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日記
最近、読書は帰りの電車でしかできていない。以前なら、読書というものにもう少し余白があった。机に向かい、ページを開き、言葉が自分の内側に沈んでいく時間があった。しかし今は違う。朝四時に起きる。そこから八時まで、休憩と朝食を挟みながら社労士試験の勉強をする。労基法、安衛法、労災、雇用、徴収、健保、国年、厚年。条文、要件、期限、主体、数字、例外、届出、給付、保険料、時効。頭の中に制度を叩き込み、曖昧な理解を潰し、間違えた肢を二度と間違えないようにする。感想などいらない。気分などいらない。やるか、落ちるかである。
だから今の私は、読書家というより、試験に追われる人間である。もっと言えば、試験に飼われている人間である。朝は試験のために起き、仕事中は労務課として働き、帰宅後もまた試験のために机に向かう。会社の家畜になり、帰宅後は試験の家畜になる。自分で選んだ道だと言えば、それはそうである。合格したいのだから仕方がない。前例を自分でつくるためには、今ここで踏ん張るしかない。しかし、仕方がないことと、疲れないことは別である。意味があることと、苦しくないことは別である。自分で選んだ鎖であっても、鎖は鎖である。
帰りの電車で、執行草舟『新しい武士道』を読んだ。満員電車の中で読む本として、これほど場違いで、これほど適切な本もない。身体は押し込められ、肩はぶつかり、誰かの鞄が脇腹に当たり、スマホの光がそこら中で揺れている。全員が下を向いている。画面を見ている。情報を見ている。通知を見ている。くだらない動画、くだらないニュース、くだらない広告、くだらない反応。もはやカオスである。スマホである。カスである。カス以下の電車である。
もちろん、ここで言うカスとは特定の誰かのことではない。私自身もその一部である。人間そのものがカスなのではない。人間がカスのように扱われ、カスのように流され、カスのように詰め込まれ、カスのように消費されているということである。満員電車の中では、誰も一人の人間ではない。肉の単位である。移動する荷物である。労働力の束である。会社に向かう部品であり、家に帰る残骸である。そこに尊厳などあるのか。あると言えばあるのだろう。しかし、あるはずの尊厳が、現実にはほとんど見えない。見えないものを信じるのは、もはや信仰である。
その中で、執行草舟は「物質には何も価値はない」と言う。この言葉は、普通に読めば極端である。現代人にはまず受け入れられない。なぜなら、現代人は物質に価値があるという前提で生きているからである。金、家、車、スマホ、服、地位、資格、年収、フォロワー、資産、肩書き。見えるもの、数えられるもの、比較できるもの、換金できるもの。それらを価値だと思わなければ、現代社会ではまともに歩けない。だから「物質には何も価値はない」という言葉を本当に理解できる人間は、おそらく満員電車の一両に一人いるかどうかである。いや、一人もいないかもしれない。私自身も、理解していると言い切れない。資格が欲しい。収入も欲しい。役職も欲しい。生活を安定させたい。勝ちたい。負けたくない。そう思っている時点で、私は物質に縛られている。
しかし、執行草舟の言葉は、物質を捨てればよいという単純な話ではない。金を持つな、地位を求めるな、生活を軽視しろ、という話でもない。そんな綺麗ごとなら読む価値はない。問題は、物質を所有しているつもりで、実は物質に所有されていないかということである。金を稼ぐために働いているつもりで、金に人生を管理されていないか。資格を取るために勉強しているつもりで、資格に自分の存在価値を預けていないか。スマホを使っているつもりで、スマホに精神を吸い取られていないか。会社で働いているつもりで、会社の論理に自分の呼吸まで奪われていないか。
これが一番きつい。なぜなら、私は今まさにその渦中にいるからである。社労士試験に全振りしている。朝四時に起きている。仕事もしている。帰りの電車でしか読書できていない。帰宅後も勉強する。これを「努力」と呼べば、それなりに美しく聞こえる。「自己投資」と呼べば、現代的で前向きに見える。「キャリア形成」と呼べば、社会的にも通りがいい。しかし、そんな言葉で包んだところで、身体は疲れている。精神も疲れている。生活は削られている。読書は圧縮されている。余白は消えている。私は私の人生を良くするために勉強しているはずなのに、その途中で私自身が削れている。
ここで綺麗なことを言うのは簡単である。「それでも未来のために頑張ろう」「努力は裏切らない」「今の苦しみは成長の証だ」。気持ち悪い。そういう言葉はもう聞き飽きた。努力は普通に裏切る。頑張っても落ちる人間は落ちる。苦しんでも報われないことはある。朝四時に起きても、試験本番で一点足りなければ終わりである。どれだけ生活を削っても、マークミスひとつ、曖昧な知識ひとつ、択一の迷いひとつで崩れる。それが試験である。そこに「頑張った自分を褒めよう」などという甘さはない。そんなものは落ちた後の慰めであって、受かるための武器ではない。
