
つづきを展開
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社労士試験の勉強を続けていて、いまさらながら気がついたことがある。社労士試験と読書は、かなり相性がいい。
これは、試験勉強を読書の延長にしてしまえば楽になる、というような軽い話ではない。むしろ逆である。社労士試験は、想像していた以上に細かい。数字、期限、主体、届出先、原則と例外、以上・超える、以内・未満、前日・翌日、被保険者・受給権者・事業主・厚生労働大臣。ほんの少し言葉が変わるだけで、正誤が反転する。読書のように、雰囲気で大意をつかめばよいというものではない。むしろ、言葉を一語ずつ捕まえ、制度の骨格に当てはめ、どこで誤っているのかを切る作業である。
しかし、だからこそ、私はふと気づいた。これは、私がこれまでずっとやってきたことと、意外なほど近いのではないか。
私はこれまで、二千冊以上の本を読んできた。長編小説も読んできた。哲学書も読んできた。文学、思想、社会、歴史、批評、エッセイ、古典、現代思想。読みやすい本ばかりではなかった。むしろ、読みにくい本、長い本、すぐには意味がほどけない本、何度も戻らないと文脈がつかめない本のほうが、記憶には強く残っている。何百ページもある長編小説を読み、観念が絡まり合う哲学的考察を読み、意味がまだこちらに追いついてこない文章の中に長く留まってきた。
そう考えると、社労士試験のテキストや過去問の文章量そのものは、私にとってはあまり脅威ではない。もちろん、試験としては厳しい。甘く見てはいけない。だが、少なくとも「文章が長い」「読む量が多い」「制度説明が続く」ということに対して、私はほとんど抵抗を感じない。どれだけ文章が長かろうが、私はその何百倍もある小説や思想書の中を歩いてきた。読むこと自体に対する筋力は、すでに長年の読書によって鍛えられていたのである。
ここに来て、社労士試験は「読解力の試験」というより、私にとっては「暗記精度の試験」に見えはじめている。
これは油断ではない。むしろ、課題がはっきりしたということである。文章を読むことに苦痛はない。制度説明を読むことにも、それほど拒否感はない。長い解説を読んでも、頭が文章量で折れることは少ない。問題は、その先である。読んだものを、試験で使える形に変換できるか。理解したつもりの制度を、初見の選択肢で切れるか。曖昧な語句を曖昧なまま残さず、カード化し、反射的に判断できるところまで持っていけるか。結局、ここが勝負なのだと思う。
たとえば、読書であれば、ある程度の曖昧さを抱えたまま先に進むことができる。むしろ、曖昧さを抱えること自体が読書の豊かさになる場合もある。すぐに結論を出さず、言葉の余白を残し、解釈の揺れを楽しむ。小説であれば、人物の動機が完全には説明されないからこそ面白い。哲学書であれば、一つの概念が簡単に定義しきれないからこそ、何度も読み返す価値がある。
しかし、試験ではそうはいかない。曖昧さは、得点にならない。むしろ、曖昧さは失点の入口である。わかった気がする、見たことがある、たぶんこうだったと思う。この「たぶん」が危ない。読書においては思索の余地であったものが、試験においては誤答の温床になる。ここが、読書と試験勉強の決定的な違いである。
それでも、読書経験は社労士試験に確実に効いている。
まず、長文耐性がある。これは大きい。試験勉強をしていると、解説を読むだけで疲れることがある。法律科目は、用語も固く、制度も入り組んでいる。一般の文章のように、感情や物語が手を引いてくれるわけではない。だが、私はこれまで、もっと抽象的で、もっと遠回りで、もっと読者に不親切な文章をいくらでも読んできた。だから、社労士試験の文章が長いからといって、それだけで心が折れることはない。
次に、構造を読む力がある。読書を続けていると、文章の表面だけでなく、その背後にある構造を見る癖がつく。この著者は何と何を対比しているのか。どの概念を中心に置いているのか。どこで話が転換しているのか。どの言葉が結論を支えているのか。こうした読み方は、法律の勉強にもそのまま応用できる。条文や制度説明も、ただの情報の羅列ではない。そこには、主語、条件、効果、例外、手続、期間、主体がある。つまり、構造がある。
そして、社労士試験では、この構造を見抜けるかどうかが重要になる。単に「覚えているか」ではなく、「何と何を区別すべきか」が問われる。似た制度、似た語句、似た数字、似た届出。ここで混同すると失点する。だが、読書で鍛えた構造把握の力があれば、少なくとも、どこが似ていて、どこが違うのかを整理する土台はある。
もちろん、読書をしてきたからといって、社労士試験に自動的に受かるわけではない。ここを勘違いしてはいけない。読書経験は、あくまで土台である。読めることと、点が取れることは違う。理解できることと、正誤を切れることも違う。さらに言えば、面白く読めることと、合格点に届くことはまったく別である。試験は、読書家に優しい場所ではない。試験は、覚えている者、切れる者、再現できる者に点を与える。
