時間を埋める。刺激を摂取する。承認を確認する。暇を潰す。そこには遊びの濃さがない。遊びとは本来、損得から一時的に離れる技法である。自分が何者であるか、いくら稼いでいるか、どれだけ市場価値があるか、そういうものを脇に置いて、世界と関係を結び直すことである。だが、いまは遊びさえ市場価値に絡め取られている。趣味は自己ブランディングになり、旅行は投稿素材になり、読書は知的プロフィールになり、恋愛は経験人数やスペックの管理になる。
こういう世界では、感情が劣化するのも当然である。感情は、本来、無駄の中で育つ。すぐに結論が出ない会話、意味のない散歩、何者にもならない時間、失敗した関係、うまく言えなかった言葉、あとからじわじわ効いてくる本。そうしたものの中で、人間の感情は厚くなる。ところが、現代はこの無駄を許さない。すぐに成果を求める。すぐに説明を求める。すぐに役に立つことを求める。恋愛にも結婚にも読書にも、コスパを求める。そうして、感情の発酵に必要な時間が奪われる。発酵しない感情は、浅い刺激として消費されるか、腐敗して怨念になる。
私は、自分がこの本にここまで腹を立てていること自体にも、少し考え込む。なぜここまで反応するのか。おそらく、私自身の中にも損得マシーンへの誘惑があるからである。自分は違う、自分はそんな薄っぺらい人間ではない、と言い切れれば楽である。だが、そんなことはない。私も損得を考える。傷つきたくない。損をしたくない。軽く見られたくない。相手に利用されたくない。自分の誠意が返品不可の商品として扱われることに、強い怒りを覚える。だからこそ、損得で防衛したくなる。最初から冷めていれば傷つかない。最初から計算していれば奪われない。最初から相手を対象として見ていれば、自分が対象にされても痛みが少ない。そういう誘惑は、私の中にもある。
だから、この本への怒りは、自分の中の弱さへの怒りでもある。損得マシーンを批判しながら、私もまた損得マシーンになりかける瞬間がある。資本主義的な家畜を嫌悪しながら、私もまたその柵の中にいる。ここを忘れると、批評はただの優越感になる。私はそうはなりたくない。批判するなら、自分も巻き込まれているものとして批判しなければならない。薄っぺらい世の中を罵るなら、自分の薄さも同時に見なければならない。
ただ、それでも言うべきことはある。このような本が時代の気分を代表してしまうことに、私はやはり危機感を覚える。結婚をビジネスとして見る視点は、知識としては必要かもしれない。だが、それが中心になった瞬間、結婚は死ぬ。恋愛を技術として見る視点も、多少は役に立つかもしれない。だが、それが中心になった瞬間、恋愛は死ぬ。人間関係は、損得を含む。だが、損得だけになった瞬間、人間関係ではなくなる。制度は必要である。だが、制度だけでは人は生きられない。合理性は大切である。だが、合理性だけでは人は深くならない。
私は、読書に救いを求めているのかもしれない。薄っぺらい世の中にうんざりし、濃いものを本の中に探している。これは逃避だと言われれば、そうかもしれない。だが、逃避にも質がある。現実から目を逸らす逃避もあれば、現実に耐えるための避難もある。私にとって読書は、後者である。世界が薄くなりすぎたとき、本の中に一度避難する。そこで言葉の濃度を回復する。感情の厚みを取り戻す。文明への嫌悪を、単なる愚痴ではなく、思考に変える。怒りを、罵倒ではなく、問いに変える。
レオパルディを読むこと。『ブラジルのホモ・ルーデンス』を読むこと。宮台教授の問題意識を手がかりに、感情の劣化を考えること。藤沢数希の本に苛立ちながら、それを単なる嫌悪で終わらせず、時代の症状として読むこと。これらはすべて、私にとって同じ営みである。つまり、損得マシーンにならないための読書である。資本主義的な家畜として飼い慣らされないための読書である。他者を消費する鬼畜性と、自分自身が飼われる家畜性の両方から距離を取るための読書である。
もちろん、本を読めば清くなるわけではない。読書家にも薄っぺらい人間はいる。むしろ、本を読んでいることを自分の価値の証明に使う人間ほど、厄介な薄さを持つことがある。だから、読書そのものを聖域化することもできない。本もまた商品である。本屋も市場である。読書もまた資本主義の中にある。だが、それでも本には、商品でありながら商品性を裏切る瞬間がある。買った本が、価格以上でも以下でもない別の何かになる瞬間がある。読み終えたあと、自分の中に残り、勝手に発酵し、日常の見え方を変えてしまう瞬間がある。そこに私は賭けたい。
『損する結婚 儲かる離婚』は、私にとって好きな本ではない。むしろ嫌悪した本である。だが、読んだ意味はあった。なぜなら、自分が何を嫌悪しているのかが、少し明確になったからである。私は、金銭の話が嫌いなのではない。現実的な制度知が嫌いなのでもない。男女関係の生々しさが嫌いなのでもない。私が嫌悪しているのは、人間の複雑さを損得の表に閉じ込め、それを賢さとして誇る感性である。相手を消費し、自分を防衛し、関係を取引化し、その冷たさをリアリズムと呼ぶ態度である。愛や信念や自己犠牲の危うさを理解したうえで、それでもなお、それらを完全に捨ててはいけないという感覚を失った世界である。
時代は薄い。とにかく薄い。言葉も薄い。怒りも薄い。欲望も薄い。正義も薄い。恋愛も薄い。結婚も薄い。読書も薄くなりうる。濃いのは本の中だけだ、と言いたくなる。だが、本の中だけに濃さがあるのなら、その濃さを現実に持ち帰らなければならない。読んで終わりではない。嫌悪して終わりでもない。薄さを罵倒するだけでは、薄さに勝てない。濃く生きる技術、いや、技術というより姿勢が必要である。
それはたぶん、損を完全には避けないことである。傷つく可能性を完全には閉じないことである。相手を対象ではなく、こちらを揺さぶる他者として見ることである。合理性を使いながら、合理性に魂を売らないことである。制度を知りながら、制度の外に残る倫理を忘れないことである。欲望を認めながら、欲望を正当化の免罪符にしないことである。文明を嫌悪しながら、その嫌悪をただの冷笑に落とさないことである。
今日の読書は、不快だった。だが、その不快さは必要だったのかもしれない。汚いものを見たからこそ、自分が掃除したい場所がわかる。薄いものを読んだからこそ、自分が濃い言葉を求めていることがわかる。損得マシーンの言語に触れたからこそ、自分がそれとは別の人間像を欲していることがわかる。レオパルディを買い戻したのも、『ブラジルのホモ・ルーデンス』を手に取ったのも、その反動である。文明への嫌悪を、思想にするためである。薄っぺらい時代へのうんざりを、読書日記として濃く沈殿させるためである。
結婚を損得で語る本を読んだあと、私はむしろ、損得では測れないもののことを考えている。離婚で儲かるかどうかではなく、そもそも人間は何に賭けるべきなのか。恋愛で勝つかどうかではなく、他者を勝敗の外で受け止める力はまだ残っているのか。資本主義の中で生きながら、資本主義に感情まで調教されない道はあるのか。薄っぺらい世の中にうんざりしながら、それでもなお本を読み、言葉を濃くし、自分の感情を守ることはできるのか。私は今日、その問いを抱えたまま、レオパルディの暗さとホモ・ルーデンスの遊びへ向かおうとしているのであるが、損得マシーンにならずに生きるために、私は明日から何を失う覚悟を持てるのだろうか。
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