だが、だからこそ読書が必要なのである。私は今、読書を楽しむために読んでいるのではない。癒やされるために読んでいるのでもない。教養人ぶるためでもない。帰りの電車で、身体を押し潰されながら、カス以下の空間の中で、それでも一行を読む。その一行が、かろうじて私を人間に戻すのである。試験の家畜、会社の家畜、満員電車の肉塊、そのままで終わらないために読む。つまり読書は、余暇ではない。抵抗である。
執行草舟の「物質には何も価値はない」という言葉は、満員電車の中で読むと、単なる思想ではなくなる。これは殴打である。現代社会の価値観に対する殴打であり、同時に私自身への殴打である。お前は何に価値を置いているのか。お前は何のために勉強しているのか。お前は資格を取って何になりたいのか。お前は会社の中で昇進したいのか。それとも、昇進した先で何かを変えたいのか。お前は金が欲しいのか。役職が欲しいのか。それとも、金や役職に振り回されないだけの精神の背骨が欲しいのか。
ここを間違えると、社労士試験の勉強すら物質になる。資格という物質。合格証書という物質。名刺に書ける肩書きという物質。給与に反映される評価という物質。もちろん、それらは現実には重要である。重要でないなどとは言わない。きれいごとで飯は食えない。生活を安定させることは大事である。働く以上、評価されたいと思うのも当然である。私はそんなものを否定するほど浮世離れしていない。
しかし、それだけなら終わりである。資格を取っても、会社の家畜が少し高級な飼料をもらうだけである。肩書きが増えても、首輪に金メッキがつくだけである。年収が上がっても、檻が少し広くなるだけである。そこに精神の転回がなければ、物質の序列を上がっただけで、価値の世界には一歩も入っていない。
執行草舟の言う武士道とは、結局、死を前提にした価値の立て方なのだと思う。死ぬものに、どのように価値を置くか。消えるものに、どのように身を捧げるか。物質は残るように見えて、実際には残らない。金も使えば消える。身体も衰える。会社も変わる。制度も変わる。資格の価値も時代とともに変わる。スマホの画面に流れる情報など、最初からゴミのように消えていく。そんなものに永遠の価値を置くから、人間はおかしくなる。消えるものを、消えないもののように崇拝するから、精神が腐る。
では、消えないものとは何か。おそらくそれは、物質ではない。精神の姿勢である。どう生きたか。何に耐えたか。何を恥としたか。何を捨てなかったか。どの瞬間に踏みとどまったか。誰も見ていないところで、どのように自分を扱ったか。朝四時に起きること自体に価値があるのではない。朝四時に起きて、自分の弱さをごまかさず、曖昧な知識を潰し、眠気と疲労の中でも一問を切れるようにする、その姿勢に価値がある。資格そのものに価値があるのではない。資格を取る過程で、自分を甘やかす言葉を一つずつ殺していくことに価値がある。
だから私は、今の疲労を美化したくない。疲れているものは疲れている。気持ち悪いものは気持ち悪い。満員電車は気持ち悪い。スマホに吸い込まれている空間も気持ち悪い。会社の論理に人間が整形されていく感じも気持ち悪い。試験勉強で生活が支配される感じも気持ち悪い。朝から晩まで何かの制度、何かの評価、何かの締切、何かの点数に追われる人生は、はっきり言って異常である。
しかし、その異常の中で、私は逃げずにいる。ここが重要である。逃げないことと、従順であることは違う。従順な人間は、満員電車に押し込まれながら、それを普通だと思う。会社に削られながら、それを社会人の常識だと思う。スマホに精神を吸われながら、それを娯楽だと思う。試験に追われながら、それを自己実現だと思う。私はそうは思わない。これは異常である。はっきり異常である。だが、異常だから逃げるのではない。異常だと分かったうえで、その中に自分の価値をねじ込むのである。
満員電車で『新しい武士道』を読むとは、そういうことである。快適な書斎で読むのとは違う。静かな喫茶店で読むのとも違う。押されながら読む。揺られながら読む。疲れた身体で読む。隣の人間のスマホの光を視界の端に感じながら読む。自分もまたカス以下の流れに巻き込まれていると自覚しながら読む。そのとき、読書は趣味ではなくなる。読書は、自分がまだ完全には飼い慣らされていないことの証明になる。
私は今、社労士試験に全振りしている。これは逃げではない。むしろ、逃げ道を潰している。受かりたい。絶対に受かりたい。一発で受かりたい。だから、朝四時に起きる。だから、疲れていても勉強する。だから、帰りの電車でしか読めなくても読む。しかし同時に、私は試験のためだけの人間にはなりたくない。合格した瞬間に、ただの資格取得マシーンとして完成するのは嫌である。制度を覚えるだけの人間にはなりたくない。制度の中で働きながら、制度の外側にある価値を見失わない人間でありたい。
その意味で、『新しい武士道』は危険な本である。なぜなら、試験勉強の合理性を横から刺してくるからである。効率、得点、暗記、合格、昇進、給与。そうした現実的な線を走っている人間に対して、「それで、お前の魂はどうなっているのか」と聞いてくる。うるさい、と思う。今それどころではない、と思う。こっちは受からなければならないのだ。そんな精神論に浸っている暇はない。そう言いたくなる。
