
つづきを展開
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日記
GWの世間の空気には、どうにも落ち着かないものがある。人々が休みを楽しむこと自体を否定したいわけではない。旅行に行くこと、食事を楽しむこと、誰かと会うこと、日常から一時的に離れること、それらは人間にとって自然な営みである。だが、それでもなお、この時期になると、街全体がどこか一斉に浮き足立ち、楽しむことが義務であるかのような圧力を帯びる。その空気に私は、単なる休日の明るさではなく、物質主義の世界観を感じ取ってしまうのである。
物質主義とは、ただ金銭や商品を重視する態度のことではない。もっと深いところで、人間の生を「快適であること」「楽しいこと」「苦痛が少ないこと」「目に見える成果があること」に還元してしまう世界観である。身体が気持ちよく、生活が便利で、予定が埋まり、食べ物が美味しく、写真映えがし、誰かに承認される。それらが積み重なることを、幸福と呼ぶ。だが、その幸福の定義には、魂の垂直性がない。人間が何に殉じるのか、何のために苦しみに耐えるのか、何を守るために自分を捨てるのか、そういう問いが欠落している。
GWの気味の悪さは、そこにある。世間全体が「楽しむこと」を当然の善として押し出してくる。休みなのだから楽しまなければならない。せっかくの連休なのだから出かけなければならない。日常を忘れ、消費し、移動し、飲み食いし、笑顔の記録を残さなければならない。そこには、苦悩も、死も、使命も、孤独も、ほとんど入り込む余地がない。まるで人間の生が、快楽と気晴らしの総量によって測定できるかのようである。
そのような空気のなかで、執行草舟『新しい武士道』の言葉は、まったく別の方向から突き刺さってくる。執行草舟の語る武士道は、現代的な処世術でもなければ、自己啓発的な成功哲学でもない。それはむしろ、現代人が最も避けたがるものを真正面から突きつけてくる思想である。すなわち、死である。いつ死んでもいいと思える生き方。しかも、それを観念としてではなく、本気で、体当たりで、日々の実践として引き受ける生き方である。
最初に書いた通り、プラトンのように精神が身体を支配する構えが、武士道と騎士道の基礎になる。身体が精神を引きずるのではない。快楽が判断を支配するのではない。不安が行動を支配するのでもない。精神が身体を率いるのである。魂が肉体に命令するのである。これは言葉にすれば簡単だが、実践となると生易しいものではない。眠い、疲れた、怖い、痛い、損をしたくない、嫌われたくない、死にたくない。身体はいつでも精神に反乱を起こす。現代社会はその身体の反乱を、むしろ人間らしさとして肯定する方向へ進んでいる。
だからこそ、武士道や騎士道という言葉は、現代ではしばしば美しい装飾として消費される。勇気、誇り、忠義、名誉。耳ざわりのよい言葉だけが取り出され、ファッションのように扱われる。しかし本来、それらは死と結びついている。名誉とは、命よりも重いものがあるという感覚である。忠義とは、自分の快適さよりも守るべきものがあるという感覚である。勇気とは、恐怖がないことではなく、恐怖を抱えたままなお前へ進むことである。誇りとは、他人に褒められることではなく、自分の内側にある垂直の線を折らないことである。
本を読むことは大切である。私は本を読むことで、自分の世界を広げ、言葉を鍛え、思想の輪郭を確かめてきた。だが、執行草舟の言葉に触れると、本を読むことと、生きることのあいだにある深い溝を思い知らされる。本を読むことは、まだ安全圏にいる。思想を理解し、言葉を味わい、納得し、感銘を受けることはできる。しかし、その思想に自分の身体を差し出すことはまったく別である。いつ死んでもいいと思えるように生きること。これは読書感想では済まない。解釈では済まない。比喩でも済まない。生そのものの向きを変えなければならない。
この厳しさが、私には刺さるのである。世間には、やさしい言葉があふれている。無理しなくていい、自分を大切にしていい、楽しめばいい、嫌なことから逃げていい。もちろん、それらの言葉が必要な場面はある。人を追い詰めすぎる社会はたしかに間違っている。だが、その一方で、人間をあまりにも柔らかく扱いすぎる言葉は、魂の筋肉を奪ってしまう。生きることの厳しさ、何かに賭けることの重さ、苦しみを引き受けることの尊厳を、すべて「無理しないで」という言葉のなかに溶かしてしまう。
