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読書日記と哲学がメインです (不定期更新)

読書日記2156

 

つづきを展開

 

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日記

今日もすし詰め電車のなかで、ヒルティ『幸福論 第一巻』を握っていた。握っていた、という表現が妙にしっくりくる。読んでいた、ではない。携えていた、でもない。あの混雑のなかでは、本は優雅に開かれるものではなく、つぶされないように、落とさないように、他人の肘と鞄と体温のあいだで、かろうじて手中に残される小さな固形物である。ページをめくるというより、寿司を崩さないように箸で持ち上げるような感覚に近い。しかも今日はヒルティである。『幸福論』である。すし詰めにふさわしい出来である。まさに回転寿司ならぬ、回転電車である。

しかし、よく考えてみると、電車は本当に回転している。山手線のように文字通り環状に回るものだけではない。毎朝、同じ時刻に人を詰め込み、同じ方向へ運び、夜にはまた反対方向へ吐き出す。個々の人間はそれぞれ前進しているつもりでいるが、システム全体としてはただ回転しているだけである。昨日も乗った。今日も乗った。明日も乗る。顔ぶれは少し変わる。立ち位置も少し変わる。だが、構造は変わらない。混雑した車内で身体を少し斜めにしながら、私はふと、自分が社会に握られているような気がした。

握られている。これもまた、妙な比喩である。寿司を握るのは職人であり、握られるのは米と魚である。ところが朝の電車では、握る側と握られる側の区別が曖昧になる。私は吊り革を握っているつもりでいるが、実際には労働時間に握られている。生活費に握られている。将来不安に握られている。資格試験に握られている。職場のタスクに握られている。そして、もっと大きく言えば、資本主義という巨大な手に握られている。気づけば私はシャリであり、ネタであり、皿であり、レーンの上を流れていく一貫である。資本家に食われる。社会に食われる。給与明細に食われる。家賃に食われる。税と社会保険料に食われる。食われながら、それでも私は本を読む。

この「食われながら読む」という感覚が、今日の読書の核であった。ヒルティの『幸福論』は、ただ明るい幸福の本ではない。少なくとも、私がすし詰め電車で握っているかぎり、それは「楽しく生きましょう」「前向きに考えましょう」という類いの本ではない。むしろ、苦しみ、労働、信仰、内面、習慣、克己といったものが、幸福の条件としてかなり厳しく置かれている。幸福とは、好きなことを好きなだけ享受することではない。暇がたっぷりあって、気分がよくて、他人から承認されて、財布も分厚くて、健康で、何の心配もなく暮らすことでもない。もちろん、そんな生活が悪いわけではない。しかしヒルティ的な幸福は、もっと地味で、もっと硬い。人間が自分の精神をどう保つか。与えられた義務をどう引き受けるか。労働のなかでどう腐らないか。苦しみをどう単なる不幸で終わらせず、人格の材料に変えるか。そういう方向へ向かっている。

だからこそ、すし詰め電車とヒルティは妙に合うのである。静かな書斎で、紅茶でも飲みながら『幸福論』を読むのも悪くない。しかしそれでは、この本の硬さが少し薄まる気がする。幸福論は、本来、幸福ではない場所で読まれるべきなのかもしれない。人に押され、眠く、疲れ、まだ一日が始まってもいないのにすでに消耗している場所で、「幸福」という言葉に触れる。そのとき、幸福は甘い飴ではなく、噛みごたえのある骨になる。飲み込めない。だが、噛んでいるうちに顎が鍛えられる。今日の私にとって、ヒルティはそういう本であった。

今日はよく本が売れた。給料日だろうか、と思った。人が本を買う日には、どこか空気が違う。財布の紐が少しゆるむだけでなく、日常のなかに小さな未来が生まれる。本を買うとは、いまの自分に少しだけ余白を足す行為である。生活に必要なものだけを買うのではない。今すぐ役に立つかどうかも分からないものに金を払う。読めるかどうかも分からない。積むかもしれない。途中で投げるかもしれない。だが、それでも買う。本棚に置く。鞄に入れる。ページを開く。そこには、「まだ自分はこれから何かを受け取れる」という信頼がある。

私はその光景を見ながら、少しうれしくなった。本が売れるのはよい。読まれるかどうかは別として、まず売れることはよい。本は買われなければ出会いの入口にすら立てない。もちろん、本が消費物としてただ流れていくだけなら、それもまた回転寿司である。新刊が流れ、話題書が流れ、ランキングが流れ、SNSで評判が流れ、また次の皿がやってくる。だが、それでも本は、皿の上で終わらない可能性を持っている。読まれた瞬間に、その人の内部で別の時間を始める。電車のレールが同じ場所を回り続けていても、本のページは内面に別の線路を敷く。そこに、読書のささやかな反資本主義性がある。

