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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

読書日記2147

 

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日記

ブックオフN店に行ってきた。目的は本ではなかった。ウォークマンに入れたいCDの在庫があるのが、このN店だけであったからである。Amazonにも限界がある。ネットで聴ける、買える、取り込める、そういう環境はたしかに便利である。しかし、便利さの外側に落ちている曲がある。配信されていない、検索しても出てこない、あるいは出てきても形が違う。そういうものを拾いに行くには、まだ実店舗へ行くしかない。そういう意味では、今日のブックオフ行きには一応の理由があった。CDを探すという行為そのものには、まだわずかな手触りが残っていた。

けれど、店に入ってから感じたのは、音楽を探す喜びよりも、町の疲弊であった。町が汚い。店の空気も重い。本の棚も、どこか澱んでいる。言い方は悪いが、私はそこで、地域と本棚の関係をかなり露骨に見てしまった気がした。ある町に置かれている本は、その町の文化的な呼吸をある程度反映している。もちろん、これは人間を単純に値踏みするための言葉ではない。個々人の読書力や知性は、住んでいる地域や所得だけで決まるものではない。むしろ、どんな場所にもよく読む人はいるし、逆に都心に住んでいても何も読まない人間はいくらでもいる。

だが、それでも棚は嘘をつかない。

個人を断罪するのではなく、棚を見るのである。棚には、その地域に流れ込んできた本、その地域で売られた本、その地域で不要になった本、その地域で再び買われる可能性があると店側に判断された本が並ぶ。つまり、ブックオフの棚は、単なる古本の集合ではない。そこには、地域の読書履歴、消費履歴、放棄された関心、残りかすになった欲望が堆積している。だから、ある店舗の棚を見ると、その町がどんな本を読み、どんな本を手放し、どんな本ならまだ商品になると見なされているのかが、かなり残酷に見えてしまう。

今日行ったN店の棚は、正直に言って、かなりきつかった。全体的に本が傷んでいた。背表紙がくたびれている。カバーがよれている。手に取る前から、すでに読む気が削がれる。半額シールが貼ってある本も多かったが、安くなっているから欲しくなるのではなく、安くなってもなお欲しくならない本が多かった。そこにあるのは、掘り出し物の安さではなく、売れ残りの安さであった。安さが魅力ではなく、安さが敗北のしるしになっている。

本は安ければよいわけではない。むしろ、本における安さには二種類ある。ひとつは、価値あるものが偶然安くなっている安さである。これは嬉しい。古本屋の快楽はここにある。誰かが見落とした本、誰かが価値を知らずに手放した本、こちらの関心にだけ刺さる本。そうした本を安く見つけたとき、古本屋は宝探しの場所になる。

しかし、もうひとつの安さがある。価値がないから安い、という安さである。読む気が起きない。持ち帰る気も起きない。半額でも高い。棚に戻すとき、何かを得た感じではなく、時間を失った感じがする。今日のN店には、この後者の安さが多かった。安いのに貧しい。安いのに豊かではない。むしろ安さによって、よりいっそう本の薄さが見えてしまう。これはかなりつらい体験であった。

私はここで「貧乏の町は貧乏に相応しい本が多い」と言いたくなる。実際、そう感じた。きれいごとを言えば、この言い方はよくない。人を見下す響きがあるし、貧しさを自己責任に押し込める危うさもある。だから、そのままの表現で結論にしてしまうのは危険である。しかし、感じたこと自体をなかったことにはできない。町の貧しさは、ただ所得の低さだけではない。清潔さのなさ、棚の荒れ方、商品選別の粗さ、文化的な緊張感のなさ、そういうものが複合して、こちらの身体に入ってくる。私は今日、それをかなり強く感じた。

ただし、ここで本当に批判すべきなのは、貧しい人間ではなく、貧しさが棚にまで現れてしまう構造である。文化資本の格差は、きれいごとでは済まない。よい本が集まる場所には、よい本を買う人がいる。よい本を手放す人もいる。よい本を見分ける店員がいる。よい本を求める客がいる。すると、よい本がまた入ってくる。棚が強くなる。棚が強いから、さらに読む人が寄ってくる。読む人が寄ってくるから、棚がまた強くなる。

逆もある。弱い棚には、弱い本が集まる。売れる見込みのある本が俗っぽいものばかりになれば、店はそういう本を前面に出す。客もそういう本を手に取る。難しい本や威信のある出版社の本は回転しにくくなる。やがて棚から消える。すると、その店に来る読者の期待値も下がる。期待値が下がれば、棚はさらに弱くなる。これは個々人の道徳の問題というより、文化的な循環の問題である。