物質主義は、ただ贅沢を好むだけではない。残酷なことは最悪だ、と考える感性とも結びついている。ここでいう残酷さとは、他人を傷つける暴力のことではない。人生そのものが持っている厳しさ、死の避けがたさ、努力の報われなさ、孤独の深さ、責任の重さ、そういうものを直視することへの拒否である。現代のリベラルな感性は、しばしばこの拒否と親和性を持つ。人は傷つけられてはならない。不快にさせられてはならない。苦痛はできるだけ取り除かれなければならない。世界はもっと安全で、やさしく、包摂的でなければならない。
それは一面では正しい。弱者を踏みにじる社会よりは、弱者を守る社会のほうがよい。暴力を賛美するよりは、暴力を抑制するほうがよい。だが、問題はその先である。苦痛を減らすことが唯一の善になったとき、人間は何のために苦しむのかという問いを失う。安全であることが最高価値になったとき、人間は危険を冒してでも守るべきものを失う。楽しさと快適さが幸福の基準になったとき、魂は低いところに慣れてしまう。
私はリベラルではないのだと思う。だが、では保守なのかと言われると、それも違う気がする。保守という言葉にも、いまでは多くの紋切り型がまとわりついている。伝統を守る、家族を守る、国家を守る。たしかに大切なものはある。だが、それが単なる制度防衛や懐古趣味になった瞬間、そこにもまた魂の垂直性は失われる。私が求めているのは、右か左かという配置ではない。快楽に流されず、空気に溶けず、死を見つめながら、それでも自分の精神を立たせる生き方である。
その意味で、執行草舟の言葉はくっきりと立っている。世の中には、芸術性だとか、思想性だとか、人間性だとか、そういう言葉を使いながら、実際には何も言っていない批評があふれている。トーマス・マンを褒める言葉も、私はよく見かける。偉大な作家である、芸術性が高い、近代小説の到達点である、ヨーロッパ精神の結晶である。そういう称賛の言葉は、いくらでも並べることができる。しかし、そこに本当に読む者の生を変える力があるのか。批評家が自分の言葉を賭けているのか。あるいは、ただ立派なものを立派と言っているだけではないのか。
私は、そういう称賛を疑いの目で見る。名作だから読む。芸術性が高いから読む。文学史的に重要だから読む。そのような理由は、読書の入口にはなるかもしれないが、私の胸を突き刺す理由にはならない。むしろ、あまりにも整った称賛は、作品を遠ざけることすらある。名作というラベルが貼られた瞬間、その本は生きた危険物ではなく、文化財のようになってしまう。読者は安心して敬意を払い、安心して退屈する。これほど不幸な読書はない。
だが、執行草舟がトーマス・マン『ブッデンブローク家の人々』を挙げ、物質主義の本質がそこに掴めると語るとき、事情は変わる。これは単なる文学案内ではない。名作推薦ではない。物質主義の時代をいかに生きるかという切実な問いのなかで、マンが呼び出されているのである。だから私は、久々にマンを読みたくなった。マンという作家を、芸術性の棚からではなく、物質主義の本質をえぐる書物として読みたくなったのである。
『ブッデンブローク家の人々』は、ひとつの家の没落を描く小説である。商人の家、財産、家名、体面、結婚、相続、事業、社交。そこには物質的な繁栄があり、秩序があり、家族の形式がある。しかし、その形式の内側で、何かが少しずつ衰弱していく。物質的には豊かでありながら、精神の芯が細っていく。社会的には立派でありながら、生の力が薄れていく。おそらく物質主義の恐ろしさは、貧しさではなく、この衰弱にある。人間は豊かになりながら弱くなる。快適になりながら空洞化する。成功しながら、何のために生きているのかわからなくなる。
GWの世間の空気にも、これと似たものを感じる。楽しそうである。豊かそうである。みんな予定を持ち、移動し、消費し、写真を撮り、食べ、笑っている。だが、その明るさの奥に、どこか空洞がある。何かを本気で賭けている感じがしない。楽しさの量はあるのに、魂の重さがない。死を遠ざけ、苦しみを遠ざけ、責任を遠ざけ、ただ生をなめらかに消費しているように見える。そのなめらかさが、私には気味悪いのである。