とはいえ、私は資本主義を簡単には憎めない。なぜなら私は手取りを増やしたいからである。これから手取りが増える。社労士試験に合格して、さらに手取りを増やして、本をどんどん買い込みたい。なんと俗っぽく、なんと正直な願望だろうか。だが、ここをきれいごとで覆う必要はない。私は本を読みたい。そのためには金がいる。生活を安定させたい。そのためにも金がいる。仕事で評価されたい。資格を取りたい。昇給したい。本を買いたい。積みたい。読みたい。書きたい。そういう欲望は、決して低級ではない。むしろ、精神が物質的条件から完全に自由であるかのように語るほうが、よほど危うい。

読書は高尚な営みである、という言い方には半分だけ賛成する。たしかに読書には、ただの消費では片づけられない深さがある。しかし読書は、紙代、印刷代、流通、書店、労働、賃金、家賃、時間、体力、睡眠といった、きわめて物質的な条件の上に成り立っている。私は仙人ではない。霞を食って本を読むことはできない。だから、手取りを増やしたいという願望と、ヒルティを読みたいという願望は矛盾しない。むしろ一直線につながっている。私は精神のために金が欲しいのである。これは強欲だろうか。いや、強欲でよい。問題は、金に食われることではなく、金を通じて何を育てるかである。

今日も頭のハゲるようなハードなタスクをこなし、一日が終わった。比喩として「頭のハゲるような」と言ったが、これはなかなか切実な表現である。仕事の疲れは、単に身体がだるいというだけではない。頭皮のあたりから何かが蒸発していくような疲れがある。脳の表面を紙やすりでこすられたような疲れがある。ひとつひとつのタスクは処理できる。だが、それが連続すると、人間はだんだん「処理する機械」に近づいていく。メールを返し、確認し、調整し、記録し、判断し、また確認する。途中で自分が何を感じているのか分からなくなる。ただ、タスクが来る。処理する。次が来る。処理する。回転寿司の皿が流れてくるように、タスクが流れてくる。取らなければならない。放置すれば鮮度が落ちる。誰かが困る。自分の評価も落ちる。だから取る。食べる。飲み込む。次が来る。

このとき、私自身もまた「回転」している。朝起きる。支度する。電車に乗る。働く。帰る。勉強する。寝る。また起きる。明日も五時起きである。八時に家を出るまで格闘である。朝の三時間は、実は一日のなかで最も自由で、同時に最も過酷な時間である。まだ職場に行っていない。誰にも命令されていない。にもかかわらず、自分で自分に命令しなければならない。起きろ。洗え。食え。読め。覚えろ。問題を解け。支度しろ。遅れるな。忘れるな。朝の私は、小さな独裁者であり、小さな労働者である。自分で自分を管理し、自分で自分に追い立てられる。自由とは、こんなにも忙しいものだったのか。

最近、夕方の眠気が本当にやばい。これは単なる眠気ではない。魂の電池が落ちる感じである。目が重いというより、世界との接続がゆるむ。画面の文字が遠くなる。会話の輪郭がぼやける。判断の速度が落ちる。ここでコーヒーがないと仕事にならない。コーヒーとは、現代労働者の黒い祈祷水である。カップに注がれた小さな延命措置である。飲むと、少しだけ戻ってくる。戻ってくるが、根本的に回復したわけではない。未来から体力を前借りしているだけである。今日の夕方を乗り切るために、夜の眠りから少し借りる。今週を乗り切るために、来週の余力を少し削る。そうやって人は、気づかぬうちに自分の内部で借金を重ねていく。

しかし、人の倍以上勉強しないと這い上がれない。ここがきつい。働いて疲れているから勉強できない、という理屈は分かる。分かるが、それで止まってしまえば、その場所に固定される。疲れている人間ほど、本当は勉強しなければならない。なぜなら、疲れる構造から抜け出すには、疲れている最中に別の力を仕込むしかないからである。これは残酷である。体力のある人、時間のある人、家に帰っても余裕のある人ほど勉強しやすい。逆に、余裕のない人ほど、勉強によって状況を変える必要があるのに、その勉強のための余裕がない。資本主義って感じである。苦悩が似合うシステムである。

資本主義は、人間に「もっと頑張れば上に行ける」と囁く。同時に、「頑張るための条件」は不平等に配っている。だから、このシステムは厄介である。完全な嘘ではない。努力が無意味なわけではない。資格を取れば、状況は変わる。収入も変わる。仕事の幅も変わる。自己評価も変わる。だから努力は必要である。しかし努力だけで語ると、構造が消える。社会的条件が消える。家庭環境、健康、職場、通勤時間、睡眠、賃金、情報、メンタル、すべてが消えて、「やった人間」と「やらなかった人間」だけが残る。その単純さが、人を追い詰める。