都心のブックオフには、まだ強い店舗がある。強いというのは、単に値段が高いという意味ではない。新しめの本がある。岩波、みすず、法政大学出版局、筑摩、講談社学術文庫、白水社、平凡社ライブラリー、叢書・ウニベルシタス、そういう名前が棚に混じっている。つまり、読書における威信や蓄積が、棚の中にまだ残っている。もちろん、威信ある出版社の本だから必ずよいとは限らない。権威主義的に出版社名だけで本を見るのも危うい。しかし、それでも棚にそうした本があると、空気が少し変わる。本がただの商品ではなく、読まれるべきものとして置かれている感じがする。

一方、今日のN店には、その緊張感がなかった。もちろん、まったく何もないわけではない。どんな店にも一冊くらいは拾えるものがある。だが、棚全体が発している気配が違う。ページを開く前から、こちらの集中力が削られる。棚を眺めていて、探す喜びよりも、諦めのほうが先に来る。これはけっこう大きい。古本屋の棚は、こちらに「まだ何かあるかもしれない」と思わせなければならない。今日の棚は、逆に「たぶん何もないだろう」と思わせる棚であった。

本棚で人間がある程度わかる、というのは本当である。もちろん、完全にわかるわけではない。本棚は演出にもなるし、虚栄にもなる。読んでいない本を並べることもできる。逆に、すばらしい読者なのに本棚を持たない人もいる。しかし、それでも本棚は、その人間の関心の地層を示す。どの本を残しているか。どの本を捨てないか。どの本を目の届く場所に置いているか。そこには、その人間が何に時間を与えてきたかが残る。

ブックオフの棚は、その店舗版である。いや、もっと言えば、その地域版である。町の本棚である。町が何を読んできたか。何を手放してきたか。何ならまだ買われると思われているか。何が棚に残り、何が棚に入ってこないか。そういうことが、背表紙の群れとして可視化される。だから、今日のN店で感じた嫌悪は、単に汚い店に入った不快感ではなかった。私はそこで、町の文化的な疲れを見てしまったのである。

ここで「民度と本のラインナップは相関する」と言いたくなる。これはかなり危ない言葉である。危ないが、言いたくなるだけの実感はある。とはいえ、私はこの言葉を、そのまま人間への罵倒として使いたくはない。「民度」という言葉は、すぐに人を雑に見下す道具になる。そうなれば、こちらの批評も薄くなる。だから、もう少し正確に言うべきである。ある地域の棚には、その地域で流通している欲望と文化資本の偏りが現れる。棚が弱いということは、そこに住む一人ひとりが劣っているということではない。けれど、その場所において、本がどのように扱われ、どのような本が残り、どのような本が求められているかは、やはり棚に出る。

そして、この「出てしまう」という感じが残酷なのである。

人間は自分を隠せる。言葉を飾れる。プロフィールを整えられる。読書家のように振る舞うこともできる。しかし棚は、ある程度、逃げられない。店の棚も同じである。強い棚は強い。弱い棚は弱い。そこにある本の種類、傷み方、値段のつけ方、半額シールの量、売れ残り方、すべてが語ってしまう。棚は沈黙しているが、沈黙しているからこそ、かえって雄弁である。

今日のN店の棚にあったのは、読書の期待ではなく、消費の残骸であった。自己啓発、軽い実用書、古びた流行本、俗っぽいタイトル、劣化した文庫、かつて少しだけ売れたが今は誰も求めていないような本。それらが棚に並んでいると、本という物体そのものが安っぽく見えてくる。紙がある。文字がある。だが、読書の気配がない。本が並んでいるのに、知性の気配が薄い。これはかなり悲しいことである。

私は本に過剰な夢を見ているのかもしれない。たかがブックオフではないか、と言われればその通りである。ブックオフは公共図書館ではない。思想の聖堂でもない。中古品のリユース店である。売れるものを置き、売れないものを値下げし、回転させる。そこに高尚な読書文化を求めるほうが間違っている、と言われれば、たしかにそうである。

しかし、それでも私はブックオフに本棚を見てしまう。単なる中古販売店ではなく、町の読書の残響を見てしまう。だから棚が弱いと、町そのものが弱って見える。棚が荒れていると、人間の時間も荒れて見える。俗っぽい本ばかりが並んでいると、その町で言葉がどれほど粗末に扱われているのかを想像してしまう。

もちろん、これは偏見である。偏見であることはわかっている。だが、偏見には、完全な嘘ではないものもある。問題は、偏見を真理として振り回すことではなく、偏見がどこから生じたのかを掘ることである。私が今日感じた嫌悪は、単に「この町の人間は低い」という乱暴な感情ではない。むしろ、本が粗末に流通し、粗末に売られ、粗末に買われ、粗末な棚として残っていることへの失望である。人間への嫌悪というより、本を取り巻く環境への嫌悪である。

そして、その環境はたぶん、貧しさと無関係ではない。貧しさは、選択肢を狭める。時間を奪う。注意力を削る。よい本に出会う機会を減らす。棚を育てる余裕を奪う。だから、貧しい町に貧しい棚が生まれるのは、ある意味では当然である。だが、その当然さがつらい。つらいのは、そこに住む人間が劣っているからではない。むしろ、劣ったものしか循環しないような構造が、当たり前の顔をして棚になっているからである。