だから、いまの私は、読書家としての自負をそのまま試験に持ち込むつもりはない。むしろ逆である。読書で培った力を、試験用にかなり乱暴に圧縮しなければならないと思っている。読解ではなく、即答。解釈ではなく、判定。余白ではなく、固定。文学的な味わいではなく、制度上の効果。哲学的な問いではなく、選択肢を切るための条件。ここに切り替えなければならない。
その意味で、最近の私は、読書日記を書いてきた自分と、社労士試験に向かう自分が、ようやくつながってきたように感じている。
読書日記を毎日書き続けるということは、単に本を読んだ記録を残すことではなかった。読んだものを、自分の言葉に変換することだった。わかったこと、わからなかったこと、引っかかったこと、納得できなかったこと、妙に残った一文、考えが変わった箇所。そういうものを、毎日少しずつ言葉にしてきた。これは、ある意味では、ずっと「カード化」をしてきたようなものでもある。もちろん、試験用の暗記カードとは違う。しかし、読んだものを自分の中で再構成し、次に使える形にするという点では、同じ筋肉を使っている。
社労士試験の勉強も、結局はこれに近い。過去問を解く。間違える。解説を読む。どこで切るべきだったのかを見る。制度の構造を確認する。次に同じような肢が出たときに反応できるよう、カードにする。曖昧なところを潰す。反射できるまで繰り返す。これは、読書日記の実務版である。読んだものを味わうのではなく、読んだものを試験で使える武器に変換する。そこに違いがある。
いま私は、社労士試験について、文章量に対する恐怖はかなり薄れている。むしろ、ここまで読んできた人間が、文章の量で負けてどうするのか、という気持ちがある。長い文章なら読める。制度説明も読める。過去問の解説も読める。ならば、あとは覚えるだけである。正確に覚える。雑に覚えない。似たものを混同しない。数字を落とさない。主体を取り違えない。例外を忘れない。試験で聞かれる形に変換する。
ここから先は、文学的な読書体力ではなく、試験用の記憶体力の勝負になる。
読書は、長く続けるほど、すぐに役立つとは限らないものを自分の中に積み上げていく営みである。いつ使うかわからない言葉、どこで効いてくるかわからない概念、何年も経ってから急に意味を持つ一節。そういうものを、無数に抱え込んでいく。私はこれまで、そのような読書を続けてきた。すぐには得点にも収入にも資格にもならない読書を、毎日続けてきた。
しかし、いまになって、その読書の蓄積が、思わぬ形で社労士試験の土台になっている。長く読む力。戻って読む力。構造を見る力。文章に粘る力。わからないものをすぐに投げ出さない力。読んだものを自分の言葉に置き換える力。こうした力は、直接点数になるわけではないが、試験勉強を継続するうえではかなり効いている。
ただし、ここで満足してはいけない。読書体力があることは、有利ではある。しかし、それだけで合格できるほど社労士試験は甘くない。読める人間が落ちることもある。理解しているつもりの人間が、数字と要件で落とされることもある。試験は、読書量を評価してくれない。過去に何冊読んだかも、何年読書日記を続けたかも、採点者には関係ない。試験当日に、正しい肢を選べるかどうか。それだけである。
だから私は、ここからさらに読書の力を試験用に変換していく。長く読む力を、速く正確に読む力へ。考える力を、判断する力へ。解釈する力を、選択肢を切る力へ。言葉を味わう力を、言葉の違いを見抜く力へ。読書日記で積み上げてきたものを、今度は社労士試験という具体的な場面で試すことになる。
読書は、遠回りに見える。しかし、遠回りのように見えたものが、ある日突然、最短距離の土台になることがある。私にとって、いまの社労士試験勉強は、まさにその感覚に近い。これまで読んできた長い文章、考えてきた複雑な問題、書き続けてきた読書日記。そのすべてが、いまになって「読むことに負けない身体」をつくっていたのだと思う。
もちろん、最後に残るのは暗記である。ここは逃げられない。制度趣旨を理解しただけでは足りない。構造が見えただけでも足りない。読めるだけでも足りない。覚え、保持し、再現し、試験で切る。そこまで行って、はじめて得点になる。だから、私はいま、社労士試験を「読めるかどうか」の試験ではなく、「覚えきれるかどうか」の試験として見直している。
そして、その暗記の土台に、読書がある。
読書日記を続けてきたことは、無駄ではなかった。むしろ、こういう形で効いてくるのかと、いま少し驚いている。長く読むこと。毎日読むこと。考えながら読むこと。書きながら読むこと。それらは、資格試験とは関係のない営みのように見えて、実はかなり深いところでつながっていた。
社労士試験は、簡単ではない。だが、少なくとも私は、文章量に押し潰される側にはいない。長い文章なら読んできた。難しい文章にも食らいついてきた。ならば、あとは制度を覚え、要件を固め、選択肢を切るだけである。
読書日記を書き続けてきた人間が、ここで暗記から逃げるわけにはいかない。読んできた者として、今度は覚えきる者になる。読書の蓄積を、試験の一点一点に変換していく。その作業を、しばらく続けることになる。
読書と試験勉強は、別々のものではなかった。少なくとも私にとって、社労士試験は、読書日記の外側にあるものではない。読書日記の延長線上に、いまこの試験がある。読むことを続けてきた人間が、読むだけでは足りない場所まで来た。では、その先で、私はどこまで覚えきれるのだろうか。