だから私は、自分に鞭を入れながらも、鞭だけを信じないようにしたい。これは大事である。自分に厳しくすることと、構造を見失うことは違う。私は社労士試験に合格したい。いや、合格しなければならない。そのためには甘えを削る必要がある。眠い、疲れた、忙しい、という言葉にすぐ逃げ込まない必要がある。だが同時に、自分がなぜここまで疲れているのか、なぜコーヒーで夕方をつないでいるのか、なぜ五時起きで格闘しなければならないのか、その社会的な構造も見ておく必要がある。自己責任だけで自分を焼き尽くすと、最後には燃えかすしか残らない。反対に、構造批判だけで自分を免責すると、今度は何も変わらない。必要なのは、構造を見ながら、それでも自分の一手を打つことである。

ヒルティの『幸福論』が今日の私に刺さるのは、そこに「気分としての幸福」ではなく、「鍛錬としての幸福」があるからだと思う。幸福は降ってくるものではない。ましてや、疲労が消えたあとにようやく始まるものでもない。疲労の中で、どう精神を崩さないか。義務の中で、どう自分の中心を失わないか。苦しみの中で、どう卑屈にならないか。日々の反復の中で、どう腐らずに形を作るか。ヒルティの幸福は、ふわふわしていない。むしろ労働者向きである。すし詰め電車で読むのに向いている。なぜならそこには、逃げられない日常のなかで、精神をどう保つかという問いがあるからである。

「幸福論」という題名は、ときに誤解を招く。幸福という言葉には、どうしても柔らかい布団、温かい食卓、余裕のある休日、満ち足りた笑顔のようなイメージがつきまとう。しかし、私が今日感じた幸福論は、もっと汗臭い。眠気に耐える幸福論である。満員電車で押しつぶされながら読む幸福論である。給料日らしき日に本が売れるのを見て、少し希望を感じる幸福論である。手取りを増やしたいと願いながら、それでも金だけでは終わりたくないと踏ん張る幸福論である。資本家に食われると思いながら、こちらも本を食ってやると思う幸福論である。

本を読むとは、食われるだけの自分に、小さな反撃の歯を生やすことである。資本主義は時間を食う。労働は体力を食う。通勤は気力を食う。税金と保険料は手取りを食う。タスクは集中力を食う。眠気は意志を食う。では、私は何を食うのか。本である。ヒルティを食う。キケローを食う。小室直樹を食う。池田晶子を食う。岡本太郎を食う。食われっぱなしでは終わらないために、こちらも読む。読むことで、ただの労働力ではない自分を内部に残す。社会に握られながら、こちらも本を握る。これが今日の小さな抵抗である。

もちろん、本を握っただけで勝てるわけではない。読書は魔法ではない。ヒルティを一ページ読んだからといって、明日の眠気が消えるわけではない。社労士試験の問題が突然解けるわけでもない。手取りが即座に増えるわけでもない。資本主義が優しくなるわけでもない。それでも、読書には「自分が何に苦しんでいるのか」を言葉にする力がある。言葉にできれば、苦しみは少しだけ輪郭を持つ。輪郭を持てば、ただ飲み込まれるだけではなくなる。満員電車で感じる圧迫感も、単なる不快ではなく、「私は社会に握られている」という比喩になる。比喩になれば、そこに笑いが生まれる。笑いが生まれれば、まだ負けきってはいない。

今日の「回転電車」という言葉も、そういう意味では重要である。つらさをそのままつらさとして受け取ると、人は沈む。だが、そこに少しズレた言葉を差し込むと、現実との距離が生まれる。回転寿司ならぬ回転電車。私は社会に握られている。資本家に食われる。くだらない。くだらないが、このくだらなさが命綱になる。人間は深刻さだけでは耐えられない。自分の苦境を笑える形に変換することで、かろうじて主体を取り戻す。笑いとは、状況を軽く見ることではない。重すぎる状況を、持てる重さに切り分ける技術である。

そして、その笑いの裏側には、かなり切実な向上心がある。私は這い上がりたい。これはきれいな言葉ではない。上品な言葉でもない。だが、正直な言葉である。這い上がるということは、今いる場所が低いとか惨めだとか、そういう単純な話ではない。むしろ、自分の可能性をこのままの位置に閉じ込めたくないということである。もっと働ける。もっと読める。もっと稼げる。もっと書ける。もっと考えられる。もっと制度を理解できる。もっと人の役に立てる。もっと自由になれる。その「もっと」を、ただの欲望としてではなく、生活の形に変えたい。そのために社労士試験がある。そのために朝五時起きがある。そのために眠い夕方のコーヒーがある。