もちろん、これは私の偏見でもあるだろう。世間の人々にも、それぞれの苦しみがあり、責任があり、見えない戦いがある。休日に笑っているからといって、その人の人生が浅いとは言えない。楽しむことそのものを軽蔑するのも違う。だが、それでも、時代全体の空気として、苦しみを避け、死を隠し、快適さを善とし、消費を幸福の形にする力が強くなっていることは否定できない。私はその空気に、吐き気を覚えるのである。
吐き気というのは、単なる嫌悪ではない。身体が何かを拒んでいるということである。私はこの世界の何に耐えられないのか。なぜGWの浮ついた空気がここまで気持ち悪いのか。それはおそらく、自分自身の弱さをそこに見ているからでもある。私もまた、快適でいたい。楽をしたい。傷つきたくない。努力せずに認められたい。死など考えたくない。身体はいつでも物質主義の側に引き寄せられる。だからこそ、世間の空気に苛立つとき、私は同時に、自分の内側にある物質主義にも苛立っているのである。
執行草舟の厳しさは、そこを逃がさない。世の中が悪い、時代が悪い、リベラルが悪い、物質主義が悪い。そう言うだけなら簡単である。しかし、武士道の問いは、すぐに自分へ戻ってくる。では、お前はどう生きるのか。お前はいつ死んでもいいと思えるのか。お前は精神によって身体を支配しているのか。お前の読書は、ただ安全な場所から思想を眺めているだけではないのか。お前は本当に、自分の言葉に身体を差し出しているのか。
この問いが厳しい。読書日記を書いていると、つい言葉の世界に安住してしまう。概念をつなぎ、引用を読み解き、思想の配置を考える。それは私にとって大切な営みである。しかし同時に、言葉は逃げ場にもなる。読んだこと、考えたこと、書いたことが、まるで生きたことの代わりになるかのように錯覚してしまう。だが、武士道はその錯覚を許さない。思想は生き方にならなければならない。読書は姿勢にならなければならない。言葉は身体を通過しなければならない。
だから、マンを読みたくなったという感覚は、単なる文学的興味ではない。物質主義とは何かを、もう一度小説のなかで見たいのである。思想書の言葉ではなく、家族の衰退、身体の弱まり、事業の継承、名誉の空洞化、生活の細部を通して見たいのである。物質主義は、抽象概念として批判するだけでは足りない。それが人間の顔つき、家の空気、食卓の会話、結婚の判断、病の描写、子どもの気質にどう現れるのかを見なければならない。小説はそこに強い。思想が骨格を示すなら、小説は肉の腐り方を見せる。
そしておそらく、マンの恐ろしさは、物質主義を単純な悪として描かないところにある。人々はただ堕落しているのではない。彼らは彼らなりに真面目であり、家を守ろうとし、体面を保とうとし、事業を継続しようとする。だが、その真面目さそのものが、どこかで生命を失っていく。形式はある。責任もある。努力もある。しかし、精神の火が消えていく。これは現代にも通じる。人々は怠けているのではない。むしろ忙しく、真面目で、予定をこなし、仕事をし、生活を管理している。だが、それでもなお、何かが薄い。生の中心に、死を見据えた覚悟がない。
武士道とは、その薄さに対する抵抗である。騎士道もまた同じである。精神が身体を支配するという構えは、快適さの時代においては、ほとんど反時代的である。身体を大切にしましょう、心地よく生きましょう、自分らしく楽しみましょう、という声のなかで、精神が身体を率いるなどと言えば、古臭く、危険で、抑圧的に聞こえるかもしれない。だが、本当にそうだろうか。身体の欲望に従い続けることが自由なのか。傷つかないように生きることが幸福なのか。死を見ないことがやさしさなのか。
私はそうは思わない。人間は、快適さだけでは生きられない。少なくとも私は生きられない。楽しければいい、残酷なことは嫌だ、苦しいことは避けたい、という世界観のなかにいると、魂が腐っていく感じがする。人間には、厳しさが必要である。自分を超えるものが必要である。命よりも大切だと言える何かが必要である。それがなければ、生はただ長く、なめらかで、退屈な消費になる。
もちろん、いつ死んでもいいと思える生き方は、容易ではない。むしろ、ほとんど不可能に近い。私自身、そんな境地にはまったく達していない。本を読んで、感動して、厳しい言葉に打たれて、それでも翌日には身体の弱さに負ける。眠気に負け、怠惰に負け、不安に負け、承認欲求に負ける。だからこそ、執行草舟の言葉は痛いのである。できていないことを、できていないまま突きつけてくる。慰めてくれない。読者を甘やかさない。そこに信頼がある。