しかし、本当に怖いのは、その問いを失うことである。魂などという言葉は、現代では気持ち悪がられる。精神などと言えば古臭い。武士道などと言えば暑苦しい。物質には価値がないなどと言えば、極端な精神主義に見える。だが、そうやって大事な言葉を全部笑い飛ばした結果、残ったものが何かと言えば、スマホと満員電車と疲労である。通知と広告と給与明細である。評価と数字と消耗である。つまり、カスである。
ならば、多少暑苦しくても、多少極端でも、精神の言葉を取り戻したほうがいい。物質には何も価値はない。この言葉を、そのまま生活に適用することはできない。金は必要である。資格も必要である。仕事も必要である。食費も家賃も必要である。そんなことは分かっている。しかし、それらを必要なものとして扱うことと、それらを価値の中心に置くことは違う。必要なものを必要なものとして処理しながら、価値の中心には別のものを置く。それができなければ、人間はただの現代社会の燃料になる。
今日の読書は、たぶん読書量としては大したことがない。帰りの電車で少し読んだだけである。だが、その少しが重い。朝四時に起き、八時まで勉強し、会社で働き、帰りの電車でもみくちゃにされながら読む一行は、休日にゆったり読む百ページとは別の質を持つ。量ではない。状況である。その一行をどこで読んだか。その一行が、どの疲労の上に置かれたか。その一行によって、自分の何が殴られたか。読書日記とは、本来そこを書くものではないかと思う。
私は疲れている。これは事実である。だが、疲れているから終わりではない。疲れているときに何を読むか。疲れているときに何を捨てないか。疲れているときに、どの言葉だけは自分の中に残すか。そこに、その人間の輪郭が出る。元気なときの思想など、いくらでも立派にできる。余裕があるときの読書など、いくらでも美しく語れる。問題は、カス以下の電車に押し込まれ、会社の家畜として働き、帰宅後に試験の家畜になるような日に、それでも何を読むかである。
私は今日、『新しい武士道』を読んだ。そして、「物質には何も価値はない」という言葉に引っかかった。引っかかったというより、刺さった。今の私に必要なのは、癒やしではない。応援でもない。やさしい言葉でもない。むしろ、こういう乱暴な言葉である。お前の欲しがっているものは本当に価値なのか。お前が追っている合格は、ただの物質になっていないか。お前は試験を使って自分を鍛えているのか、それとも試験に使われているだけなのか。お前は会社に行っているのか、それとも会社に運搬されているだけなのか。
この問いから逃げたら終わりである。受かっても終わりである。むしろ受かったあとに、もっとひどくなるかもしれない。資格を取った。役職が上がった。給料が増えた。生活が安定した。そこで安心してしまえば、物質の世界に完全に吸収される。だから今のうちに、自分に釘を刺しておく必要がある。合格は目的である。しかし、最終目的ではない。資格は武器である。しかし、魂ではない。仕事は現実である。しかし、人生の価値そのものではない。
満員電車の一両に一人くらいしか、この言葉を理解できないかもしれない。物質には何も価値はない。おそらくほとんどの人間は、そんな言葉を聞いても鼻で笑う。そういうことを言う人間ほど金に困ったら泣くのだ、と言うかもしれない。たしかにそうである。金がなければ人は苦しむ。生活が崩れれば精神も崩れる。だから物質を軽視してはいけない。しかし、物質を軽視しないことと、物質を崇拝することは違う。その違いが分からない社会は、どれだけ豊かでも貧しい。
私は今、その貧しさの中にいる。満員電車の中にいる。制度の中にいる。試験の中にいる。疲労の中にいる。だが、その中で一冊を開いている。たったそれだけのことが、今日の私にとってはかなり大きい。読書とは、立派な時間に行う立派な行為ではない。崩れそうな日に、崩れきらないために差し込む杭である。自分が完全に流されないための抵抗である。会社にも、試験にも、スマホにも、満員電車にも、全部持っていかれないための最後の手触りである。
だから私は、疲れたまま書く。綺麗にまとめない。努力は尊いです、などと言わない。読書は癒やしです、などとも言わない。満員電車は地獄である。スマホに沈む空間は気持ち悪い。会社に削られ、試験に追われる生活はしんどい。だが、そのしんどさの中で読む『新しい武士道』は、妙に本物だった。少なくとも、今日の私には本物だった。物質には何も価値はない。この言葉を、私はまだ完全には理解していない。だが、理解できないままでも、その言葉に殴られたことだけは分かる。
そしてたぶん、読書日記とは、理解済みのことを書く場所ではない。殴られた痕を書く場所である。今日、私は満員電車で執行草舟に殴られた。会社の家畜であり、試験の家畜であり、スマホと疲労と制度に囲まれた一人の人間として、それでも「物質には何も価値はない」という言葉を読んだ。この一行を、本当に自分のものにできる日は来るのだろうか。