本は本来、人間を別の場所へ連れていくものだった。いまいる場所の言葉だけではなく、別の時代、別の階級、別の思想、別の苦しみ、別の問いへ連れていくものだった。だが、棚が弱い場所では、本が逆に人間をその場所へ閉じ込める。読めば外へ出られるはずの本が、かえってその町の貧しさを反復する。安い本、薄い本、すぐにわかった気にさせる本、消費して終わる本。そうした本ばかりが循環すると、読書は解放ではなく、貧しさの再生産になる。

ここに、今日のブックオフN店の悲しさがあった。

私はCDを探しに行った。ネットでは拾えない曲を探しに行った。そこには、まだ少しだけ救いがあった。配信に乗らないもの、検索に回収されないもの、古いメディアにしか残っていないものを探すという行為は、まだ人間的である。だが、そのついでに見た本の棚は、かなりしんどかった。そこには、古いものを救う喜びではなく、捨てられたものの堆積があった。古本屋の良さではなく、古びた消費の残骸があった。

本が貨幣になる話と、今日のブックオフの話は、少し違う文脈に見える。しかし、実はつながっている。高騰する希少本も、売れ残る安本も、どちらも本が読書から離れていく現象である。前者では、本は希少性によって異常に高くなる。後者では、本は薄さによって異常に安くなる。どちらの場合も、本の中心にあるはずの「読む」という行為が後退している。高い本は読まれる前に相場になる。安い本は読まれる前に廃棄寸前になる。

本は高すぎても読まれない。安すぎても読まれない。高騰した本は投機の対象になり、安っぽい本は棚のノイズになる。どちらも悲しい。本が読まれるためのものではなく、価格によって分類されるものになっているからである。

今日のN店で私が見たのは、読書文化の底が抜けたような棚であった。そこに怒りを覚えた。嫌悪も覚えた。だが、その嫌悪をただ人に向けるだけでは足りない。むしろ、私はその棚を見ながら、読書というものがどれほど環境に左右されるのかを思い知らされた。本を読む人間は、孤独に本を選んでいるようでいて、実は棚に選ばれている。町に選ばれている。流通に選ばれている。文化資本の偏りに選ばれている。

だから、よい棚は大事なのである。よい棚は、人間の目を少し上に向ける。自分がまだ知らない本に出会わせる。少し背伸びをさせる。わからない本を買わせる。読めないかもしれない本を持ち帰らせる。棚には教育力がある。棚には誘惑がある。棚には、人間を今いる場所からずらす力がある。

弱い棚には、それがない。弱い棚は、人間をその場に留める。すぐわかるもの、すぐ消費できるもの、すぐ忘れられるものだけを並べる。読者の欲望を変えない。むしろ、欲望の低い場所に合わせて棚をつくる。そうして棚と読者は互いに低め合う。これは本当に怖いことである。

私はハッキリ物を言いたい。棚には格がある。店にも格がある。町にも、文化的な厚みと薄さがある。それを全部「多様性」という言葉でぼかすのは、むしろ不誠実である。だが同時に、その格差を人間への蔑視にしてしまうのもまた、読書家としては貧しい。棚の貧しさを見たなら、その奥にある流通の貧しさ、機会の貧しさ、時間の貧しさ、言葉の貧しさまで見なければならない。

今日のブックオフN店は、最悪だった。そう言ってよいと思う。棚は弱かった。本は荒れていた。買う気が起きない本が多かった。町の空気も重かった。だが、その最悪さは、単に笑って終わるものではない。むしろ、そこには読書文化のかなり切実な問題が出ていた。よい本が集まる場所と、そうでない場所。読む人間が育つ棚と、育ちにくい棚。偶然立ち寄った店舗のラインナップに、そうした格差がはっきり現れていた。

そして私は、そういう棚を見たとき、自分の嫌悪もまた試されているのだと思う。嫌悪は必要である。安っぽいものを安っぽいと言う力は必要である。薄いものを薄いと言う力も必要である。だが、その嫌悪が単なる見下しで終わるなら、こちらもまた薄くなる。棚の薄さを批判しながら、自分の批評も薄くなる。それでは意味がない。

だから私は、今日見た棚を忘れないでおきたい。あのボロボロの本、半額でも買う気が起きなかった本、俗っぽいタイトル、疲れた町、弱い棚。それらを、ただの不快な経験としてではなく、本がどこで、どのように、どんな人間の時間と結びついているのかを考える材料として残しておきたい。

本棚は人間を映す。店舗の棚は町を映す。だが、映っているものを見て笑うだけでは、読書家ではない。映ってしまった貧しさを、自分の言葉でどこまで掘れるか。そこにこそ、読書日記を書く意味があるのではないか。

 

 

 

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