世の中の多くの言葉は、読者を気持ちよくさせようとする。あなたはそのままでいい。あなたは悪くない。もっと楽に生きていい。そう言われると、一瞬は救われる。だが、救われた気分になることと、本当に生が変わることは違う。執行草舟の言葉は、救いというよりも刃である。胸に刺さる。痛い。だが、その痛みのなかに、まだ自分が腐りきっていないという感覚がある。痛みを感じるということは、魂がまだ反応しているということである。
だから私は、GWの気味悪い空気のなかで、むしろこの痛みを手放したくない。世間が楽しさへ流れていくとき、自分まで同じ方向へ流れたくない。物質主義の世界観が「これが幸福だ」と笑顔で差し出してくるものを、そのまま受け取りたくない。もちろん私は、完全に外部に立てるわけではない。私もこの時代の人間であり、この社会の便利さのなかで生きている。だが、少なくとも、自分が何に飲み込まれようとしているのかは見ていたい。
そのために本を読むのである。ただ知識を増やすためではない。ただ名作を消化するためではない。ただ批評らしい言葉を書くためでもない。本を読むとは、自分の生の姿勢を問い直すことである。執行草舟を読むことで、武士道の厳しさを突きつけられる。マンを読むことで、物質主義の衰弱を具体的に見る。プラトンを思い出すことで、精神が身体を支配するという古くて新しい命題に戻る。そうして読書は、世間の空気に対する抵抗の形式になる。
私はマンを読みたくなった。これは自分でも少し意外な感覚である。マンを推す声は多い。だからこそ、私は距離を取っていた。どうせまた、芸術性だとか、近代精神だとか、重厚さだとか、そういう言葉で飾られた読書案内なのだろうと思っていた。しかし、執行草舟の言葉を経由すると、マンは急に別の顔を見せる。名作としてではなく、物質主義の本質を掴むための書物として立ち上がる。これは読む理由として強い。私の胸に刺さる理由である。
読書には、こういう瞬間がある。長いあいだ遠ざけていた本が、ある言葉をきっかけに突然こちらへ向かってくる。世間の称賛では動かなかった心が、一人の思想家の切実な言葉によって動く。これは、読書が単なる情報処理ではないことを示している。本は、本だけで読まれるのではない。ある問い、ある時代の気分、ある身体の不快感、ある人の言葉によって、初めて読まれるべき本になるのである。
GWのそわそわした空気のなかで、私は物質主義を感じる。その物質主義への吐き気のなかで、執行草舟の武士道が立ち上がる。その武士道の厳しさの先に、マンの『ブッデンブローク家の人々』が見えてくる。こうして読書は、世間から離れるための逃避ではなく、世間の本質を見抜くための刃になる。楽しさの時代に、楽しさだけでは生きられない自分を確認する。快適さの時代に、快適さだけでは魂が死ぬことを確認する。死を隠す時代に、死を見据えることからしか生は立ち上がらないのではないかと考える。
私はまだ、いつ死んでもいいとは言えない。そこまでの覚悟はない。だが、いつ死んでもいいと思える生き方に憧れる自分はいる。その憧れを失ったら終わりだと思う。物質主義に完全に飲み込まれるとは、たぶんその憧れを失うことである。楽しく、便利で、安全で、やさしい世界のなかで、もう高いものを見上げなくなること。死を見ず、名誉を問わず、精神を立てず、ただ気分よく生きること。それが私には耐えられない。
だから今年のGW、私は世間の浮つきに背を向けながら、むしろ自分の内側にある弱さを見たい。そして、マンを読みたい。『ブッデンブローク家の人々』を、名作としてではなく、物質主義の家系図として読みたい。そこに描かれる衰弱を、自分の時代の衰弱として読みたい。そして執行草舟の言葉を、ただ感動した言葉としてではなく、自分の生活を裁く尺度として持ちたい。
読書日記を書くとは、読んだ本を安全に並べることではない。むしろ、自分の生がどの本によって裁かれたのかを書くことである。今回は、GWの空気が私を裁き、執行草舟の言葉が私を裁き、まだ読まれ直していないマンが私を呼んでいる。物質主義の世界で、精神が身体を支配するとはどういうことか。楽しさと快適さが幸福の名を騙る時代に、いつ死んでもいいと思えるほどの垂直な生を、私はどこまで本気で引き受けられるのだろうか。