ただし、ここで一つ気をつけなければならない。這い上がることを、自分を嫌うことと混同してはいけない。今の自分を否定するから努力するのではない。今の自分を粗末に扱ってよいから勉強するのでもない。むしろ、今の自分をここで終わらせたくないから努力するのである。ここは大きく違う。自己嫌悪を燃料にすると、たしかに一時的には走れる。だが、その燃料は有毒である。走れば走るほど内側が傷む。必要なのは、自己嫌悪ではなく、自己更新である。今日の自分が苦しんでいる。その苦しみを、明日の自分の条件改善に変える。これが勉強であり、資格であり、読書であり、労働である。

ヒルティ的に言えば、幸福は快適さの別名ではない。幸福とは、自分の生活に意味の筋を通すことである。満員電車、ハードなタスク、眠気、コーヒー、給料、手取り、資格、本、これらがバラバラに散らばっていると、ただの疲弊で終わる。しかし、そのあいだに一本の線が引かれると、日記になる。今日の疲れは、ただの疲れではなくなる。今日の電車は、ただの通勤ではなくなる。今日売れた本は、ただの売上ではなくなる。今日の眠気は、ただの生理現象ではなくなる。すべてが、私がどう生きようとしているのかを示す材料になる。読書日記とは、その材料を捨てずに拾い上げる営みである。

だから、今日も書くのである。疲れていても書く。眠くても書く。大した事件がなくても書く。むしろ、大した事件がない日こそ書く価値がある。人生の大部分は、大事件ではなく反復でできている。五時に起きる。八時に出る。電車に乗る。働く。眠くなる。コーヒーを飲む。帰る。勉強する。本を読む。寝る。この反復を、ただ消耗として通過させるのか、それとも言葉にして少しずつ自分の思想に変えるのか。そこに、連続読書日記の意味がある。日々は流れる。だが、書けば堆積する。回転しているように見える生活のなかにも、書かれたものだけは少しずつ層を作る。

今日の新規性は、「握られる読書」である。これまで私は本を読む主体として自分を考えてきた。しかし今日は、本を握る私自身が、社会に握られている存在として見えてきた。私は本を握る。だが、同時に労働に握られている。制度に握られている。時間に握られている。資本に握られている。ここに二重の握りがある。片方は圧迫であり、片方は抵抗である。社会に握られながら、本を握り返す。これが今日の読書の姿であった。

この構図は、社労士試験にも通じる。制度に握られている人間が、制度を学ぶ。労働に疲れている人間が、労働法を学ぶ。社会保険料に手取りを削られている人間が、社会保険を学ぶ。これは皮肉であると同時に、強い。自分を縛っているものの名前を知ること。仕組みを知ること。条文を知ること。要件を知ること。例外を知ること。それは、ただ試験に受かるためだけではない。握られている手の形を知るためでもある。形が分かれば、少しだけ動ける。少しだけ抜け道が見える。少しだけ、他人の痛みも分かる。制度を学ぶとは、社会に握られたまま、握り返すための指を鍛えることなのかもしれない。

明日も五時起きである。これを書いている時点で、すでに明日の眠気が予告されている。朝はまた格闘になるだろう。布団は重い。身体は起きたがらない。頭はぼんやりする。それでも起きる。問題を解く。覚える。出勤する。電車に乗る。たぶんまた誰かの鞄が脇腹に当たる。誰かの肘が本に触れる。ページがめくりにくい。だが、私はまた本を握る。握られっぱなしにならないために、握る。

資本主義は苦悩が似合うシステムである。だが、苦悩だけで終わらせる必要はない。苦悩は、そのままではただ人を削る。しかし、言葉にすれば批評になる。勉強にすれば資格になる。読書にすれば内面の筋肉になる。日記にすれば、明日の自分への記録になる。今日のすし詰め電車も、今日のコーヒーも、今日の売れた本も、今日のハードタスクも、全部まとめて、私の一日である。資本家に食われるなら、私はせめて本を食ってから食われたい。社会に握られるなら、私はせめてヒルティを握ったまま握られたい。回転電車に乗せられるなら、その回転のなかで、ただ流される皿ではなく、ひとつの文章を書き残す人間でありたい。

幸福とは、もしかすると、楽になることではないのかもしれない。楽になりたいという願望は当然ある。手取りも増やしたい。睡眠も欲しい。本も買いたい。夕方に眠くならない身体も欲しい。だが、それだけでは足りない。どれだけ条件が整っても、日々がただ流れていくだけなら、そこには空虚が残る。逆に、条件がまだ厳しくても、その厳しさを言葉に変え、学びに変え、未来の一手に変えられるなら、そこにはすでに幸福の入口があるのではないか。すし詰め電車でヒルティを握る私は、社会に握られた不幸な労働者なのか、それとも握られながらなお本を握り返す、幸福論の実践者なのか。